磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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生きる-東日本大震災から一年 写真集-

2012年06月07日 | 読書日記など
『生きる-東日本大震災から一年 写真集-』
   日本写真家協会・編/新潮社2012年

帯に書かれてあります。下「」引用。

「あの日を身体で、こころで感じた私たちは
語り継いでいかなくてはならない。
それが“生きる”ことの証しでもある。
生きる。生きよう。生きている。
そんな声こそが、この写真集の一番の望みのように思える伊集院静」



「原発の不安」1971年1月17日。 下「」引用。

「宮城県女川町は、
金華山沖の漁場をひかえた活気にあふれた漁村。
1967年、ここに東北電力が
原子力発電所の建設を計画。
賛成する町長派と反対を主張する漁民は
激しい対立を続ける。
1971年1月17日、
女川港に2000人が集結し、
集会の後、町内をデモ行進して町役場に向かった。
漁師の妻たちも抗議文を記した幡を掲げて
大勢参加し、抗議の意志を示した。」

「原子力の隣で」1977年5月。 下「」引用。

「下北半島の中ほど、
地図で見るといちばん細くなっているあたり、
六ヶ所村に隣接している集落。
このあたりは、「むつ小川原原発」という
国家的プロジェクトのもとに巨大な開発が行われ、
石油備蓄基地、核燃料サイクル施設、
東通原子力発電所などの大きな施設が建設された、
日本のエネルギー事情が集約された場所。
そのための新しい道路がたくさん作られ、
訪れる度に道に迷った。
農場であそんでいる子供たちをみつけ近づいて行ったら、
人見知りもせず機嫌よくあそんでくれた。
「生れたばかりの子牛がいるよ」と
少し離れた小屋も見せてくれた。
今は大人になって農業に携わっているのか、
工場に勤めているのか……いずれにせよ
「フクシマ」の大事故にはとても他人事とは思えない
怖さを感じているのではないだろうか。」

「放射能の恐怖」2011年4月8日。 下「」引用。

「防護服に身を包んで、汚染地域での遺体捜索。「原発事故が起こらなければ、すぐに捜索を始めることができ、生存者を助けられたかもしれないのに」と、福島県警の捜索隊員が言った。」

3月11日生れの赤ん坊 2011年8月6日さいたま市で撮影。 下「」引用。

「2011年3月11日
15時13分生まれ
川口陽生くん
陣痛の最中に地震は起きた。母・川口由紀子さんは、慌てて陣痛室から病院の駐車場に非常階段で避難した。駐車場のクルマのシートを倒し、毛布を敷いて、急作りの分娩室のができあがった。助産婦さんが、タオルを、病院まで戻って探してきてくれた。「先生や助産師さんが落ち着いていて、ほんとうに助けられた」と、由紀子さんは振り返る。お湯はなかったので、沐浴はできなかった。生まれた時刻を忘れないようにと、先生が、マジックで陽生くんの足に書いてくれた。この日、たくさんの方が亡くなったので、無事に生れてきてくれて本当にありがとうという気持ちを込めて、名前には、「生きる」という字を入れたかったという。」

3月11日生れの赤ん坊 2011年8月11日福島市で撮影。 下「」引用。

「2011年3月11日
15時26分生まれ
橋本栞ちゃん
震災が起きたとき、母・橋本幸枝さんは、陣痛室の中にいた。同じ病院にいた川口由紀子さんと同じように、駐車場に緊急避難し、クルマの中で出産した。福島の原発のことはニュースで知ったが、そのときは、それどころではなかったし、こんな風になるとは思いもしなかったし、こんな風になるとは思いもしなかった、と幸枝さんは振り返る。現在は福島市で子育てをしている。「栞ちゃんにどんな未来を迎えてほしいですか?」という質問をすると、しばらく考えた後、「あたりまえに過ごせるっていうのが一番良いですよね」と言葉を選ぶように答えてくれた。名前の「栞」には、目印、道しるべという意味もある。「3月11日以降、この子が、ほんとうに道しるべになったような気がする」と幸枝さんは言った。」











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