磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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宮原地域を中心とした 語りつぐ戦争の体験

2008年03月24日 | 読書日記など
『宮原地域を中心とした 語りつぐ戦争の体験』
   サークル語り部みやはら・編/
     サークル語り部みやはら1982年

戦争を語りつぐことに何か問題があるのでしょうか?
戦争は民主主義の敵だとボクは思います。積極的な平和は構造的暴力をなくしていくことであり、「戦争は究極の差別」ですね。



「はじめに」で、こんなことが書かれてありました。下「」引用。

「文集作りは当初宮原公民館で企画され、館報五月号の編集員募集によって集まった地域住民九名と、公民館との共同作業として進められてきました。
 しかし、作成途中で突然「中止命令」が公民館長から申し渡され、編集委員会は解散ということなったのです。
 「語り部みやはら」という自主サークルの形で再出発はしたものの、今自分達が暮らしている地域でのことですからなおさらのこと、その後の行動に対する決断は戸惑いと苦渋を乗り越えねばなりませんでした。一時、「公民館の使用禁止」などという事態もあって、薄氷を踏む想いを抱きながら、私達の気持を説いてまわったことも再々でした。」

どうしてなのでしょうね?


--食糧事情が悪く、赤ん坊を背負った母親。
しかし、売ってもらえず泣きながら歩いていたという。
少ない芋をあげ、赤飯をあげたという。
母は泣いて赤飯がのどを通らなかったようだという……。

兄を失った人の文章もありました。下「」引用。

「しばらく経って、その兄の戦死の報が届いたのです。兄は嫁さんと、五才、三才の二人の子供を残したまま帰らぬ人となりました。両親と義姉の慟哭する姿は、子供心にも私の胸に痛切な思いを残しました。」

東京大空襲の想い出も書かれてありました。下「」引用。

「米問屋では、鈴なりになっている人の後で、必死に米をかきあつめてきましたが、結局、こげくさくって食べられませんでした。」

長崎原爆のことも書かれてありました。
「目の前に大きな美しいキノコ雲を見た-長崎が灰になった日-」
--父に赤紙が来ていたが行かずともすんだという。下「」引用。

「おとなりのおじさんは、戦場へ行くのはいやだ。死ぬのはいやだと言いながら出征したのをおぼえています。」

広島原爆のことも書かれてありました。下「」引用。

「幼児二人を連れて私の苦しい人生の始まりです。幸い両親が子供を見てくれるとの事で、ようやく見付けた教員の仕事に新しい生活の糧をうる事が出来ました。今六十才を過ぎて過去をふり返ってみた時、私は戦争によって自分の人生が変えられ、考えてもみなかった一生を送るようになったのだと云う事です。」

大宮の空襲……。下「」引用。
「昭和二十年四月十三日の夜、これが大宮の街がB29によって爆弾を落とされ、燃えた晩である。
 私はその時、女学校の二年になったばかりであった。幸いなことに私の通っていた学校は動員などで閉鎖されることもなく、かろうじて授業も続けられ、通学の途中で空襲警報に会い電車から飛びおりて避難したりしながらも毎日浦和まで通学していた。」

機銃掃射で……。下「」引用。

「三鷹の中島飛行機を爆撃に行く途中のB29を窓から首を出して見上げていた人が、機銃掃射で首だけが吹っ飛んでしまったのを見たことがあったけど、首だけがなくて体はきれいなまま、ちゅんとあるなんて信じられる?。」

シラミを取り合ったという。下「」引用。

「お風呂にも入れず、シラミがわいてサルみたいに皆で取り合ったのよ。」








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