オセンタルカの太陽帝国

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柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

揺るがす者の寺院(続)。

2014年05月18日 19時16分47秒 | 遠州の歴史


“天狗の町”春野の天狗探訪のつづき。
「日本一の大天狗面」のすぐ北側には大きな流れの気田川があり、そこに架かっている橋が宮川橋。この橋は、天狗の飾りが施されているので通称「天狗橋」と呼ばれております。赤が鮮やかでなかなか愛らしいでしょ。もちろんすぐそばにある大天狗面を模してある。平成3年3月の架橋ですって。



こんな感じの橋。気田川はとても気持ちの良い川で、幅は広いけど天龍川よりは安全そうで、夏になったらとても賑わいそうな川です。河原が広い。
当然、橋の反対側にも天狗はおりますよ。



「なぁんだ、同じ天狗か」と一瞬思いましたものの、上げてる片足が違う。バックの色が違う。(間違い探しか)。何より見える景色が違うので、川の南側の天狗とは違う印象も受けました。

その少し向こうに「気田(けた)」の町があります。
恥ずかしい話ですが、春野町の歴史について書いてある本を全く持っておらずこの地方の歴史がさっぱり分からないのですけど、春野町はとても広い町で、気田川沿いに集落が点在している。歴史的に地域の中心となっていたのは鎌倉時代からこの土地を支配していた天野氏の住まう秋葉山下の「犬居(いぬい)」の町だったと思う。でも、実際に行ってみると「気田」の方が中心地っぽい雰囲気を感じますね。おそらく犬居は戦国城下町そのままで地形の高低差をそのまま活かして狭く入り組んでいる。気田は土地が広い。でも、気田の集落の歴史ってどうなっているのかしらね。いつ頃から栄えていたのかしら。
子供時代の頃、浜北の低湿地で暮らしていた私は「気田(けた)」と「気賀(けが/きが)」が頭の中でこんがらがってわけがわからなくなってしまったものですが、そんな私が好んで気賀に住むようになるなんて、何をどう想像できただろうか。なお、合併前の旧春野町時代は、春野町の役場は犬居と気田の中間にある「宮川」(大天狗面のある地域ですね)の現・春野協働センターの場所に存在していたそうです。
そしてそして、私はドライブが大好きで良く天龍川を逆昇って春野のあたりまで遊びに来ていましたが、宮川橋より北へは行ったことが無かったのでした。だって用事が無いもん。

今日は初めて、気田の町を訪れようというわけでした。



目的は「天狗饅頭」。天狗の饅頭を扱っている3店舗の内の一軒が気田にあるのです。「本多屋菓子舗」。
おお、先程の月花園以上に何とも歴史を感じさせるお店だ。しかし、店頭から店内を覗いてみると無闇に入りづらいような風情があり、目を良く凝らしても天狗的な何かがありそうな気がしなかったので、逃げ去りました。私は意気地なしだったのです。気田おわり。(え?)

春野は「天狗の町」とは言いながら、天狗成分が充満しているのは宮川橋以南です。その北にはほとんど天狗が見られない。その中でこの本多屋菓子舗だけが例外。いずれまた饅頭を見付けに来たいですね。

続きまして向かいましたのが、春野町図書館。
調べたいことがいっぱいありましたからね。



図書館と一体化している「歴史民俗資料館」にあった犬居城の模型。立派です。



犬居の支配者は鎌倉時代に源頼朝の腹心であった天野藤内遠景の子孫たちです。伊豆の遠景の晩年は不遇であったとウィキペディアに書いてありますが、遠景の息子の政景が承久の乱での功績によって全国各地に分かれた土地を貰い、それぞれに係累を住まわせました。秋葉山下の天野氏の歴史は伝説的なものが多いのですが、確実な史料の初出は後醍醐天皇の綸旨。南北朝の動乱に際して、天野氏は新田の配下として鎌倉を攻め、後醍醐の忠臣として全国を転戦し、宗良親王を厚く崇拝して井伊と共に親王を守り立て、足利尊氏の配下として井伊谷城攻めに参加したそうです。なんやねん。
秋葉山下にあって修験勢力との結びつきは強かったものと思いますが、「犬居(犬が居る)」という地名自体が山嶽信仰との関わりがある。戦国時代には「犬居」は「乾(いぬい)」とも記されますが、「乾=北西の方角」はどこから見て乾だったんでしょうね。一時期、とても深い関わりを持った今川義元から見て北西なのかも。
戦国時代初期の秋葉山がどういう状態だったのか、定かではありません。というか、確実な史料は戦国時代後期の徳川氏と天野氏の抗争のときまでありません。つまり、武蔵国出身の茂林光幡(熊谷浄全)という武家うまれの修験者がいて、彼は全国の霊山を巡り歩いたあげく、十代の徳川家康と知り合い(場所は可睡斎で、とされる)桶狭間の年にその配下となる。雄山閣の『秋葉信仰』の監修者・田村貞雄氏の記述が詳しいのですが、家康と光幡は16歳差で光幡が年長。
今川義元が死んで天野氏は今川を見限ることに決めるのですが、そこに家康の使者として茂林光幡がやってきます。話し合いの結果、天野氏は徳川家康の傘下に入ることを了承。家康遠州侵攻の翌年の永禄12年(1569年)のことでした。
この功により、茂林光幡は秋葉山別当(第二十四世)に就任。
実は修験の山としての「秋葉山」の名は、このとき家康が光幡に与えた安堵状が初出なのです。
これが「秋葉山三尺坊の正体とは戦国時代の叶坊光幡なんじゃないか?」といろんな人が考える原因です。

大事なことは、
(1).茂林光幡は秋葉寺の「第24代住持」とされているが、それ以前の秋葉の住職について分かることは名前のみだということ。(初代住職(開基)は行基大菩薩です)
(2).茂林光幡が永禄以前に「秋葉の修験者」だったという証拠も全く無いこと。
(3).茂林光幡は「叶坊(加納坊)」と名乗るようになるが、この名の由来が定かでは無いこと。一般には「浜松城のすぐ近くに秋葉を勧請し、その坊に因んで“叶坊”と呼ばれた」となるが、三組町秋葉神社の社伝によると「叶坊」の勧請は天正年間(1573年以降)。それ以前の元亀3年(1572年)に犬居城の天野景貫は寝返って武田信玄の忠実な家臣となっています。元亀元年(1570年)に家康が上杉謙信に使者として光幡を送ったとき、彼の名乗った名は「権現堂叶」。(この権現堂とは、彼が出家前に寄食していた鎌倉の「光明寺権現堂」だそうです)
(4).天野景貫がおとなしく家康に従っていたのはたった4年間です。そこから激しい「犬居戦争」が始まり、最終的に収束したのは4年後。この間、別当の茂林光幡は秋葉山へ近づくことが出来なかったと思われますが、他の「秋葉修験の勢力」はどういう動きを見せていたのでしょうか? 天野に味方する「秋葉僧兵」もいたのかな。
(5).天野氏は秋葉権現を信仰していたのかどうなのか。当然していたに決まってる。犬居落城前に穴山信君の指揮下に入った天野景直(系図に見えない名。景貫の次男の小四郎虎景/景広と同一人物?)は清水に秋葉山本坊峰本院を建てていますし、江戸時代に随筆集『塩尻』を書いた尾張藩士の天野信景は、「先祖代々の秋葉信仰」の話を度々書いています。
(6).関係無いですけど、天野遠景から数えて天野宮内右衛門尉景貫は11代目。さかのぼること400年前に天野遠景は源頼朝から「伊豆の藤内遠景は、奉公他に事なる(異なる)間、遠景10代、頼朝10代、いかなる不思議ありと言ふとも、咎に行なわるべからず。これは不憫(不便)に思しめすが故なり。文治2年7月10日」というお墨付きを貰っていたんですよ。11代目に天野家が滅ぶっていうのもなかなか感慨深い話ですね。言った当人の右大将家はとっくの昔に滅び去っていますけど。(天野氏の系図は幾種類かありますが、私は犬居城址顕彰会発行のを参照してます。神谷昌志氏も同じのを採用している)
(7).「どちへんなし」ってどういう意味? 犬居の天野家とは別系統ですが、三河の天野家である天野康景は「どちへんなし」って言われてたんですよ。「仏の高力、鬼作佐、どちへんなしの三郎兵衛」って。その「どちへん」は人によっていろいろな解釈されているのですが、「公平な」とか「偏りのない」とか「慎重な」とかいうのが一般的でしょうか。でも川實記によるとどちへんなしは漢字で書けば「何方辺無」、つまり「どこにもいない」ですよ。「仏でも無ければ鬼でも無いどこにいるか分からない人」ということはつまり天野康景は狐や河童、いえ!天狗だったのではないでしょうか!(強引なこじつけ)
(8).「茂林光幡」って何て読むの? 私は自然に「もりんこうは」って読んでましたけど、検索してみたら「幡」の字に「は」の読み方は無かった。神谷昌志氏の御本では「かのうぼうこうはん」とルビがふってあります。もしかしたら「しげばやし みつしげ」とか「もばやし てるまさ」とかいう侍名かも知れず、さらに一説として「森林光幡」とか「光播」と書いてある本もあるので、謎は深まっていくのでした。群馬県のタヌキで有名な茂林寺とは何か関係があるのかな。なお秋葉寺53世藍谷俊雄師の御本『三尺坊』には「茂林光播(永禄年間 寂)」という文字があります。



春野の図書館で分かったこと。『広報はるの(縮刷版)』より。

・昭和61年3月、「日本一の大天狗面」設置。
・昭和61年4月20日、第一回はるの大てんぐまつり開催。
  その後、何年か大天狗まつりが大盛況の記事がありますが、現在はやっていない?
  「天狗面設置除幕式」
  「バーベキューセット無料貸し出し」(食材は自分で用意)、
  「天狗もちなげ」「天狗ステージ(カラオケ大会)」「天狗講和」
   カラオケの優勝者には「大天狗(大人)」「小天狗(子供)」の称号が。
  「小天狗コーナー(子供達に大人気のファミリーコンピュータゲーム大会)」
   などがありました。
・昭和61年4月、気田の酒井さんから「もうひとつの大天狗面」寄贈。
   縦1.2m、鼻の高さ60cm。
   ・・・これは現在文化センター内に飾ってある天狗でしょうか。又は大面横の小屋の中のかな。
・昭和61年10月、秋葉神社上宮本殿再建。
・昭和62年1月、町制30周年を記念して、「第16回駅伝大会」を「天狗の里駅伝」と改称。
  (※現在も継続。2014年が第41回。「天狗駅伝」としては第26回目)
・昭和62年4月21日国道362号線の長沢バイパス完成、昭和64年4月犬居バイパス完成予定。
   アンケートによりこの2つの区間の愛称を「秋葉天狗街道」に決定。
・平成元年5月号、「天狗街道」PRのために3枚の道路看板を設置。
・平成元年9月号、「里原天狗市の一年」記事。(※現在はどうなっているか不明)
・平成2年4月号、犬居小の6年生がプールに天狗の壁画を描く。
・平成2年5月号、「天狗のげたモニュメント」完成記事。
・平成2年10月30日、秋葉神社上社の参道・狛犬・大鳥居の完成除幕式。
  (天皇陛下即位を記念して建造。総工費2億円)

・・・ちょっと調査が不十分だったかも。(数年分読むだけで疲れた)
何がきっかけで誰が言い出していつ頃に「春野を天狗の町にしよう」と決めたのかを知りたい。
秋葉神社の再建と大天狗面設置が契機のひとつとなったのは確かなことですが、大天狗面のところにある看板を読むとそれ以前に町の天狗化の動きがあり、その流れで神戸から大面を貰ってきたそうであるので、それ以前のことも知りたい。でも疲れてしまって昭和61年以前の分は今日は読めませんでした。また読みにきます。

春野における「天狗」とは、決して秋葉山三尺坊のみを指しているものではなく、むしろ周到に宗教色は排されています。30年も前に(今から見れば不十分ながらも)テングのキャラクター化を図っていたことは注目すべきであるでしょう。しかし、どこを見ても「この町にとって天狗とは何か」「天狗の町とは何であるべきか」という事は語られていない。「春野は天狗が作った土地だ」とも「春野には天狗がまだいる」とも「春野人は天狗の子孫である」とも「天狗的生き方をすれば幸せになる」とも「春野の天狗の山はコレとコレとコレ」とも「鼻が長いと便利だ」とも「みんな天狗になるべき」とも「山と一体化しよう」とも「火事ダメゼッタイ」とも「春野は民話の里」とも「天狗的社会が未来的社会の理想型」とも「天狗は茶が好き」とも、そういうことは全く言っていない。
要は「山の幸と川の恵みに満ち溢れた里」「天狗は元気」、それが「天狗の里」なのであります。

それにしても「秋葉天狗街道」は新・光明山ふもとの「春野(国道362号)と佐久間(国道152号)への分かれ道」の入口から「日本一の大天狗面および天狗橋」までの約22kmぐらいの間を言うのかと思っていましたら、「峯小屋トンネル」から犬居城そばの「若身橋」までだったんですね。(長沢バイパスと犬居バイパス工事を記念して名付けられた愛称だから)。道理で大天狗面の付近には看板が無いと思った。この2つの道路が無い時代に春野まで遊びに来る苦労を思うと、愕然としてしまいます。ぶるぶる。昔の人は大変だ。

あと、一つ感心したこと。
さすが天狗の里春野町。
図書館に知切光歳の『圖聚天狗列伝(東日本編)』がありました。
天狗列伝の置いてある図書館、初めて見たぜ。
が、この本、古書でも高いし、かさばるのです。この図書館でも、東西セットではなくて、東日本編しか無かった。
そして、とても残念なことは(内容を読まねば分からないことなのですが)
知切光歳は、静岡の天狗は「西日本の天狗」に分類しているのでした。
だから、春野の秋葉山三尺坊は、この本には載っていない!
(新潟の秋葉山三尺坊は「東日本編」に収録されていますよ)

また、『天狗の研究』もありました。



そこから秋葉神社の下社へ。
この坂、死にそうになりながら登った記憶ばかり思い出すなあ。もちろん、今日の私は極めて健康です。
秋葉神社の下社はこじんまりとしていて、ほとんど見る場所が無いのですが、建物が新しくてピカピカしている上社に対して、こちらは古びていてぼろぼろなのが、却って良い感じのお社であります。「秋葉神社」と「秋葉寺」は現在きっちりと分離していて、神社の方は天狗色を断固として排除しているはずなんですが、よく見るとささやかに天狗を飾っていたりするのは見所です。





この拝殿って何なんでしょうね。(何も無い)
秋葉山の祭神は遙か遠い山頂におわすので、山頂の方角に向かって座って拝む為の施設なんですかね。この段を昇って戸を開けると、向こうに何があるのだろう?(祭日に来ると分かるのかも知れない)



売店にも天狗グッズが豊富なのですけど、この日はもう17時半を過ぎてまして、すでに店仕舞いされていました。



手前のこの砂場って何をする場所なんでしたっけ。火渡り?(まさかね)



それからこれ。これ何だっけ?(大きな雪かき用のスコップをひねったものみたいのが上から吊り下げられている) ・・・叩いて音を出すもの?

神社の手前から気田川原に下りてみます。



下社の前の川原はキャンプ場になっていまして(川遊びも自由に出来ますけど)まるで「海の家」ならぬ「川の家」みたいな感じです。
ここも随分気持ちの良い川原ですけど、気田川は全体的にどこも気持ち良くて、そこら中にキャンプ場がある。野宿なんていちいちお金を払う必要のないところでやれば良いじゃんと思うのですけど、お金を払ってまで泊まる施設のある場所ってのは、すば抜けて景色が良くて、お金を払うのが惜しくも無いくらいのところなんですよね。

秋葉山麓の川原は川天狗の伝説が多く、「夜になると天狗が山から降りてきて魚を捕る」伝説がいくつもあるのです。場合によっては遠州灘にまで飛んでいきます。

「駿遠州へ至りし者の語りけるは、天狗の遊びとて、遠州の山上には夜に入り候へば時々火燃えて遊行なす事あり。雨など降りける時は、川へ下りて水上へ遊行なす。これを土地の者は天狗の川狩に出たるとて、殊の外慎みて戸などをたてける事なる由。如何なる事なるや、御用にて彼地へ至りし者、その外予(=著者・南町奉行根岸鎮衛)が召仕ひし遠州の産など語りしも同じ事なり」(『耳嚢』巻之三、天明・寛政の頃)
「遠州海辺に天狗火と云ふものあり。土人これに逢ふ時は甚だ恐怖叩頭拝伏して、あへてみる事なし。遠方に現ずれども人一度呼ぶ時はたちまち眼前へ飛び来る。この火にあふもの多く病悩すと云ふ」(『譚海』巻二・巻九、天明・寛政の頃)

どちらも文中に秋葉山の文字がありませんが、両方とも秋葉の怪異について述べたものです。
「秋葉山の山頂から下りてくるとしたら、どのあたりが一番便利で一番魚が捕れやすいのかな」ということを川原で見て較べてみたいと思ったのですけど、まあ、素人にそんなこと分かるわけがありませんわね。いちいち見に行くと気田川はどこだって絶好条件なのです。地理的な近さで言ったら実は「日本一天狗面」のある付近が一番近い。川幅も広い。が、天狗だって宗教者の端くれ、信仰心に篤い人たちが千年使った秋葉寺の参道を丁寧に下って川邊に出ようとすれば、領家という集落があるんですけど、その付近の気田川は人の気配はあまり感じられず淵は深い。でも、天狗ってのは人を驚かせてなんぼなのだから、人に見えるように降りるとするとやはりこの秋葉神社下社から人口の多い犬居の里の辺りになるんじゃないか。一方で、魚がよりたくさん獲れそうなのは気田川と天龍川が合流する千草の渡河点付近、もしくは少し上流の東雲名・西雲名の付近、もしくは誰も知らないような淵に好漁場がありそうな気もしますよね。秋葉ダムに沈んだあたりとか、「鮎釣」の集落の大カーブ地点とか、明神峡とか、怪しいところが他にもいっぱいあります。
「漁をする天狗を見ると、目が潰れる」と言います。
あるいは「片目の魚を見付けたら、それは狗賓様の獲物なので決して捕ってはいけない」とも。
天狗が出るのは雨の日の晩なのですよね。実は川原のキャンプ場って凄く危ないんですよ。(台風の日に田んぼを見に行ってはいけない、と同じ意味の戒めなのだろうか)。そうかっ、雨の日にキャンプに来ればいいのか。良いですね、いつでも出動できるように七輪と木炭を準備しておきましょう。(テング火見てみたい)



下社前の川原は、眼前の光明山の山影となってすぐ日が落ちる感じです。キャンプ場は800円。

・・・もう夕方です。
今日はあと春埜山に登って、それから新光明山にも行って、という計画を立てていたのですけど、計画倒れに終わってしまいました。今日はこれでおしまい。
帰りに、西鹿島に寄りました。



天狗研究の第一人者として今をときめく早瀬狗王(秋葉山三尺坊総本部長)氏が1994年に出した画集『天狗百態』の解説に、西鹿島駅の近くに「テングー・ランド国際天狗山の神資料館」というのがあると書いてあるのですけど、それが今どうなっているのかと思って。その本には「薬局の店内にコーナーを作って約500点の民芸品(面、土鈴、絵馬、置物、掛け軸、絵他)を展示している。但し将来的にはしかるべきところに寄贈して本格的な資料館にするつもりである」と書いてあったんですけど、その薬局ってこのお店ですよね。残念ながらこの日はもう店終いされており、また店頭には資料館の説明とか案内とかそういうのは一切見受けられませんでした。残念。でも、浜松には一般人の天狗の研究者の方がいっぱいいるってことです。いつの日かそういう人達とお知り合いになれるよう、私も頑張りましょう。
以前、「笑喜家」や「精進」のあった於呂のあの場所に、新しいラーメン屋が準備中なのを見て帰りました。



2日後(5/15)、再び天龍川へ向かいます。
今日は、光明山笠峰坊/利鋒坊のおわす旧天竜市の光明山へ。



大天狗・光明山笠鋒坊(こうみょうさん りゅうほうぼう)はおそらく、大総帥・秋葉山三尺坊が誇る「74人の眷族」のうちの筆頭なのです。
光明山(539.7m)は秋葉山(885m)のすぐ南にそびえ、江戸後期に大流行した「秋葉詣で」には光明山にのぼり光明山の摩利支天に参拝してから秋葉山にむかうのが一般的でした。
開基は秋葉山と同じ行基菩薩。伝説では摩利支天の神託を受けた行基が光り輝く山に入って摩利支天と虚空蔵尊の石像を彫って寺を建てた後、1年後にさらに北へ歩いて秋葉山を発見したと伝わっています。
元亀3年の犬居城合戦では秋葉山に武田信玄が、光明山に徳川家康が陣し、山頂から盛んに矢を打ち合ったと伝わりますが、伝説上のその陣はおよそ6km離れているので「東海一の弓取り」と呼ばれたさすがの家康でも実際は届くか届かないかのところだったと思います。ただ、徳川家がこの山を大事にしたのは確かなようで、秀忠と家光が寄進して建てられた大伽藍は諸国に有名だったと言います。が、明治9年と昭和6年に二度にわたって大火災が起き、すべて焼失したので昭和14年に山東地区の現在の位置へ移転再建しました。火坊天狗の山が何度も大火事に遭うのは遠州地方の伝統的な風習です。

自分の中でひとつ解せなくなっていることがありまして、光明山の天狗の名前は「利鋒坊(りほうぼう)」とも「笠鋒坊(りゅうほうぼう)」ともいうんですが、前に「魅惑的な遠州地方の天狗」 の地図を作っていたとき、5年ぐらい前の私はこの二人をハッキリと「別人だ」と断言したんですよね。それにはそう結論づけるに足る何か明晰な理由があったはずなのですが、今の私にはそれが何だったのかいまいち思い出せない。
「利鋒坊」の説明があるのは知切光歳の『圖聚天狗列伝』。彼はこの名を宝暦の頃の書『天狗名義考』(名古屋の人・諦忍が書いた)から引用しました。
ところが本に「利鋒坊」という名前を書くのは知切師のみで、浜松在住の人は大概この天狗のことを「笠峰坊」と書いている。おそらくこれは、現地在住の知識人・兵藤庄右衛門の書いた『遠江古蹟圖繪』を資料にしているからじゃないかと思うんです。
知切師は『天狗名義考』の利鋒坊について、「名前以外には何も記していない」と書いてあるのに対して、僅か50年後の『圖繪』には庄右衛門による詳細な笠峰坊の解説があるのですから、これを対比して「利鋒坊と笠峰坊は別人だ」と私は思ったのかな。「利鋒」は「鋭く尖った槍のようなもの」という名前なのに対して、「笠峰」は「笠のような山の頂上付近の形」という意ですしね。(光明山の標高は低く、笠のような見た目です)
現在でも、利鋒坊と笠峰坊の違い(あるいは同定)について書いてある本はありません。

でも、改めて『遠江古蹟圖繪』を丁寧に読んでみますと、兵藤庄右衛門のお寺の記述は詳細なものの、その守護神である天狗については「権現祭は9月28日、湯立、ならびに神楽有り。27日夜七十五膳あり。秋葉同様なり」とあるのみで、全然記述は詳しく無かったのでした。私は、「知切師は遠江古蹟圖繪を読んだことが無い」と思っていましたけど、実は読んだ上で「名前以外には分かることが無い」と断言していたのかも知れない。
私の誤解の原因は、現在光明寺が説明している笠鋒坊の説明がとても詳細だったからだと思います。昭和15年に光明山31世甘蔗明道師が記した『光明寺年表』というのがあるのですが(お寺の受付で買える。500円ぐらいだっけ。でもここは平日は人がいないので気をつけて)、その冒頭に「養老元年、僧行基勅詔を蒙りて当山を開創し、自ら本尊三満虚空蔵大菩薩ならびに摩利支真天および十一面観世音菩薩の尊像を刻作す。僧最傳なる者来たり随喜す。寺伝に云わく、光明山は天地開闢の始めより神明仏陀の守護し玉う霊場にして、昼は樹上に瑞気あり、夜は巖中より光明を現す。行基菩薩この奇瑞を見て歓喜に堪えず、壇塲に結界して虚空蔵菩薩の求聞持法を修しければ宝剣飛来して瑞応を空中に現す。また定中に観念を凝し、笠鋒坊権現の7千5百の眷属と俱に明星谷の森林に遊現し玉うて拝し、更に鏡山の巖下に坐して摩利支天の応現に接し神託を蒙る等の霊験多し」、さらに「天平5年、最傳数多の眷属を卒し来り住僧霊澄に告げて曰く、我常にこの山に住し長く群生を利済せん、と言い了って白雲に隠る。後に崇敬して、光明笠鋒坊と称し、世に大天狗と呼ぶ。これを以て皇国天狗の本地と云い伝う」、「大同元年、秋葉山の請いに応じ、当山より大権現の眷属75人を派遣し、約するに、月見の宴をなして帰らしむ云々と。而るに爾来秋葉にては月見をなさず、献詠者あるも月見の文字を憚ると」、「嘉永5年、山門の童沙弥、絶倒してすぐに起き、住持碓山に告げて曰く、われは是れ山護笠鋒坊大権現なり。更に摩迦羅神王(大国天)の像を造り国民の福祉鎮安を祈請せよと。これを幕府に告げて京師の彫刻師丹羽七郎右衛門に嘱して大国天を謹刻せしむ」などと書いてあるのを読んでいたから、勘違いしちゃったんですかね。知切師はさすがにこの『年表』は入手してなかったと思います。(おそらく知切師も平日訪れたんじゃないでしょうか。お札売り場に人が居なくても大丈夫、気を長くブザーを押し続ければ、人が出てきてくださいますよ)

注意するべきは、寺の正式な縁起では「笠坊」ではなく「笠坊」となっていることです。やはり尖った宝剣が名の由来なんですね。「笠」の字はどこから来たんでしょうね。

光明護国禅寺は、二俣の市街地の北のはずれにあります。
二俣という地名は、天龍川と二俣川が合流する地点の絶壁にお城(二俣城)があったから「川がふたつに分かれるところ」という意味で二俣と呼ばれるのですが、今では地形が変わり、川は全く二俣じゃなくなっているので、私的にはこの光明寺のある地点が秋葉山へ行くに当たって「佐久間側へ行くか(国道152号線)」「春野側へ行くか(国道362号線)」の分岐点となっているので「だから二俣なんだ」と思うことにしています。

「光明寺を名乗るからには新しいお寺も光明山のどこかに作るべきだったのに」と浅く思いますけど、改めて地形図を眺めますと、新しい光明寺の建てられた名も無いこの山も、実は光明山の一部だったりしたのでしょうかね。(大谷から船明にかけて掘削された?)



新光明寺入り口。新しいお寺なのに、すでに良い感じに苔むしています。
石段の上り口は「女厄除け坂」という名前が付いていますが、30段ほど登ると「男厄除け坂」と名前が変わる。
また朽ち果てた石仏もいっぱいある石仏寺でもあります。
この場所については寺伝(光明寺年表)にこうあります。「当山有縁の勝地・元光明。元光明は行基菩薩光明山開創以前に当所に草庵を結び、光明山と称し居ること暫くす。天正11年、二俣城主大久保七郎右衛門厚く帰依し、山林田地を喜捨し、行基初休の地に離刹を創立し、元光明山と称す。降って寛文10年宝林寺と改称し当山の門葉となし明治6年廃寺となる。故に(昭和14年の再建は)移転というよりは寧ろ帰元というべきなり」



正面にあるこの綺麗な建物が本殿だと思うでしょう?
でもこれは実は「大国殿」。金ピカの巨大大黒が中にいます。(平日は鍵か掛かっていて入れません)
本殿はどれかというと、背後の坂の上にある少し小さめの建物。



「三満殿」といって中に三満虚空蔵菩薩がおわします。(見れない)。
「三満」とは「智」「福」「威信」を満たすという意味ですって。


下の広場に戻って大黒殿の左後ろの味のある黒い建物。これが天狗の御真殿で、「光明殿」という額がかかっています。ただ覗いても「摩利支真天」という大提灯がぶらさがっているのみで、どこが天狗なのかさっぱり分かんない。唯一、紋が天狗のうちわでした。(モミジではない)





そして、絶対に行かねばならないのが背後の山の上の方にある「奥ノ院」。
これが、大したことない高さに見えるのに、登ってみたらめちゃくちゃしんどい。健康バリバリの今の私ですらしんどい。



なんだろう、とても低い山なんですよ。山頂でもないのに。
どうしてこんなに疲れるんだろう。こんなところにこんな建物を作っちゃうんだから、本当に信仰心ってすごいです。この建物には2階部分があるんですかね。(中から見上げると無いように見える)



「ここにこそ天狗を祀ればいいのに」と思うんですが、この奥之院の守護神は「三宝摩利支眞天」です。「摩利支天」ではなくて「摩利支眞天」。合戦の守護神。犬居城攻防戦の勝利を記念して家康から与えられた「家康の兜の中の御持仏」(どの兜だろう)の摩利支天の小像を安置していたのだそうです。(ただしその像は「以前盗賊が入って盗まれてしまったと住職が語った」と、遠江古蹟圖繪に書かれています。『光明山年表』にはその盗難事件についての記述がないのですが、天保14年に「3月5日、将軍家慶公日光御参拝の時、当山奥ノ院に奉祀せる兜入摩利支天を御本丸に迎え、御留守中住持良運に嘱し、武運長久の祈願を修せしめ玉う。5月、住持良運、大島へ流罪せらる。此のため一山の衰頽し塔頭寺院皆廃す」という変な記述があります。天保14年というのは兵藤庄右衛門が『圖繪』を書いたよりも40年近くも後のことです。あるいは、この時「兜入摩利支天」が紛失&偽物であることが発覚して、住職が伊豆大島へ流されたのでしょうか?)

堂の前には「イノシシ狛犬」が2つ並んでます。



眼下に見下ろす二俣の町。



ぶひぶひ。

で、前回来たとき、ここで私は満足して帰っちゃったんです。
でも、帰ってはいけなかったのでした。ここからあと少しだけさらに登ったところに、笠鋒坊様の石像がおわすというのです。5年前の私は知らなかったぜ。



いた! 天狗だ!



ちゃんと鼻を強調してつくられているのが分かります。
私には見付けられなかったのですが、神谷昌志氏の御本によりますと、側面に「二十世碓山代」と彫られているとのこと。嘉永5年に小僧が化けた天狗に出合って巨大大黒を作り上げた御住職ですね。その頃はまだお寺は光明山の山中にあったはず。碓山和尚はこの石像を一体どこに立てたのでしょう。旧・奥の院?





この場所には笠鋒坊以外に、お不動様となんやら分からぬ石祠もあって、3つがむかいあって立てられています。このお不動様も良い造りですね。・・・ていうか摩利支天?(猪がいないと分からないです)。さらに上まで登って行けば、山頂に展望台があるとのことですが、、、、 今日の私はもう疲れ果てました。

(・・・つづく)





境内の中心に最近作られたらしい輪蔵的なマニ車的な石柱があり、ちゃんと「正一位光明笠鋒坊大権現」の名前が刻まれておりました。ありがたやありがたや。
「正一位」の神階をくださったのは桜町天皇(元文3年、1738年)だそうです。(『光明山年表』)


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