オセンタルカの太陽帝国

私的設定では遠州地方はだらハッパ文化圏
信州がドラゴンパスで
柏崎辺りが聖ファラオの国と思ってます

真昼の魔女。

2017年06月20日 11時10分09秒 |   源三位頼政


3月の7日に行った日金山の鬼探しと、4月の10日に行った如意ヶ嶽薬師坊・三井寺の道了尊捜し、琵琶湖博物館のお話の続きはもう私は書かないようですね。残念なことです。
6月のお休みは、伊豆の下田に行きました。鵜嶋城のあじさい祭りが最高潮だと聞いて。(※でも実は去年もこの時期に鵜島城に来てあじさい巡りをしていたので、結局今回は下田城には行くのをやめちゃいました)


伊豆急の線路越しに見る寝姿山の下田城。こっちの下田城ももう何年も行ってないなあ。


結論からいうと、今回の下田旅は不首尾でした。
今回の下田行きの一番の目的をわたしは、何年か前に南伊豆町の図書館で見た『吉佐美古記録』をふたたび読むこと、としたのです。朝の6時ぐらいに気賀の家を出発したまでは良かったのですけど(いつもは早朝に出発しようと思っても、結局うだうだして出発は昼頃になる)、新東名の清水付近で猛烈な水泳選手に襲撃されて仮眠。目が覚めたら11時ぐらいになっていました。清水から三島長泉までは30分ぐらいで着くのですが、三島から南伊豆まではやっぱり2時間弱かかる。南伊豆の図書館に着いたのは14:30ぐらいだったかな。それから1時間半ぐらい本を読みまくって、結局「『吉佐美古記録』はここにはない」と気づいたのは16時頃でした。あれ見たの何年も前でしたからなあ。そもそも『吉佐美古記録』は地元の研究家があしらえたような簡単な軽い装丁のものだったし、誰かが借りているのか、もうどこかに隔離されてしまったのか。(吉佐美の八幡神社の碑文によると、のちに神秘家となった進士氏が昭和18年に書いて図書館に寄贈したものだそうですからね)
「南伊豆に無いのならば下田に行けばいいじゃん。吉佐美は下田市なのだから」と思ったのが16:15頃。急がねばいけません。実はこの日(6/11)は日曜日。一般的に月曜になるとどこも図書館は休み。南伊豆の図書館は17:30までの開館だったので、下田も一緒だとすると、ここから10分で下田まで行っても30分で広い図書館の中でその本を見つけるのはムリだと思ったので、ここは無念を飲んで受付の人にその本が無いか訊ねよう、と(←儂はいつでも自分で見つけるのが好きだ。人に聞くのは嫌いなのじゃ)、でも下田の図書館に着いてみると、こっちの図書館は平日の開館時間は17:00までですが日曜日は特別に16:00までだそうで、もう閉まってた! なんてやる気が無いのだ下田の図書館! 日曜日こそ開館時間を長くするのが普通だろお! むかし下田に住んでいた頃、一度もこの図書館に来たことの無かったわたしは、とても憤りました。当然明日(月曜日)は下田の図書館も休みですとよ。とっぺんぱらりのぷっぷくぷう!


<翌日に行った吉佐美八幡宮の「源三位頼政命霊璽 室菖蒲前命霊璽」>

というわけで南伊豆図書館では目当てを見つけることができなかったのですが、1時間半ここに篭もったことによる収穫も全く無かったわけではありませんで

 (1)『三位頼政考』(渡辺庄三、平成4年)
 (2)『田牛郷土史』の「遠国嶋の記」についての記述



一般に吉佐美地区に伝わっている源頼政の伝説に関する本は何があるのかと言いますと、松尾書店の『史話と伝説 伊豆・箱根』と中野貢氏の『源頼政・菖蒲御前伝説とその回廊』にそれぞれちょろっと説明が出てきますけれど、その大元となるよりどころは、寛政12年に秋山富南が書いた『豆州志稿』を、明治21年になって萩原正平が補修をほどこした『増訂豆州志稿』にある記述です。吉佐美の碑文にある記述も大きく考えて『豆州志稿』にある記述と関係あるものと思われる。
でもしかし、先日コメントをくださった鈴木さんの家に伝わるとおっしゃるものと、今回読んだ『三位頼政考』で著者が見たと言っているものは、その吉佐美八幡にある伝説とは別個のものであると思うですのよね。

まず『増訂豆州志稿』の説明を簡単にまとめますね。
(巻13<流寓 人物 烈女 僧英>)
源頼政 ○旧記に曰く、久安5年(1149年)8月に(=治承の挙兵の31年前)、賀茂郡の金山(=大賀茂?)に流され、仁平2年(1152年)に吉佐美村に移る。(※吉佐美村清水谷にある八幡宮は久寿元年(1154年)に頼政が勧請したという「三所」のうちのひとつだと伝わっており、ここには頼政が奉納したという文書3、4通が所蔵されている。諸書には頼政の物語についていろいろな事が書いてあるが、当州の者はそれとは異なる数多くの言い伝えと古蹟がたくさんあると言い張っている。ゆえに記録を残しておくが、頼政の筆になるとは考えられぬものもあるし、誤写と思われる写しもある)。(増訂)案ずるに、頼政が伊豆に流されたと云う事実が史書にないところから考えると、この地の伝誦は何らかの牽強であり、頼政の文書と伝えられているものはあるが信ずることはできず、もしかしたらこの地に伝わる菖蒲御前の古蹟に関連して附会されたものではないか」

(巻13<流寓 人物 烈女 僧英>)
菖蒲 (増訂)伝承ではむかし殿上人が伊豆に流され、古奈に蟄居して妾を作って菖蒲を産む。菖蒲が7歳のとき父は許され、娘と一緒に京へ帰り、彼女が成長すると宮女とした。(『伊豆名述誌』『伊豆日記』『禅長寺記』など)。頼政がたまたま菖蒲を見て、懸想してかなりの年月が経った。鳥羽院がこれを聞いて彼女を彼に賜った。(『源平盛衰記』『太平記』)。治承4年に頼政が宇治で戦死すると、菖蒲は当州の古奈に帰住し、のちに内浦の河内に閑居をつくって剃髪し、西妙と号したという。菖蒲は架空の人物と思われるが、当州においては遺蹟や口碑がたくさんあるのでここに記録することとする」

(巻13<流寓 人物 烈女 僧英>)
井ノ早太 伊豆玄龍という人の子がもしかしたら伊豆の早太ではないかと言われている。(『頼政記』)。平家物語には、頼政がもっとも信頼する郎党・遠江国の住人猪ノ早太とある。一説に猪ノ鼻ノ早太高直(または井ノ早太)は遠州猪鼻を領し、多田源氏太田伊豆八郎廣政の子であり、仲政の養子にされたのだという。 (増訂)この人を当州の人とする確証はないと思う」

(巻3<村里(下)>)
吉佐美村 (増訂)下田町の西25町50間、青市村の東33町、田牛村の北1里4町、大賀茂村の南23町 (増訂)18里20町7間 (増訂)天正18年の検地帳、豆州賀茂郡吉佐美ノ郷と。税祇簿ではきさ見。廃・佛岩寺の応永8年作の金鼓の銘に吉佐美村とあるのが一番古い。
○昔は朝日ノ里・月吉村といっていたが、源三位頼政がこの地に謫居したとき吉佐美村と改めたと『頼政記』にある。(案ずるに蚶(キサ)がこの付近の海浜に非常に多いので、キサミとは蚶海の意味だと思う) 和歌あり「今日迄は 角て暮しつ 里人は ■てキサミの 神に任せん」 宝永年間に三嶋大社の后神の宮がこの地に鎮座したことによる称とも言う」

(巻9<神祇(下)>)
八幡宮(吉佐美村) (増訂)村社八幡神社、祭神不詳。相殿三島社には阿波咩命を祭るという ○若宮が配祀されている。この神は源頼政が石清水八幡宮から勧請し地名を改めた(と「村里の部」に書いてある)。この若宮は最初多田見川の上流の三島の林にあったが、源頼政が現在地に移した。この神は若宮八幡ではなく三島神に従う若宮である。寛永6年の札に、源頼政が吉佐美郷清水谷村と刻した金鼓を吉佐美八幡に奉納したとある。この金鼓の内には小鈴と2寸ばかりの金舌があり、それに前中宮菖蒲と刻まれている。また久寿元年9月に頼政が奉納した歌に「神世より 光をとめて 朝日なる 鏡の宮に うつる月影」「神さびて あはれ幾代に 成りぬらむ 浪に馴れたる 朝日の宮」「かくてのみ 止む可き者か 千早振 土生の社の 萬代を見む」「さりとては 頼むぞかくる木綿襁 我れは朝日の神と思へば」「石清水 流の末を うけつぎて 今は吉佐美の 神に仕ふる」 
(増訂)案ずるにここに書いてある頼政のことはすべて附会であると思われる。流寓部を参照すべし。また金鼓に中宮菖蒲と記されてあるというが、菖蒲は中宮になったことはない。菖蒲は鳥羽法皇が頼政に赦し賜ったとされているが、中宮を臣下に賜うことなどあるはずもない。
(増訂)海若子伊豆日記に、八幡宮の社を守っている人の家に行った話が書いてある。主人の老人が身を清め塗り籠めの中から白木の箱を取り出し文机の上に置いた。うやうやしく開いてみると、八幡宮祭礼執行の文が一枚、神前に奉る歌十首、この里の人の系図が一枚。そこには頼政がこの国をさすらって3年後にこの地に落ち着いた次第が書いてあった。久寿元年九月という頼政の署名があった。また菖蒲の前が八幡宮に奉納したという直径9寸ほどの小さい鰐口には、表に吉佐美八幡宮源頼政これを奉ると彫ってあって、その上に小さな穴が開けてあり、その鍔にはとても小さな鈴がつり下げられてある。舌には長さ1寸幅5分ぐらいの真鍮の短冊があって、表に前中宮、裏には菖蒲と書かれている。よく見ると鰐口は新しい時代の物である。頼政の作だという歌の数々も、意味がよく分からぬ最近作ったような拙いものばかりであったが、しばらく見ているとゆかしいような感じもしてきてしまった。すべて拙いものばかりで、これはいつの時代の誰が見ても欺される者はいぬだろう、どんな痴れ者がこれを作ったのだろうとはなはだ興ざめした、云々。
○末社12、祠域の経蔵に大般若経の残本がある。禰宜は進士氏。
(増訂)相殿の三島社は式内竹麻神社の三座のうちの一つである。手石村月間神社の條参照すべし。この神を昔から十七番の御神と呼んでいる。按ずるに、神階帳賀茂郡神社のうち、月まの明神(すなわち式内竹麻神社)を三座と数えるときは、この神がちょうど17番目に当たるからではないか。また、吉佐美の村は后宮(きさみや)の略なのかもしれない。もとは深田という字のところにあったものを、明治11年に合祀した。
○白鬚神を配祠している。源頼政記いわく、豆州十七番の御神、神尾山御倉山の麓多田見河の上流に座していた朝日郷月吉村の土生大明神で、その正体は人皇6代(孝安天皇)頃の興津彦と興津姫である。((増訂)源頼政については前述した通りである)。この神はおそらく式社であると思うが、祠典何の神であるかはよくわからない。もしかすると多祁美加々命神社ではないか。多田美河という地名は訛誤があったのかもしれない。((増訂)この説は間違っている) 三島明神と称しているのはむかしこの祠域に若宮祠があり、この若宮は三島明神に従った若宮であるからである。伊豆納符」

・・・文中にある「海若子の伊豆日記」というのは文化7年(1810)の伊豆旅行の日記だそうで、つまり秋山富南が豆州志稿を完成させた寛政12年(1800)には書かれていなかった。海若子は「富秋園海若子」とも名乗っているので「秋山富南の変名か?」とも思ったのですが、実は富南翁は文化5年に85歳で亡くなっているのでした。じゃあ海若子とは誰なのかというと、三河口輝昌という江州生まれの幕臣で、寛政年間には代官として八丈島に住んでいたそうな。文化7年には68歳。若くはない。が、幕臣で「富秋園」という名乗りから見て、おそらく富南翁とは知己で江川太郎左衛門(英毅)から伊豆志稿を見せてもらって、興起されて伊豆の各地を見て回ったんでしょうね。(・・・かな?)


で、八丈島の悪鬼たちが襲来して多々戸浜で猪早太たちと戦った話も豆州志稿のどこかに書いてあるはずなんですけど、見つけることができなかったので(笑)、戸羽山瀚氏の『史話と伝説 伊豆・箱根』(昭和45年)から。

八丈島の悪鬼と戦った多々度浜・・・ 「伊豆の吉佐美村(下田町)と宇久須村(賀茂村)の八幡神社に、八丈島から押し寄せた戦争を描いた額がある・・・」と八丈実紀に書いてある。その額は今ないが、吉佐美地理往来(明治11年、進士一仙)に次のように見える。
「多々度の浜は、往古、久安年中(1145~50)の古戦場である。この時、八丈島から悪鬼どもが押し寄せた。これを迎え討ったのが、藤原近信、井の早太、進士、佐々木、石井、加藤、土屋・・・ 田牛の渡辺、青市の進藤、其の外、手石、日詰等々近隣の村々から馳せ集った68人。鬼どもは敗走して大島へ逃れた」
この戦は、貧しい八丈島から倭寇のように、略奪に来たのであったろう。今、多々度浜は海水浴場で、外人の別荘や旅館などがある」



で、今回見つけた『三位頼政考』の要約。

・伊豆の知行主である源頼政と、伊豆の豪族のひとりである北条時政はかねてから交流があり、頼政の挙兵は時政がそそのかした。
・南伊豆?に源頼政が鳥羽院から賜ったという御衣と刀(獅子王)をそれぞれ伝えている家がある。著者はその家に御衣を見に行ったことがあり、何度も断られたが、ようやく見せて貰ったそれはとても見事な物で、とても偽物だとは思われなかった。平家物語では御衣は何なのかの説明はないが、正しくは絹地の陣羽織である。ただし現在その家は「御衣はすでに失われた」と説明しており、その家はどこにあるのか言わないこととする。
・頼政は妻(仲綱の母)と仲綱の妻子を丹波五箇ノ荘と若狭に逃し、自分は死の痕跡を残した上で仲綱と共に伊豆に逃げてきた。
・古文書があって、伊豆の吉佐美の月吉の土地に、百年前の東北の争乱の時に新羅三郎義光の孫の相模守義業の子の判官義高が逃れてきて住んだ。義高は土地の長者の婿となった。頼政はこの家を頼って月吉までやってきて、刑部左右エ門という者の家にかくまわれた。頼政は左右エ門の娘との間に吉子姫という子をもうけ、この子はやがて成人して「宗明」となった。頼政はその後青野川沿いに移りそこで没した。南伊豆にむかしあった「源左湯(げんすけゆ)」は「源三」に由来している。
・南伊豆の地名、都殿・一条・二条・三条・九条・加納・大賀茂・下賀茂・賀茂川・賀茂橋等はすべて頼政の命名である。都殿が頼政の終焉の地?
・獅子王の鍔と以仁王の令旨を入れた衣の小袋というものを所持していた老人があった。刀の本体はむかし人に乞われて貸し出したが、帰ってこなかった。この老人の先祖は慶長・元和の頃に大阪から伊豆に移ってきた。(どうしてこの人が獅子王を持つようになったかは語られていない)。この人は頼政の墓(のうつし?)も見つけ出して、ひとりで守っている。墓は現存していて、「猛山義勇信士」「寛延四年八月十九日」と刻まれている。この人は関口氏と言ったが、昭和37年に亡くなった。この人が言うには頼政終焉の地は南伊豆町石井だったという。

学研の本で東京国立博物館蔵の獅子王の写真を見たことがあるのですけど、あれはなんだったのでしょう。“源氏重代の”「薄緑」と同じく、獅子王も何振りもあるものだったのかな。




さて、16:30になってしまったので本日の宿へ。
(奥の茶色い方の宿ですよ。手前の青い建物もビジネスホテルみたいですけど、じゃらんにはあったようななかったような)
朝食付きで¥6000だったんですけど、今時禁煙・喫煙室の区別がなされておらず、エレベータもなく(2階だったけど)、冷蔵庫も備え付けもなく、トイレもウォシュレットではなく、給茶機が廊下にあって、テレビの下にはVHS-デッキが置いてあってエロVHSがずらっと並べてあり、「さすが下田!」と嬉しくなってしまいました。(褒めてるんですよ)。こんなレトロな宿、下田ぐらいに来ないともうお目にかかれない。(そんなことはないか)。だけど(ビジネスホテルなのに)お風呂は源泉掛け流しなんですって! 大浴場はなく、小さめのユニットバスなんですけど、ステキです。
実は数年前に下田を旅していたとき、飛び込みで駅近くの宿に宿泊したとことがあったんです。その頃の自分はネカフェ行脚が趣味で、ネカフェが無いような土地では車中泊が常だったのですが、どうしてその時の自分がビジネスホテルなどに泊まろうと思ったかはよくわかんない。(下田には今も昔もネットカフェなんか無いが)
で、その時のビジネスホテルも「100%観音温泉のお湯」とか言ってたんです。今回、じゃらんでこの宿を予約したとき、数年前に泊まったあの宿と同じ宿だと思い込んでいたのですが、来てみたら違った。あのとき泊まったホテルは「下田ステーションホテル」でしたが、じゃらんでは宿泊プランが無かった。(飛び込み専門なのだろうか)

さて、部屋で一息ついたあと、お散歩です。
今日の一番の目的はこのお店!



今でこそわたくし普通なみのラーメン好きですけど、若い頃の私はそれほどでも無くて、東北地方とかドライブ中にどさん娘やうまいラーメンうまいをみつけたら入る程度だった。そんな私がラーメン好きになったきっかけがこのお店(ラーメン倶楽部 宝来家)だったのです。
20年ぐらい前の私は大賀茂に住んでいたのですが、このお店は吉佐美の136号線沿いにあった。私は仕事終わりにこのお店に寄るのが好きで、特にこのお店のチャーシュウが好きで、やがて、週2週3ぐらいで通うようになった。(黒船ホテルの近くにも今は無いが古いラーメン屋があって、焦げたような醤油の味が好きでそっちもよく行った)。その頃私は「家系」という言葉を知らず、伊東で「究極のラーメン 吉田家」を食べたとき、同じ味なことに心底びっくりしたものです。誰かの話によると吉田家は六角家(近江源氏)の家系で、ラーメン倶楽部の方は吉村家(藤原南家)の血を引いているんですって。ところがやがてこのお店は吉佐美大浜に移転したり、マイマイ通りに移転したり、自分も引っ越してしまったけど折を見て何度かそちらにも行ったりもしたのですが、やがていつの間にかどうなってるのか分からなくなってしまった。ところが数日前にGoogle-Mapを眺めていたら下田市役所のすぐ近くに「宝来家」の文字があって、「おっ!?」と思ったものの、Googleのストリートビューで見るとその建物はどう見ても廃墟で。来てみるまでドキドキであったのです。

あったよあった!
「公式サイト」によると今年の3月の25日に移転オープンであったようです。
おっちゃんは私の記憶の中にある人よりおっちゃんになってて(当たり前だが)、美人で奥床しかった奥さんもイメージ変わったおしゃべりな奥方様になってましたけど、なんだか懐かしいな。



「らーめん」(750円)に「チャーシュー」(200円)をトッピング。
浜松に越してきてから蔵前家(近江源氏六角家系列)の味が家系の味の私の基準になってしまっていて、1度か2度マイマイ通りにあった頃のラーメン倶楽部にも行った事があって、そのとき「ちょっと淡くなった?」と思って、「20年間もラーメンを食べ続けたから私の味蕾は破壊され味覚が変わっちゃった?」「そうだとしたら悲しい」と思ったりして、今回も不安がなくもなくはなかったりもしたのでしたが、やっぱりうまいぞ!
濃い目にした蔵前家のラーメンはめちゃくちゃ洗練されていてうまいと思うのですけど、吉田家や宝来家で食べるとき、昔ながらの家系には蔵前家にはない独特の強い香りがあると思うのです。これがわたくしにはとても懐かしいものに思えて。今回食べた宝来家のラーメンは20年前に食べた吉佐美のラーメン倶楽部と同じ感慨がありましたぞ。もやしはむかしはあったっけな。



麺は酒井製麺ではないというが、スープが飲みたくてラーメン屋に行きたくなる私としては炭水化物の塊なんてどうでもいいので、どうでもいいや。チャーシューは味のない(少しある)噛みでのあるもので、私の一番好み。



レンゲに取った時点で香る懐かしい香り。この限定された幾店舗かの家系だけに存在する香りの正体は何なのだろう。そして、吉田家とラーメン倶楽部の決定的な違いもわたくしは思い出したのでした。吉田家はごりごりの生キャベツがおいしさの正体だったのですけど、ラーメン倶楽部は刻んだタマネギがスープに絶妙な感じで煮込まれていて、20年前の私は「いろんな味がする」と感激していたんですよね。浜松の麺匠家では無料の生タマネギを入れ放題できますけどあれとは違うし、玉葱がもっとクタクタにされていてもまた違うと思うのですよね。わたくしを感激させラーメン好きにさせたラーメン倶楽部のラーメンの秘密とはタマネギだったのか。
しゃりしゃりするスープの中のタマネギが無性においしくて、20年ぶりにわたくしはまた感激しました。
わたくしの記憶の中ではラーメン倶楽部よりも伊東の吉田家の方がスープがより塩ょっぱいという記憶があって「地頭と泣く子はしょっぱい」と悪口を言ったことがありましたけど、なかなかどうしてラーメン倶楽部もしょっぱいぞ。最初は淡いんだけどどんどんしょっぱくなります。そのしょっぱさも合わせて、とてもおいしくいただくことができました。しょっぱいと美味いは同義なんですね(錯覚)。ごちそうさまでした。
下田に来たら、ラーメン倶楽部はまた必ず寄ろうっと。

・・・というのは私の思い出補正による感想なので、世の玄人のラーメン好きさんにはラーメン倶楽部は必ずオススメできないお店です。家系のスープに刻んだタマネギが入ってるなんて一般的にはあり得ないじゃんかね。私にはそれが世界一美味しいんですけどね、記憶の中に思い出のおいしい味というものがあるということは、個人的にはとても幸せなことです。ああ一匹の鯨と松福にもまた行きたい。

そのあとは、下田の町を歩き回りました。
実は私、むかし下田に5年ほど住んでいたのですよね。最初の3年は大賀茂であとの2年は西中(にしなか)だった。ところが、20年経ったいま、大賀茂に住んでいたときのことは事細かに思い出せるのですけど、西中はまったくそうではない。わたし、あのころなにをしていたのでしょう?
タブレットを片手に東と西の中(なか)の周辺を歩き回ってみたけど、結果としてここはまったく見知らぬ町であったのです。・・・わたし、本当にここに住んでたんだよな?(2年も)
どうやってどういう道を通って稲生沢にあった職場まで通い、どこで食料品を買って、どういう食生活をしていたのか。そういう記憶が全く今の私には無いのです。かすかな記憶をたどって、むかしわたくしが住んでいたと思われるアパートまで行ってみました。えっ!? 全然見覚えの無いアパートだぞ。いやいやそうでもないかも。このやたらと狭い入り口付近の通路には見覚えがある(かも)。私の部屋は中ほどにあったのですが、手前の部屋の通路に大きな洗濯機があって、私の洗濯機と冷蔵庫を運び込むのに苦労した思い出(だけ)がある。この頃のアパートは狭い表通路に洗濯機を設置するのが普通だったのかしら。で、今回見に行ってみても、洗濯機の搬入搬出の困難の記憶しか甦らなかったことに笑った。たしか2DKで、次に大仁でアパートを借りたときより安かった記憶が。直接山奥の大家さんの会社に家賃を払いに行くシステムで、よく滞納していたのだけれど(今では考えられないが)やさしい大家さんは(関係者だったので)笑って許してくれていた。そもそも私はそのころ公務員で金には全く困って無くて(余剰金は全て趣味の歴史の本につぎ込んでいて)、家賃を滞納していたのは、ただ「行くのが面倒くさくてついつい」だったからなんですけどね。今では考えられない若い頃の自分の過去です。あの頃の大家さんの奥さん迷惑掛けてゴメンナサイ。
でもここ、伊豆の南部では河津町と並んで「また住みたい町」の筆頭となりました。(宝来家に近いから)

そうそう、思い出したんですけど、部屋の目の前に小さな居酒屋が一軒あったんですよね。ずっと気になっていた(こともずっと忘れていたんですけど)今回行ったらそのお店は健在でした。実は長崎で下宿生活をしていた頃も家の裏手に怪しげなスナックがあって、その時の記憶とごっちゃになってたんですけど、2年も住んでいたのに部屋の目の前のその居酒屋に私は一回も行かなかったんですよ。一人居酒屋巡りを趣味としている今の私には考えられないことです。折角だから今回一人で入って見ようとちらっと思ったんですけど、無いはずの当時の記憶が頭をよぎって、今日も入るのをやめてしまいました。・・・近いうちに、この居酒屋に入ってみることを目的に下田にまた来よう!(と、わたくしは心に小さく誓いました)




夜のマイマイ通り。
どうして下田の町の一番の繁華街のことを「まいまい通り」と呼ぶのかというと、下田が誇るオシャレ生物「シモダマイマイ」を偉大なる大提督マシュー・カルブレイス・ペリーがこの場所で発見して米国に持ち帰って「下田舞い舞い」と名付けたからなんですよ。・・・と大いばりで言おうとしましたが、わたくしカタツムリの歴史には疎いもので、検索して数多くのカタツムリの写真を見比べても、シモダマイマイが他のカタツムリと何が違うのかさっぱりわかんないや。
カタツムリなんて私の知ってるカタツムリは全部同じ種だと思ってたら、実は日本には8百ぐらいのカタツムリの種類があって、地域差が激しいんですって。というのはカタツムリはそんなに移動しない動物なので、広範囲な種の交流が起こらないから。
そもそも「まいまい」というのは日本語だそうで。(英語かと思っていた)。柳田國男の『蝸牛考』によるとカタツムリの一番古い呼び名は「ナメクジ」で(エッ)、「カタツムリ」というのは関東地方と四国地方の方言であり、中部東海と中国地方では「まいまい」と呼ぶのが普通なんですけど、「でんでんむし」と言うのが最も新しい呼び名で、主に近畿で使われたのだとか。
じゃあ、下田で見られるカタツムリが全部シモダマイマイなのかというとそうでもなくて、伊豆半島には約35種類のかたつむりの仲間がいるそうです。(ただし下田で最もよく見られるカタツムリはシモダマイマイ)。でも写真で見比べても、浜松にいるハママツマイマイ(そんな種は無い)と見分けることは私はできないだろう。
で、ペリーは下田で珍しい動植物をたくさん採集して、それを米国に持ち帰って研究したら新種だったので「シモダマイマイ」と名付けられたというのですけど、シモダマイマイの学名は「Euhadra peliomphala simodae」というそうで、「マイマイ」要素がない(笑)。そもそもペリーはこのカタツムリは他とのものと違うと思って採集したんでしょうかね? それとも日本のカタツムリの代表種だと思って持ち帰ったんでしょうかね? 下田市のホームページには変なことが書いてあります。「ペリーの来航により、この種が日本に上陸した」。それだとシモダマイマイは外来種だということになるわけで、おかしいじゃん。・・・と思ったのですけど、検索すると同じ説明がけっこういろんなサイトでされています。というのは、あるカタツムリの種は狭い地域にしか分布しないことになっているのに、シモダマイマイは伊豆半島南部から海を隔てた北部の伊豆諸島にもいっぱい見られるからで、これを「伊豆半島はむかしムー大陸の一部だった」と見るか「伊豆に来る前に小笠原諸島に寄ったペリー艦隊が、新種を伊豆半島に持ち込んだ」と見るかによると思うのです。で、シモダマイマイというのはカタツムリの中でも特に個体の差異が大きく、同じシモダマイマイでもみんな殻の模様がかなり違うんですって。
・・・そんなおもしろいカタツムリだと知ってたら、マイマイ通りに行ったときカタツムリを一生懸命捜してみるべきでしたよ。6月なんてカタツムリ捜しに一番良い時期だったのに。
でも、ペリーがこの時持ち帰った動物で新種だったのは「シモダマイマイ」だけでは無かったそうで、新種のモノアラガイや新種のモスソガイ(ペルリ法螺)とかもいたそうです。よかった「マイマイ通り」が「ホラ通り」とか「スネール通り」という名前にならなくて。(※私の部屋のメダカ水槽には一時期大量のモノアラガイが湧いたんだけど、丹念に取っていったらモノアラは出なくなって、でも代わりに小さなラムズホーンが沢山でるようになり、スネールとは違ってラムズホーンは水草の苔を食べてくれるので放っといたら、現在水槽の中には100匹前後の赤子羊角がいる(笑))



さて、暗くなったので晩酌をできるお店を探す。
適当にぷらぷら歩いて、なんとなくまいまい通りに近いあじさい通りの有名店「なかがわ」さんに入る。
なかがわはとても有名なお店なので、きっと私も一度くらいは入ったことがあるだろうと思ってたけど、2階に上がってみると全然知らないお店でした。(お店は2階と3階部分にある)。そうか来たことがなかったか。定食物がメニューにずらっと並んでたんですけど、さっきラーメンを食べたばかりだったのでそんなに炭水化物を食べられる気もせず、元気なおばちゃんに「あんまり食べられないんですけど、お魚だけ注文してもいいですかー」と聞いたら、「もちろんですよ!」とニコニコしながら言ってもらえた。ええお店や。

お刺身の盛り合わせは2000円、3000円、5000円のものがあったんですけど、ひとりじゃそんなに食べられないので、2160円の盛り合わせとサザエのつぼ焼(1100円)を注文。

お刺身。


わお!
真鯛と伊佐木。それからサザエとメジとハマチですって。
めちゃくちゃ美味い。
お店に入ったときは客は私一人だったんですけど、(座敷の方にはいたかもしれない)、ちらほら旅行者らしいお客さんや地元の人も入ってきて、次第ににぎやかに。



いやー、ビールがウマイ!



そして、サザエの壺焼き。
勝手に「1000円だからサザエ一個だろうな」と思ってたら、大きなのが3つも出てきた。そうでした、下田はサザエが安いんでした。



サザエ大好き!
お腹に余裕があったらもっと追加注文しようと思ってたんですけどとうていムリで、1時間ぐらいのんびりしてから、お店を後にしました。
でもお腹はいっぱいだがアルコール分の入る余地はまだあるぞ!

(・・・続きます)
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