ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




おかめ。静岡県熱海市渚町9。2011(平成23)年5月20日

渚町の糸川より北の地区で、そこは昭和25年の熱海大火で焼失している。この辺りの古い家は、その大火後に建った家が今に残っているわけだろう。上の写真の家の「なぎさ中通り」の向かい側には「ファッションヘルス」やスナック、「案内所」まで入った水梅ビルがあって賑やかな感じがするのだが、写真の家の方は、昔の勢いは何処へやら、という状態だ。「おかめ」というお好み焼きの店が営業しているが角のほうの店はやっていない。写真右の路地へ入った隣の2軒も閉店している。
下の写真の家は「おかめ」の家と同じ四つ角に面している。空家のようだが、その家の路地の奥の店はGoogle地図に「福井商店」とある。「カゴメソース」の琺瑯看板があるから食料品店か肉店で、営業しているのかもしれない。



福井商店。熱海市渚町8。2011(平成23)年5月20日

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居酒屋・あーちゃん。静岡県熱海市渚町15。2011(平成23)年5月20日

当ブログ前回の「居酒屋みかく」の写真の左奥に写っている「なぎさ中通り」にある店。建物角の「食堂園」の看板の店はあーちゃんの隣だ。今、ストリートビューを見ると、食堂園の先の赤い日よけの店が「ラーメン屋・一徹」という店になっている。その隣の「富良野」は「季の食・妙(たえ)」に替わっている。入れ替わった2軒の店構えは以前の店のままなので、通りの家並みはまったく変化していない。下右の写真は1枚目写真右の路地



居酒屋食事処・富良野(渚町15)、路地(渚町18)。2011(平成23)年5月20日

熱海の、国道135号から海側の公園や町は埋めたによって造成されたものらしい。あるいは国道自体も埋め立てたと土地なのだろか? 渚町の全域もそうらしい。町の発展で、傾斜地しかない熱海の街が海へ押し出されたわけだろう。町の発展の契機はまず、熱海駅の開業だろう。1925(大正14)年3月25日である。それまでは東海道線の国府津駅から路面電車と軽便鉄道が通じてはいたが多くの客を扱えるような交通手段ではない。当時は熱海線の丹那トンネルが工事中で、まずは熱海までが開通したのである。そして丹那トンネルの開通により熱海駅が東海道線の駅になったのが1934(昭和9)年12月1日。それによって観光客は一段と増えた。
海岸の埋め立ての始まりは関東大震災で崩れた崖の土石を捨てる形で始まったのではないか、と考えてみたがどうだろう? そして昭和10年頃から土地造成を意識した埋め立てが始まったのではないだろうか? 丹那トンネル工事で出る土砂が埋め立てに使われたかもしれない。ただし、『闇を裂く道』(吉村昭著、文春文庫、1990年、466円)には、そういった記述はない。昭和16年には新丹那トンネルの工事が開始されている。そこで出る土砂は海岸に捨てられたかもしれない。
熱海まちづくりビジョン』には「(昭和25年の)熱海大火後には、埋め立てが進み、東海岸町 や渚町が誕生しました。」とある。その大火の出火元は渚町の北部である。大火後も渚町は南へ埋め立てが進んだのかもしれない。

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駐車場に裏側を見せる家並み。静岡県熱海市渚町18。2011(平成23)年5月20日

写真左のレンガ舗装の通りが「なぎさ中通り」という渚町(なぎさちょう)のメインストリートで、その糸川と初川の間である。飲み屋街の家並みが駐車場で切れてしまっている。昔はその駐車場にも小料理屋やスナックなんかが立ち並んでいたのだろうか? 駐車場に裏側を見せる家並みの表側は路地で、両側に飲み屋が並んでいるわけだが、この路地では営業している店は半分もないようだ。家は簡単な造りなのに三階を増築している。



居酒屋みかく。熱海市渚町18。2011(平成23)年5月20日

1枚目写真の左に写っている家。今、ストリートビューを見ると店は閉店してしまっている。写真右に看板だけが写っている「浜」も閉店して空家のように見える。浜と同じ建物のもう一方は、二階の凝った造りのベランダとその上の長く突き出た庇がカフェー建築に見えて注目されている。ぼくは気が付かずに路地には入らずに通り過ぎてしまった。

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波良橋。静岡県熱海市渚町。2011(平成23)年5月20日

渚町(なぎさちょう)を南北に貫通している通りを「なぎさ中通り」という。その通りの初川に架かるのが波良橋。とりあえず「なみよしばし」と読んでおく。熱海市の熱海地区には糸川、初川、和田川の3本の二級河川が「熱海の海岸」に注いでいるが、その3本ともが渚町を流れる。初川の源流は、ひとつは鷹ノ巣山(670m)、もうひとつが十国峠の南の熱海峠付近と姫の沢公園というところらしい。
簡単な親柱に「昭和二十八年四月竣工」とある。昭和28(1953)年というとぼくが小学4年生。世の中は、2月1日-NHKがテレビの本放送を開始、3月14日-バカヤロー解散、7月27日-朝鮮戦争休戦。映画は「君の名は」「東京物語」「シェーン」。


波良橋。熱海市渚町。2011(平成23)年5月20日

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イトウ美容院。静岡県熱海市渚町22
2011(平成23)年5月20日

熱海の渚町(なぎさちょう)は「熱海サンビーチ」という海水浴場の南につづく海岸沿いの町で、海岸は「親水公園」で、海には防波堤を造ってヨットハーバーができている。国道135号線が二つに分かれて互いに一方通行になる個所があるが、その二本の135号の間が渚町の街区である。だいたいが飲み屋街といっていい。
写真の渚町22番地は南北に長い町域の南端近くで、初川(糸川の南にある川)の南にある。この辺りだと飲み屋街とはいえない。イトウ美容院は今、ストリートビューを見ると窓が黒い布でふさがれていて明らかに廃業している。撮影時ではなんともいえないが、飲み屋街で働く女性が主な客かと思えるので、開店するのはもう少し遅くなってからかもしれない。1958年(昭和33年)まであった糸川花街の娼婦も客できたのだろうかと頭に浮かんだが、建物自体はそこまで古くはなさそうである。隣の下見板の家は廃屋らしいが、昭和30年代からすでに建っていたような感じだ。

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左:山之内印刷。中央区築地6-6。1987(昭和62)年5月24日
右:君野商店。築地6-6。1988(昭和63)年10月9日

居留地中央通りの西の裏通りで、正面突き当りにカジカワ理髪店が見える。この裏通りは今もあまり変化していない。左写真右にちょっと写っている飯野医院が建て替わったのと、奥の左に13階建86戸のマンションが建ったくらいで、戦前からの住居や長屋、銭湯までがまとまって残っている。
角の三階建てに見える家が山之内印刷。そのHPには1939(昭和14)年の創業とあり、工場は江東区冬木にあり、写真の建物は登記上の本社だ。
君野商店とした家は、左写真の山之内印刷の後ろの家。今は「フラワー教室ふれんど」の看板が出ている。



山之内印刷、麦飯石センター。築地6-6。2004(平成16)年11月1日



理容柏木。築地6-2。1991(平成3)年5月5日。君野商店の斜向かい。『入船湯』の1枚目写真の左半分の部分。看板建築の五軒長屋らしい。

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築地食料販売。中央区築地6-6。2002(平成14)年3月頃

前の通りは「居留地中央通り」で、ササヤ化粧品店の北のブロック。写真左の三階建てのビルのような家は住宅として使っているらしい。洋館とは言いにくいが、ちょっとした飾りまでつけて洋風の外観にした、仕事場兼住宅として建てられたものだろう『都市徘徊blog>築地6丁目の木造3階建て(2013.12.11)』、2013年10月に解体された。2000年の住宅地図では「ささや」とあるそうだが、1979の住宅地図では「築地食料販売㈱」とあり、1階を近所の店の倉庫として貸していたようである。現在は「シルト築地」(2014年7月築、4階建て)の小さな賃貸オフィスに建て替わった。
写真中央の銅板張り看板建築から右端の横瀬肉店までの建物は今も残っている。銅板張りの家は米屋だが、その右の「築地食糧販売」なのだろうか? 昭和25年頃の火保図では「折原ハキモノ〈履物〉」。
その右は2軒を「築地食料販売㈱」が使っている。現在の看板には「創業安政三年」とある。『中央区>近代建築物調査>築地食料販売』には、「安政3年(1856)創業の「槝米屋」であり、築地の武家地の中に商人地があったことを伝えている」とあるから、創業以来この地で続いているらしい。瓦屋根の見える日本家屋だと思うが、建築年を昭和10年代としている。

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ササヤ化粧品店。中央区築地6-5。1990(平成2)年4月7日

写真の通りは晴海通りの築地六丁目交差点から北へ入る通りで、平成25年とごく最近だが「居留地中央通り」という愛称がついた。その通りに入って100mほどのところ。屋根の反った日本家屋の壁を銅板張りにしたような変わった家は、現在は8階建ての細長いビルに替わった。その右の2軒がまだ残っている。
「マルキ/丸ナガイ倉庫」と「三井歯科クリニック」の看板が出ている家は昔の地図では、1980年代では「キッチンスズキ」、それ以前では「武井印舗」。その右は「落合板金加工所」。現在は「居酒屋中華つりきち」になっている。その右の「ササヤ化粧品店」が建物も商売もそのまま続いている。写真の袖看板では「さヽや」の表示。この銅板張り看板建築は横が三軒長屋である。下の写真の「魚秀商店」が同じ建物だ。



魚秀商店。築地6-5。1988(昭和63)年10月9日

ササヤ化粧品店の角を曲がった横丁。魚秀商店はササヤと同じ建物で、その右へしもた屋が並んでいる。写真中央右手の白いモルタル壁の家と右奥へ行った看板建築が残っているようだが、だいたいは普通の住宅に建て替わっている。

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海老新倉庫。中央区築地6-3。1988(昭和63)年10月9日

晴海通りの1本北の裏通り。撮影後30年が経つが、築地6丁目3番地は不思議と戦前のままの家が今でもまとめて残っていて、写真に写っている家も全部が残っている。写真右へいくと銭湯だった入船湯の建物までが残っている。
角から左へ看板建築の三軒長屋で、角は海老新の倉庫、中央の家は今は「とうがらし」という焼肉の店。次は二軒長屋で、右のほうが昭和25年頃の火保図では「テーラー米山」。次の白い看板建築は「安藤板金工業所」。クリーニングの看板は「美洗舎」で今も営業中。左端が横丁との角で、下の写真がその横丁。



いしい、石川時計店。築地6-3。1988(昭和63)年10月9日

写真右の看板建築の三軒長屋の横が1枚目写真の裏通りになり、写真右奥にいくと晴海通りに出る。この家並みもやはり残っている。右の三軒長屋は、右から、昭和25年頃の火保図に「林ゴムグツ店」となっている家。「谷川時計店」は同地図にもあり、今でも続いている。次が天ぷらの「いしい」。昭和25年頃の火保図では「石井竹加工」で、魚市場への買い出しに持っていく竹籠だろうか?
写真左は銅板張り看板建築の三軒長屋。今は鉄板に張り替えられてしまった。右の三軒長屋との間の路地は入船湯の横を通って裏通りへ抜ける。

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海老新。中央区築地6-5。1988(昭和63)年10月9日

築地本願寺の裏手の築地川南支流(現在は駐車場)の河岸の道路と、築地市場の東門(海幸橋)から北へ出ている通りとの間の裏通り。写真正面奥の家の裏が晴海通り、写真右手前の木は銭湯・入船湯のもの。写真左手の白いモルタル壁の家が1986年の住宅地図では「海老新」、築地市場関連の卸商だろう。昭和25年頃の火保図にも記載がある。築地6・7丁目は空襲の被害を免れた地域だから、古く見える木造家屋は戦前からある家とみてもいい。
現在、海老新だった家は「モア・クレスト築地」(1999年7月築、13階建86戸)という賃貸マンションに替わっている。


カジカワ理髪店。築地6-4
1987(昭和62)年5月24日

1枚目写真正面奥の銅板張りの看板建築。『ダルマ薬局、他』に斜めに撮った写真を載せているが、建物は二軒長屋。昭和25年頃の火保図に「梶川床ヤ」と出ている。
現在は正面が晴海通りに向いた11階建ての「北國新聞東京会館」(北國新聞東京支社)のビルに替わっている。

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