ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




左:みまつや。荒川区南千住1-30
右:平屋の四軒長屋。南千住1-31。2013(平成25)年11月6日

みまつや(三松屋製麺)はジョイフル三ノ輪商店街を東から入ってすぐの路地を北へ入ったところ。「三松ソバ」で1969年の地図に載っている。
右写真はみまつやの路地の東の、さらに細い路地に残っている平屋の四軒長屋である。Google Mapで見ると、写真の四軒長屋の斜め向かいにもやはり平屋の四軒長屋の端の1軒だけが残っている。



鈴木工業所。南千住1-30。2013(平成25)年11月6日

ジョイフル三ノ輪の北の裏通りにある出桁造りの民家。モルタル壁の家は、「認可工場」の表札があるので民家に接して建てられた工業所らしい。「鈴木工業所」としたのは推定。

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フェリス女学院1号館。神奈川県横浜市中区山手町178。1993(平成5)年5月5日

『日本近代建築総覧』は「フェリス女学院、中区山手町178、建築年=昭和4年、構造=RC3階建、設計=森山伊望(松之助)、施工=宮内建築事務、他に平家建1棟」という記載。
フェリス女学院の歩み>関東大震災の頃』には、「1929年6月13日新校舎の献堂式がおこなわれました。新校舎は地上2階地下1階の鉄筋コンクリート造り、外壁は長野県産の鉄平石で覆われ、荘重な雰囲気を醸し出す建造物でした。博物室、理科その他の特別教室が完備し、……」とある。3階部分は増築ということになるが、2階までできた時点で献堂式をやってしまったということだろう。通りに向いた側は先頭アーチ窓が並んでいる。その内部がカイパー記念講堂なのかもしれない。ゴシック様式の教会を連想させ、ミッション系の学校であることをアピールしたデザインかと思う。
設計者の森山伊望についてはなにも分からない。『かながわの近代建築』(河合正一著、かもめ文庫、神奈川合同出版、昭和58年、630円)には、「設計者は森山伊望で、アメリカ人建築家・ボーリーズの助力もあったといわれる」と記されている。たぶんヴォーリズのことだろう。



フェリス女学院1号館。1993(平成5)年5月5日



建て替えられた1号館。2016(平成28)年12月23日

1号館は2000年に取り壊され、2002年9月に改築されて現在の建物に替わった。通りから見える部分は旧校舎のファサードが復元された。景観は確かに旧のままで、一応は評価していいかと思う。当然かもしれないが、鉄平石の貼り方までは同じではない。

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旧アイリン・ヴェロス邸。神奈川県横浜市中区山手町46。1993(平成5)年5月5日

山手本通りのフェリス女学院1号館の向かいにある洋館。上と下の写真は約25年前のものだが、今も周囲の様子も含めてほとんど変わらない。建物は前に出た玄関を中心にした左右対称に近いが、左側に平屋の部分が伸びていて、屋根の勾配がゆるいので、全体に横に長い印象を与える。通りに合わせたカーブした低いコンクリートの塀と外灯を乗せた柱は、建物鑑賞の邪魔をしない。
現在はBB Studioという会社が「YOKOHAMA HILL」というスタジオとして使っている。家の内外でモデル撮影や物の撮影をするらしい。個人の家ではないので、遠慮なく家を撮ることができる。横の路地を抜けて裏側に回ることができ、そこには塀はなくて、家の裏庭に入ってしまったような感じである。
『近代建築散歩 東京・横浜編』(小学館、2007)では「旧アイリン・ヴェロス邸、建築年=1930(昭和5)年、設計・施工=不詳」。



旧アイリン・ヴェロス邸。横浜市中区山手町46。1993(平成5)年5月5日



旧アイリン・ヴェロス邸裏側。2016(平成28)年12月23日

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山手46-4番館。神奈川県横浜市中区山手町46。1993(平成5)年5月5日

山手本通りの汐汲坂交差点の南西角にあった洋館。現在は塀と門はそのまま残っているが、建物は3階建てのビルに建て替わって、表札は「有限会社岡田倉庫」と「BLUFF46」とがある。
『日本近代建築総覧』には「46岡田邸、中区山手町46B、建築年=昭和、木造2階建て」となっている。壁面や煙突が2本あるところなど、『細田邸、岡田邸』に似ている。



山手46-4番館。横浜市中区山手町46。1993(平成5)年5月5日

汐汲坂交差点から西へ行って46-4番館の西側を撮った写真。写真左奥にオレンジ色の屋根の家が写っている。汐汲坂交差点南東角にあった家らしい。そこは現在、駐車場になっている。写真では古い洋館のようにも見えるが、撮影していないので割と新しい普通の住宅だったのかもしれない。
写真右のガレージは、現在は46-4番館の裏の家への通路のようになっているから、撮影時でも裏の家の通路兼車庫だったのだろう。現在は車庫は取り払われて門ができており、そこに「Rique’s Garden」とある。造園業者で、鉄格子の扉から覗いたのが下右写真。庭造りのヒントになるような物を展示したような空間になっている。



左:山手46-4番館。横浜市中区山手町46。1993(平成5)年5月5日
右:Rique’s Garden(リークズガーデン)。横浜市中区山手町46。2016(平成28)年12月23日

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61番H邸。神奈川県横浜市中区山手町61。1997(平成9)年6月2日

山手本通りの代官坂上交差点の南東角に横浜ユニオン教会がある。その横の南に下がる坂道の向かい側に写真の家があったと思う。
『日本近代建築総覧』に「61H(個人名)邸、建築年=昭和9年、木造1階建て、設計・施工=前山作次」で載っている。改めて写真で見ると、わりと最近の普通の住宅のようにも見えるのは、屋根の形と瓦がそんな感じだからだろうか。実際に見ると、玄関の大谷石の柱や上げ下げ窓と見える縦長の窓に目にいくので、疑いもなく洋館と認識できた。
横浜市の近代建築>H邸』には「洋と和が溶け合うことなく、摩訶不思議に同居し」とあり、平成15・16年には解体されたという。下の写真では上の写真にはない植木が残っていて、上の写真はすでに取り壊しが決まって整理に入っていたのだろうか。



61番H邸。横浜市中区山手町61。1993(平成5)年5月5日

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横浜ユニオン教会グリーンハウス。神奈川県横浜市中区山手町66。1993(平成5)年5月5日

山手本通りの代官坂上交差点の南東角に横浜ユニオン教会がある。その教会堂の後ろにある建物が写真の「グリーンハウス」という「青少年のための施設」。建築的にどうという建物ではないようで、取り上げられているサイトは見かけない。山手本通り側にある教会堂は2003年11月に完成したものなので、それまではこの建物が教会堂として使われてきたらしい。「グリーンハウス」の名称も新教会堂ができた後から付けられたのだと思う。
横浜ユニオン教会のHPには「1910年に500人収容の教会堂が山手に建築されましたが、関東大震災で壊滅し、その後の会堂も第2次大戦の横浜大空襲で焼失」とあり現在の教会堂が「3度目の新会堂」とあるから、戦後から2003年までは今の教会堂のところには建物はなにも建っていなかったのだろうか? 1枚目の写真の左端に民家のようなものが写っているが、それがどういう家だったのかは当然憶えていない。



横浜ユニオン教会グリーンハウス。横浜市中区山手町66。1993(平成5)年5月5日



近影。2016(平成28)年12月23日

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左:南千住砂場、南千住1-27。右:藤野青果店、南千住1-28。2013(平成25)年11月6日

南千住砂場はジョイフル三ノ輪商店街の中ほどにある日本蕎麦屋で、ウィキペデイアにも項目がある老舗であるが、ネットの情報では店そのものはごく普通の日本蕎麦屋らしい。ウィキペデイアには「現在の店舗は1954年(昭和29年)の普請で、東京の昔のそば屋を偲ばせる、風情ある木造建築である」とある。「荒川区の重要文化財の指定を受けた建物」としているサイトが多いが、荒川区のホームページにはそのような記述は見当たらない。普通に考えても区の重要文化財になるとは思えない。
藤野青果店は砂場の横の路地の向かい。『テレビ東京>旅グルメ>【6位】ジョイフル三ノ輪(南千住) 』には「大正10年創業。名物は、年間70樽は作るというぬか漬け。ラインアップはおよそ15種類もある」とある。



左:旧みよし鮨、右:兵之助刃物店。南千住1-28。2013(平成25)年11月6日

藤野青果店の建物は3軒の店が入る長屋形式のもので、戦前に建てられたものと思われる。上左写真はその右側の店で、空き店舗だろうか。「みよし鮨」は1969年の住宅地図から。
その隣が兵之助刃物店。この店の建物もやはり戦前からのものかと思われ、店名もなにやら老舗のような感じを受ける。藤野青果店も同様だが、看板を取り付けている1階上の梁のような壁面が下向きに傾けていて、両端に丸みをつけて上部に段をつけている。このような造りは、みのや米店や大津屋(総菜屋)にも見られる。この商店街の店舗の標準仕様だったかのような感じだ。



左:相州屋(和菓子)、右:大津屋(総菜)。南千住1-20。2013(平成25)年11月6日

「RAZZA」と書かれた店の横に路地があって、そこを左へ行けば荒川線の線路。逆に右にも路地があって、その方は路地の片側が家1軒分くらいの幅の公園になっている。「瑞光公園」という児童公園だ。開園は昭和32年12月。昭和22年の航空写真と『戦災焼失区域表示帝都近傍図』を見比べると、公園になっている線は建物疎開で建物が取り払われた跡のようだ。

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梅沢写真会館。荒川区南千住1-15
2005(平成17)年7月23日

梅沢写真会館のビルは国道4号(日光街道)から少し引っ込んでいて、その前に立食いそば屋と八百屋が店を出している。ビルの1階は裏に抜ける通路がとられていて「都電荒川線入口/三ノ輪橋商店街」の看板がある。三ノ輪橋商店街は、ビルの裏のジョイフル三ノ輪商店街までのところだけをいうのだろうか?
『私の東京町歩き』(川本三郎著、筑摩書房、1990年、1301円)には梅沢写真会館について以下のように書かれている。すでに30年前の様子なので、引用させてもらう。

……この三ノ輪橋の駅の入り口には、アーチのような役割を果している古いビルがある。ターミナルビルというには小さいがそれでも四階ほどある。昔はこのあたりで偉容を誇っていたのではないだろうか。写真館のビルである。いまはそれだけでは商売が成り立たないのだろう、ジャズダンスの教室もある。
 このアーチの下がマーケットのようになっていてラーメン屋、立喰いソバ屋、果物屋、新聞・雑誌のスタンドが並んでいる。いついっても人通りがあって活気がある。その先には、店頭で、鳥やウナギを焼いている店があっていい匂いがあたりにたちこめる。町はやはりこういうごちゃごちゃした一角がいちばん面白い。

写真館のビルは今の荒川線が王子電気軌道という私鉄の時にその会社の事務所ビルとして建てられた。本社ビルとするサイトも多いが、ウィキペディアでは「1927年(昭和2年)―王電ビルヂング(三ノ輪橋)が完成」。その路線は「王子電車」というのが普通だったようだ。
荒川線入口の1階通路は、たぶん最初からあったものだろう。日光街道には北千住―水天宮の市電が走っていて、王電ビルの前に電停があり、乗り換え客のための通路が必要だった。王子電車の電停が「三ノ輪」、日光街道の方が「三ノ輪橋」となっている地図もある。
『1960年代の東京』(写真=池田信、解説=松山巌、毎日新聞社、2008年、2800円)には1964(昭和39)年に撮られた梅沢写真会館の写真が載っている。その写真では通路の上の梁に「王電……」の文字がある。都電に変わって20年が経っているが、この辺りでは「王電、王子電車」のほうがまだ普通に通用していたのかもしれない。「荒川線」を使うようになるのは1974年10月からである。また、ビル中央上部のアーチの中に車輪のようなマークのレリーフがある。王子電車の社章だったのだろう。

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左:古川商店(雑貨店)。荒川区南千住1-16。
右:伊万里(洋品店)。南千住1-17。2013(平成25)年11月6日

都電荒川線三ノ輪橋電停のすぐ北に、線路と平行に走るアーケードの商店街が「ジョイフル三ノ輪」。アーケードのある通りは両端が折れているが、ほぼ直線で約400メートルに100軒以上の店が連なる。「ジョイフル三ノ輪」の名前をいつから使い始めたのか分からないが、「三ノ輪銀座商店街振興組合」が組織されているから、以前は「三ノ輪銀座商店街」といったのだろう。
商店街の周辺は空襲の被害を免れているので、古い木造家屋は戦前からのものという可能性がある。上の写真の看板建築は、正面を見ただけでは戦後まもなく建てられたようにも見えるが、航空写真で上から見ると、左写真の建物は瓦葺きの寄棟屋根の二軒長屋である。



左:マツダ紙文具店、右:みのりや米店。南千住1-18。2013(平成25)年11月6日

上の写真の隣り合った2軒も、戦前からの看板建築のように見える。ただし古い航空写真で見る屋根の形と、現在のそれとが一致しないようなのだが。

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桜湯。荒川区南千住1-5。1989(平成1)年2月19日

写真手前の通りは明治通り。右手にすぐ常磐線のガードで、その先は三ノ輪の大関横町交差点。昭和22年の航空写真を見ると、明治通りの南側は東京大空襲による焼け跡が広がっているが、北側は隅田川まで焼失を免れたようだ。『戦災焼失区域表示帝都近傍図』では、桜湯の右から後ろにかけて建物疎開をしている。
『銭湯遺産』(町田忍著、戎光祥出版、2007年、6264円)によると、大正元年には営業していたらしい。なんと、番台と玄関の柱には、明治43年の荒川大洪水時の床上浸水の跡が残っていたという。明治通りの拡幅にともない、昭和5年に建物全体を後ろへ下げた。その際、玄関や塀、浴室のタイル部分を改装した。浴室のタイル絵はその時に制作されたらしい。入口両脇の腰の部分にもタイル絵がある。1999(平成11)年2月28日で閉店した。
現在は「ラ・アトレ千住三ノ輪」(14階建26戸、2001年5月築)というマンションに建て替わった。タイル絵はたぶん誰かが何処かに保存しているのだと思う。

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