ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




三井D倉庫。中央区日本橋箱崎町19。1986(昭和61)年6月8日

三井倉庫の敷地の北側、箱崎公園の向かいにあった門からのぞいてみた写真。右手前の事務所のある倉庫に「竹中工務店事務所」の看板が懸かっている。現在のIBM箱崎ビ ル(三井倉庫箱崎ビル、1989年3月に竣工)は竹中工務店の施工だ。この倉庫は撮影時の住宅地図に「三井倉庫航空課航空部分室」となっている。倉庫としてはD1倉庫で、奥へD2、D3が並んでいる。それらが住宅地図では「神崎製紙ソーコ」である。さらに奥にE1~E3があるはずで、わずかに写っているのはE2とE3らしい。



左:B倉庫、D倉庫。1983(昭和58)年6月。右:D3倉庫。1986(昭和61)年6月8日

1枚目の写真の側が表側とすると、上の写真はその裏側で、道路に面している。左の写真の右から、B、D3、D2、D1倉庫(D1は白い壁)。写真左奥に都立日本橋高校の講堂が写っている。



F倉庫。1983(昭和58)年6月

2枚目の写真の道路を右に進むと道路は右へ曲がる。上の写真はその辺りから撮ったもの。右奥へ行くと日本橋川に沿った道路に出る。その手前、倉庫の向かい側に高尾稲荷の小さな祠がある。倉庫は左からF6、F5、F4倉庫。



E倉庫。1986(昭和61)年6月8日

日本橋川沿いの道路に向いた門から撮ったもの。門の右手にビルの倉庫がある位置だが、撮影時にはすでに取り壊されていたと思う。レンガの壁の倉庫はたぶんE2倉庫で、その右に前面の壁だけが残っているのがE1倉庫。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





三井倉庫。中央区日本橋箱崎町19。1986(昭和61)年3月9日

日本橋川が隅田川に出る河口の袂、箱崎町にあったビル型の三井倉庫。撮影時の住宅地図では「三井倉庫㈱・㈱フェニックス」となっている。影になっている隅田川側には解体工事用のものと思える足場が組まれている。
今思えば興味深い建物で、もっと写真を撮っておけばよかったが、当時のぼくは知識もなくて見過ごしていた。この永代橋からの写真が唯一のものだ。 『中央区図書館』の「地域資料」で、「箱崎町」や「三井倉庫」を検索すると何点かこの倉庫の写真が見られる。
『帝都復興せり!』(松葉一清著、平凡社、1988年)によると、「東神倉庫、竣工年=昭和3年、設計=同社」。東神倉庫㈱というのは三井倉庫㈱が1909(明治42)年に創設されたときの名称で、1942(昭和17)年まで使われた。
写真左の豊海橋の後ろに写っているビルは三井倉庫別館。これは今もそのままだ。写真右の隅田川大橋の左に見える4棟の切妻屋根の倉庫は三井倉庫のA1~A4倉庫。

コメント ( 10 ) | Trackback ( 0 )





市原ポンプ製作所。中央区日本橋蛎殻町2-3。1987(昭和62)年頃

前の通りは人形町通りの延長で、右へ行くと箱崎町から隅田川大橋へ入っていく通り。写真左に水天宮がある。道路は地下鉄半蔵門線の工事中のようだ。
角の古いビルは1986年の住宅地図では空ビル。火保図では昭和8年で「市原ポンプ店」、昭和30年頃で「市原ポンプ製作所」。大正元年地籍地図に同じ位置に「市原卿筒製作所(卿筒の「卿」の字は口へんで、「しょくとう」と読むらしい。あるいは「ぽんぷ」と読んだかもしれない)」とあり、明治期から同じ場所で営業していた会社のようだ。
現在は駐車場。



小山商会。日本橋蛎殻町2-2。1985(昭和60)年10月10日

1枚目の写真で右へ行った次のブロック。3軒並んだ看板建築の左の2軒が今も残っている。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





オカハシ配送センター倉庫。中央区日本橋蛎殻町2-8。1987(昭和62)年2月22日

まず写真右奥の3階建てのビルが気になると思うが中央区立有馬小学校である。撮影時には小学校の後ろに蛎殻町公園があった。現在はかつての蛎殻町公園に校舎を新築して、写真の校舎の場所が蛎殻町公園になっている。
写真の倉庫は昭和30年頃の地図では「服部紙店倉庫」(昭和8年の地図でも同じ)で、その手前は銭湯の「竹の湯」があった。現在はマンションが建っている。



オカハシ配送センター倉庫。日本橋蛎殻町2-9。1985(昭和60)年10月10日

1枚目の写真の向かい側。同じ形で3棟並んでいる倉庫は、住宅地図ではやはり「オカハシ配送センターソーコ」。その右の倉庫は「東伸社倉庫」。箱崎川の河岸から荷を上げ下げするための倉庫がこの辺りまで建っていたわけだ。
現在はロイヤルパークホテルの敷地で、ホテルの後ろの庭園になっている。

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )





秀明閣アパート。中央区日本橋蛎殻町1-18。1985(昭和60)年10月10日

この建物はすでに「秀明閣アパート、堀善商会/蛎殻町1」に載せた。写真も旧記事のものとほとんど同じだ。今回は永井荷風がこのアパートを訪れたことがあるらしいと知っての再登場である。

川本三郎著『荷風と東京』は「『断腸亭日乗』私註」の副題がある。『断腸亭日乗』を読まなくても、その内容が解ったきになる便利な本だ。なんといっても索引が付いている。この本で「箱崎町」や「蛎殻町」の箇所を調べていたら、「日中戦争下の日々」という章に、「戦時下にあっても荷風は私娼に目を向けていた」という意味の文の後に「舗下かきがら町アパート秀明閣に野口老婆を訪ふ。……」が引用されていた。『断腸亭日乗』の昭和15年11月10日である。

この日、荷風は寒くて寝床で正午まで本を読んでいた。食後、「かきがら町アパート秀明閣」に野口老婆を訪ねる。私娼が二人いて赤飯を食べながら、紀元2600年の祭礼なので料理屋やカフェーでは朝から酒を売っているし、待合茶屋や連込旅館の臨検もないだろうと、一緒に商売に出かけてしまう。9時過ぎにアパートを出て電車に乗る。新大橋通りの蛎殻町か水天宮停留所から9番の渋谷行きに乗ったのだろう。歌舞伎座前(三原橋停留所)で偶然斎藤氏が乗ってきたのに出会い、一緒に芝口の金兵衛酒店に入る。そこにまた偶然杉野昌甫氏が来る。

秀明閣が出てくるのはこの日が最初ではないだろう。『日乗』を読んで調べる根気はないから、昭和15年1月から11月10日までをざっと眺めてみた。
9月23日に「燈刻蛎殻町に野口を訪ふ。」
10月31日(巻末のメモ)に「秀明閣 (六六)五二〇八」
が見つかった。電話番号と共に「日本橋区蛎殻町1の10」と住所が書かれていれば、写真の建物が『日乗』の秀明閣だと確定したのだが。
『日乗』を精読したり、荷風の研究本を調べればもっとなにか出てくるのかもしれないが、ぼくの調査はこれまで。




「goo地図>昭和38年航空写真」から。左写真の左上の広い道路が新大橋通り。右写真は秀明閣アパートを中心に拡大したもの。

旧記事と重複するが、ぼくの知っている秀明閣について書いておく。古い航空写真に写っているように秀明閣は2棟が中庭を挟んで建っていた。東側に2棟をつなぐ渡り廊下があった。玄関は建物南側の道路にあって、たぶん引き戸だったのだと思うがいつも開いていた。三和土で靴を脱いで廊下に上がるようになっていたのだろう。小さな日本旅館の玄関を思い浮かべてもらえばいいだろうか。中庭は日本庭園風に造ったもので、池もあった。昭和8年5月作成の火保図ではこのアパートはまだない。南北に長い長屋が2棟並んでいたようだ。
いつのまにか南棟が取り壊されて、昭和60年頃には駐車場になっていた。取り壊される前の玄関の写真は無理だったとしても、駐車場ごしに北棟の南面は撮れたはずなのに、悔まれる。

荷風が初めて秀明閣を訪れたとき(2012.02.02追記)
『断腸亭日乗』の昭和11~14年をボチボチと読み進めていたのだが、その最後のほうに秀明閣が出てきた。昭和14年12月22日の記述を引用する。
・・・昏暮土州橋病院に往き帰途叶家を訪ふ。叶家の紹介にてかきがら町日本橋区役所側のアパート秀明閣に至り野口といふ女を訪ふ。大正十三四年の頃麻布我善坊ケ谷の横町に生花教授の札を下げ私娼の取持を業とせしもの。久振の奇遇にて互に一驚せり。滑稽といふべし。(電話・・・ 部屋十一号室)
日本橋区役所のそばというから、写真の建物に間違いなさそうだ。叶家というのは同書に「水天宮裏の待合叶家」「かきがら町叶家」などとして出てくるが、「水天宮裏の鼎亭」というのも同じかもしれない。『荷風と東京』では「叶家は竃河岸(へっついがし)にあった小待合。・・・連れ込み宿に近いところだったようだ。・・・」と説明されている。
秀明閣の野口ばあさんを、麻布で商売していた頃に知っていたとは確かに笑ってしまうしかない。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





丸勝運輸。中央区日本橋箱崎町34。1990(平成2)年

写真左の首都高が高速9号深川線で、それを左にいくと隅田川大橋。
手前の空地は、住宅地図では「鈴木電設」という会社の資材置き場らしい。引っ込んだ位置に2階がある民家は「丸勝」。今も同じ場所にある「丸勝運輸」だろう。そこのHPによると昭和9年の創業である。


美馬印刷
1987(昭和62)年4月26日

1枚目の写真で左に見えている洋風看板建築の家。住宅地図で「美馬」とある。仕舞屋にしか見えないが、この会社は今もちゃんと続いていて、HPもある。それによると昭和29年4月の設立だ。昭和30年頃の火保図では「美馬活版所」となっている。その右の家は「箱崎町四丁目町会事務所」。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





日本郵船倉庫。中央区日本橋箱崎町36。1987(昭和62)年4月29日

現在は隅田川大橋の袂に建つ「リバーサイド読売ビル」の、門のように開いたところに当たる。写真の倉庫は隅田川に沿って並んでいた倉庫のひとつで「北No.1棟」。以前はこの倉庫の北側(写真左手)に「北No.5」までの倉庫が並んでいたが、撮影時はこの北No.1しか残っていなかった。写真右の空地は、1986年の住宅地図で「読売専用駐車場」。倉庫が機能していたときにはトラックの発着場だったと思われる。古い地図を見ると、ここは隅田川の入掘りでダルマ船が数隻入れられるようになっていた。幅は倉庫1.5棟分くらい。埋立てられたのは意外と遅く、1980年頃のようだ。
写真の駐車場の南には「南No.1」から「No.6」までの倉庫が並んでいて、現在はIBM箱崎ビルになったが、三井倉庫と接していた。隅田川大橋の完成が1979(昭和54)年で、南倉庫の真ん中を通された。従って南倉庫は少なくとも1970年代半ばには取り壊されたとものと思う。



倉庫北側の倉庫跡は月極駐車場。1990(平成2)年

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





ハコザキバーバー。中央区日本橋箱崎町31。1983(昭和58)年6月

隅田川大橋への上り口の交差点を東へ入ってすぐのところ。前の道路は、今はないが中州橋で日本橋中州とつながっている。震災後の道路整備で新たに通されたものだ。
この辺りでは珍しく商店が並んでいる。斉藤食料品店、ハコザキバーバー、栄楽食堂があるが、昭和30年頃の火保図でも「斉藤」「箱崎バー」「栄楽軒そばS」で、栄楽食堂の右の家は戦前からの炭屋だったらしい。
現在は1991年3月に竣工した「箱崎314ビル」になった。



旧斉藤食料品店。1987(昭和62)年4月26日

斉藤食料品店は看板を下ろしてしまっている。その建物は3軒長屋の集合店舗になるようだ。床屋の看板は、以前は「箱崎理髪店」と書かれていたと解る。白く塗りつぶしたと思われるが、どうして浮かび上がってくるのだろう。「Bar Ber」の表示では「Beerの飲めるBar」のように読めてしまう。



光栄。日本橋箱崎町34。1987(昭和62)年4月26日

写真右端の建物は2枚目写真の左の看板建築で、「中村木工所」。写真中央の看板建築の角が住宅地図に「光栄」となっている家。2枚目の写真もだが、どの家にも選挙ポスターが貼られている。中央区議会議員の選挙らしい。どうも空き家をいいことに無断で貼りまくったとしか思えない。



「赤いとってのついたコウモリ傘を杖がわりにする床屋の顔をした糖尿病のサギ師」

上のファンタスティックな絵は、CGアーティストとしてご活躍の柴田弘嗣氏より、当ブログに頂いた作品です。ご覧のようにハコザキバーバーが描かれていますね。長いタイトルも謎めいています。
……ハコザキバーバーが傘を杖代わりに立って、人を待っているのでしょうか? ハコザキバーバーはただの書割、それでもうっかりドアを開けて入ってしまう人がいるのかもしれません。世の中にはみえみえの詐欺に引っかかる人は後をたちません。などと冷静な顔で言っている人が危ない……
1985年頃の作品とのことです。(2011.10.26追記)

コメント ( 5 ) | Trackback ( 0 )





長屋。中央区日本橋箱崎町40。左:1983(昭和58)年6月

当ブログ前回の二村商店の向かい。総2階木造の、四軒長屋と民家である。
「日本橋」というと伝統的な商業地区という格式からか、あまり長屋を見ることはないように思う。5分も歩けば人形町であるが、箱崎町はかつて島の倉庫街で商業地区とは地理的にも切り離されていた。箱崎町に見る民家や長屋は、旧京橋区の入船や湊、あるいは築地といった水運と結びついた町との共通性があるようだ。
現在、写真左の民家はなくなってコインパークになっている。四軒長屋は右端の家が改築したので三間長屋になって残っている。



1枚目の写真、左の民家。1990(平成2)年

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





旧・二村商店。中央区日本橋箱崎町41。1990(平成2)年

東京シティエアターミナルのすぐ横。写真左のビルは「日本橋倉庫箱崎第二ソーコ」。民家は戦前の火保図で「二村商店」。正面は近年の増築かもしれない。右の空地は「小網容器置場」。「小網倉庫」が建っていた跡である。
写真右奥の首都高はかつては箱崎川で、その川沿いに倉庫が立ち並んでいた。現在はマンションが建っている。


旧・山本商店
1983(昭和58)年6月

1枚目の写真のすぐ右側。角の家は戦前の火保図に「山本商店」となっている家。昭和30年頃の火保図では「住宅」になってしまっている。奥に看板建築の3軒長屋があるが、すでに空き家らしい。
右奥の突き当たりの黒っぽいコンクリートの部分は、恐らく箱崎川の堤防だった部分だろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ 次ページ »