ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




居酒屋・あーちゃん。静岡県熱海市渚町15。2011(平成23)年5月20日

当ブログ前回の「居酒屋みかく」の写真の左奥に写っている「なぎさ中通り」にある店。建物角の「食堂園」の看板の店はあーちゃんの隣だ。今、ストリートビューを見ると、食堂園の先の赤い日よけの店が「ラーメン屋・一徹」という店になっている。その隣の「富良野」は「季の食・妙(たえ)」に替わっている。入れ替わった2軒の店構えは以前の店のままなので、通りの家並みはまったく変化していない。下右の写真は1枚目写真右の路地



居酒屋食事処・富良野(渚町15)、路地(渚町18)。2011(平成23)年5月20日

熱海の、国道135号から海側の公園や町は埋めたによって造成されたものらしい。あるいは国道自体も埋め立てたと土地なのだろか? 渚町の全域もそうらしい。町の発展で、傾斜地しかない熱海の街が海へ押し出されたわけだろう。町の発展の契機はまず、熱海駅の開業だろう。1925(大正14)年3月25日である。それまでは東海道線の国府津駅から路面電車と軽便鉄道が通じてはいたが多くの客を扱えるような交通手段ではない。当時は熱海線の丹那トンネルが工事中で、まずは熱海までが開通したのである。そして丹那トンネルの開通により熱海駅が東海道線の駅になったのが1934(昭和9)年12月1日。それによって観光客は一段と増えた。
海岸の埋め立ての始まりは関東大震災で崩れた崖の土石を捨てる形で始まったのではないか、と考えてみたがどうだろう? そして昭和10年頃から土地造成を意識した埋め立てが始まったのではないだろうか? 丹那トンネル工事で出る土砂が埋め立てに使われたかもしれない。ただし、『闇を裂く道』(吉村昭著、文春文庫、1990年、466円)には、そういった記述はない。昭和16年には新丹那トンネルの工事が開始されている。そこで出る土砂は海岸に捨てられたかもしれない。
熱海まちづくりビジョン』には「(昭和25年の)熱海大火後には、埋め立てが進み、東海岸町 や渚町が誕生しました。」とある。その大火の出火元は渚町の北部である。大火後も渚町は南へ埋め立てが進んだのかもしれない。

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