ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




平屋の民家。台東区谷中7-18。2005(平成17)年4月2日

朝倉彫塑館の裏手の路地にあった民家。路地は左の方へクランク状に続いていて「銀杏(ぎんなん)横丁」の名前がある。写真の民家は現在は建て替わっている。写真左端の家が「希月荘」というアパート。そちらにいくと道の曲がり角の民家の前に「幸田露伴居宅跡」の案内板が立っている。
露伴は23歳の明治24年1月からほぼ2年間、当時の住所で下谷区谷中天王寺町21番地に住んだ。その間毎日、感応寺の五重塔を眺めていたわけで、明治24年11月小説「五重塔」を発表した。ぼくは中学校の読書感想文の宿題のためにこれを読んだ。とにかくページ数が少なかったからだ。ほかのみんなは漱石の「こゝろ」なんかを読んできていて、びっくりしたり感心したりした。


『東京文学百景』(志村士郎著、有峰書房、昭和47年、850円)は露伴の住居跡地が旅館素月になっていた頃に書かれていて、その旅館の写真が載っているのでお借りした。本文には「居住跡は「素月」という旅館に変わり、道行く人に訴えるかのように看板には「文豪 幸田露伴先生邸跡」と大書してある。」
『谷中スケッチブック』(森まゆみ著、ちくま文庫、1994年、660円、単行本は1985年)には、「「素月」はもちろん「五重塔」の最後の一文からとられていよう。」とある。現在のアパート「希月荘」の名前も「五重塔」あるいは露伴との関連があるのだろうか?



朝倉彫塑館の裏手の洋館。谷中7-18。2005(平成17)年4月2日

上左写真は「幸田露伴居宅跡」の案内板の前から西方向を撮ったもの。正面の和風の門の後ろに見えている黒い建物が朝倉彫塑館。洋館は『谷中スケッチブック』に「…古い洋館は箏の山田抄太郎の住んだ家で、その手前(右写真の前の家)が北原白秋が一年ほど住んだ家。」とある。白秋は大正15年5月に小田原から移ってきた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )