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「歴史的文献としての「日本国憲法と九条」

2017-06-19 06:20:39 | 日本

西村真悟さんが歴史的文献としての「日本国憲法と九条」について掲載している。
以下、要約し記す。



「戦後という時期」は、現在に至るも、戦場でアメリカ軍が日本兵を射殺し、火焔放射器で焼き殺し、日本の婦人がサイパンの崖から身を投げる影像が、毎年、八月十五日が近づけば、我が国のTVで放映されるが、あの影像は、アメリカ軍が、日本軍が弾も武器も食料も無くなって戦うことができなくなってから、本国における戦意昂揚と予算獲得の為に撮影したプロパガンダ影像であり、日本軍との戦闘の実相を映したものではない。

第一に、アメリカ軍が日本軍との戦闘の最前線に使った黒人兵は一人も映っていないではないか。
日本軍兵士の回想に、最初に来る敵は全て黒人なので、「俺はアフリカと戦争をしているのかと思った」とあるのを読んだことがある。

さて、我らは、マッカーサーのGHQに「太平洋戦争」という呼称を強要されてそのまま使っているので、太平洋の島々の負けた戦いしか知らず、「大東亜」つまりアジアの大地での実態は視ていない。
日華事変の直後に召集され七年近く北支と南支で戦い、昭和二十年の終戦後に伍長で帰還した作家伊藤桂一氏の戦場の回想である「草の海 戦旅断想」に、終戦後の八月十七日のことを書いた次のような記述がある。
 
槍兵団の一部が、駐屯地から北上を続けていたとき、新四軍(共産軍)に包囲されて
「武器を捨てれば貴隊を保護してやる」という勧告を受けた。
その勧告に対して部隊長は「道をあけろ、あけねば武力で通る」と応じて、交戦して撃退し、敵の小銃七十挺を鹵獲して、悠々とある町に着いた。
すると、いく分当惑して寄ってきた中国人が言った。
 
あんたらは、もう戦争にまけているのだ・・・
いつまでも勝っている気分でいられちゃ困ります。

また、他の箇所で、伊藤氏は、戦争が終わったという知らせが来た時、捕虜のイギリス軍将校が負けたと泣いたので、日本軍将校が彼を慰めた。
すると、負けたのは日本だとの知らせが入り、今度は、しょげた日本軍将校を、泣いていたイギリス軍将校が慰めた、という情景も書いている。

以上は、伊藤桂一氏の体験した情景であるが、中国戦線、インドシナそしてインドネシアにおいては、八月十五日にも日本軍は最強の軍隊として存在していた。
この地域を支配したい蒋介石軍と共産党軍、この地域に帰りたいイギリス、フランス、オランダにとってこの最強の健全無傷な日本軍が武装を解除するか否かが最大の関心事であった。

従って、この日本の帝国陸海軍を武装解除させることが、昭和二十年九月二日に調印された「降伏文書」の主目的となっており、さらに、五か月後の昭和二十一年二月四日~十二日に起草された「日本国憲法」の主題、主目的となったのである。
従って、この「憲法」を書いた者たちは、特に「第二章」という「九条」だけの一章を設けて
戦争の放棄と、陸海空軍の不保持と交戦権の否定を特筆しているのだ。

つまり、「降伏文書」と「日本国憲法」は、一体の文書であり、あのマッカーサーは、「降伏文書」で日本に約束させた陸海軍の武装解除をさらに追撃して「日本国憲法」で徹底し、かつ固定化しようとしたのだ。
それが、「前文」と「九条」であり、さらに、日本人を家族と社会と国家から遊離させる「人権規定」である。
天皇と国家と社会と家族との強い絆が、日本人の強さの源だからである。

以上の通り、「日本国憲法」と、その象徴である「九条」は、マッカーサーが骨身に染みた
「日本軍の強さ」、「天皇を戴く日本の強さ」を解体する目的で書かれた復讐文書であり、
同時に、祖国のために日本軍兵士が如何に勇戦奮闘したのかを示す文書である。

アメリカ軍だけは、確かに太平洋で勝った。
そして、まだまだ余力があり、もし本土決戦になれば、太平洋の島々のようにアメリカ軍の前で日本軍が簡単に崩壊すると我々は教えられている。
それ故、我が国の本土決戦は、軍国主義の発狂、きちがい沙汰、だというように思い込まされた。
果たして、そうであろうか。
確かに、我が日本は息絶え絶えであった。
しかし、こちらが苦しいときは、敵も苦しいのだ。
アメリカ軍も、決死の日本軍との、今まで以上の本土での決戦に耐えられたであろうか。
以下は、「大東亜戦争と本土決戦の真実」(家村和幸著、並木書房)より、フィリピン戦線で勝ったアメリカ軍師団長は、降伏した第十九師団長長尾中将に次のように語っている。

戦場で相見えた仲でなければ相手の偉大さは分かりません。
あなた方日本軍の精強さに私たちは感嘆しています。
日系市民志願兵で編成された第四四二部隊が樹てた偉大な業績は米軍内で驚異の的になっています。
私たちは、この戦場でその実際を身をもって痛感しました。

大本営は、昭和二十年三月、要衝のラバウルを守りとおしている第八方面軍参謀の原四郎中佐を、ラバウルから東京の大本営作戦課に呼び戻して本土決戦担当の参謀とし、次いで激戦中の沖縄から決死の覚悟で小舟で脱出して沖縄戦の地上戦闘の教訓を伝えた神少佐と森脇大尉の報告を元に本土決戦姿勢を決定して、六月、参謀次長名をもって「本土決戦根本義の徹底に関する件」を各部隊に通達し、奇しくもドイツのロンメル元帥が、ノルマンディー上陸作戦の直前に言った通りの決戦を水際で実施しようとしていた。
ロンメル元帥は、ノルマンディーの海岸でこれを実施できなかったが、大本営は、千葉県外房の海岸でこれを実施しようとしていたのだ。

勝負は、この海岸で決まる。
敵を撃退するチャンスは一度しかない。
それは敵が海のなかにいるときだ。
上陸作戦の最初の二十四時間が決定的なものとなる。
この如何によってドイツ軍の運命は決し、連合軍にとっても、我々にとっても、「いちばん長い」になるだろう。

六月十三日は、「沖縄県民斯く戦えり 県民に対し後世特別の御高配を 賜らんことを」との訣別電報を海軍次官宛てに打電して、沖縄の小禄の海軍壕の地下の司令官室で自決した大田 實海軍中将の命日である。
私は、千葉県茂原の大田中将の森と田園に囲まれた生家の横に建てられた大田中将の慰霊碑の前で、命日に行われる顕彰慰霊祭に参列した。
この慰霊祭は、茂原や市原など近隣の有志が執り行って今年で三回目を迎える。
慰霊を終えて、地元の同志の案内で、茂原市内に残る本土決戦用の飛行機格納壕と滑走路跡を見て回った。
そして、翌日、外房の風が激しく鳴り波が押し寄せる九十九里浜に立った。
アメリカ軍の上陸適地は、この浜しかない。
相模ではない。ここがノルマンディーとなる。
そして、ラバウルを守り抜いた第八方面軍司令官今村 均大将が部下に語った、敵が上陸したならば、目をつぶって海岸に突進して、敵の喉元に喰いつく、という壮絶な決意を思った。
三年後の東京オリンピックのサーフィン会場は、七十二年前の敵上陸適地、即ち敵迎撃適地、であった。

「憲法九条」は、まさに、日本人、日本軍、の強さと敵の恐怖を示す歴史的文書である。











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