龍の声

龍の声は、天の声

「幕末の風雲児・高杉晋作」

2012-11-20 08:07:43 | 日本

慶応三年(1867年)4月14日に長州藩士・高杉晋作は死去した。享年29歳。
その人生は「おもしろきこともない」どころか波瀾に満ちている。

18歳で吉田松陰門下となり、文久二年(1862年)藩命により幕府使節随行員として長崎から上海へ渡航。翌年6月には士農工商の身分制度に拠らない志願兵の「奇兵隊」を創設する。
その後脱藩して投獄されたり、攘夷の報復攻撃である四ヶ国連合艦隊の下関攻撃に際しては和議交渉の全権を託され、諸外国の彦島租借要求を拒絶したりと人生の変転が目まぐるしい。
元治元年(1864年)12月15日、長府の功山寺(現・下関市)で挙兵して長州藩を勤皇に統一。この行動が明治維新に向けての引き鉄となる。
慶応二年(1866年)6月の第二次長州征伐では、小倉口総督として逆に小倉藩領に攻め込む。そして幕府軍を破るも、病魔に倒れるのである。

彼の晩年の行動原理は、どのようにして形成されたのか?
それは、野山獄における獄中生活にある。新作は功山寺で決起する半年前の元治元年3月、野山獄に投ぜられていた。

彼が残した『獄中手記』について書かれた文章があったので記す。

元治元年(1864)3月29日、城下の野山獄に投じられた。
この日から筆を起こしたのが『獄中手記』であり、6月21日に自宅座敷牢に移ったところで筆をおく。周囲から誤解されて罪をえたと感じていた晋作は、せめて自分の子孫だけには、その志を知ってもらいたいと願い、手記を著す。妻の胎内には、この年10月に生まれることになる子供がいた。

投獄初日に晋作は「先生を慕うてようやく野山獄」と詠む。
吉田松陰の志を継ごうとする、素直な感慨だ。松陰もかって二度ばかり、野山獄に投じられたことがあった。
それから晋作は、読書と詩作に明け暮れた。読書は1日20から90葉(ページ)、詩歌は1~2作だった。

4月3日の条では「人世沈浮不敢休」云々といった漢詩の後に、「余かつて支那に遊ぶ。今を去るすでに三年、昨日の鳳翼今変じて籠中の鳥となる。諺に曰く、人間万事塞翁の馬、真なるかな」ともらす。
かつてはエリートとして上海を視察した自分が、いまは囚人となっている非運を嘆き、災い転じて福となって欲しいと願うのだ。

4月11日の条では、松陰に思いを馳せ、次の漢詩を作る。
偸生決死任時宜 不患世人論是非  甞在先師寄我語 回頭追思涙空垂
死と直面した晋作は、「回(松陰)先生、江戸獄にあり、予に書を寄せて曰く、死生は度外におくべし、高節天祥の如きといえども、生を偸むべくんば則ち生を偸む云々」といった、かつて松陰から教えられた死生観を思い出さずにはいられない。

5月20日の条には、杉伯教(松陰の家兄梅太郎、民治)の求めにより、松陰の文稿を閲校している様子が「隨って誌し、隨って録す。一日の間、謄写その半ばを居る」と記されている。

5月25日に晋作が獄中から杉にあてた手紙にも「先ず一応全集相整えべきと相考え候」とあり、かねてから気にかかっていた松陰全集の編纂に取り組んでいた様子がうかがえる。
生前、松陰は「著書を出版し、不朽にしてくれれば、万行の仏事に優る」(『杉民治伝』)と述べたという。だから晋作の仕事は一万回の法要を催すよりも重要な意味を持っていたのだ。

6月1日には「幽室記」と題した長い文章を書く。
生死を度外に置くという松陰の言を思い出したりしながら、「余、先師(松陰)に地下に誓い、翻然として心を改む。早起して室を拂い、虚心黙語、従容として以って命の終るを待つ」と、気を引き締める。獄中の晋作は精神的に不安定な時も多く、読書したり詩文を書くことで、なんとか心を落ち着かせていたのだ。

6月7日には「真の未定稿、他日の削刷を待つ」とし、七千字近い長文を書く。
ここでは来島の説得に失敗した末に、上方に向かった事情等が詳しく述べられており、反省はしつつも「然れども直言直行傍如無人、身命を軽んずるの気魄有ればこそ、国の為深謀遠慮の忠も尽くさるべし」と、みずからの信念を述べている。

やがて父、小忠太が周旋した甲斐あり、晋作は6月21日に獄を出て城下菊屋横丁の自宅の座敷牢に移る。「
家翁欣喜出迎我」、喜んで自分を迎えてくれる父の姿を見て、晋作は涙がとまらなかった。

日記は一応ここで終わり、8月3日に自宅で書いた短い跋文をもって『獄中手記』は終わる。




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