龍の声

龍の声は、天の声

「歴史街道  大東亜太平洋戦争シリーズ ③」

2017-05-26 06:16:16 | 日本

「菅野直と紫電改 指揮官先頭を貫いた闘魂」


◎「ワレ、菅野Ⅰ番」連日の死闘、盟友との別れ・・・あくまでも戦い抜く

「あの不死身の杉田が戦死するとは…」。撃墜王の悲報に、さしもの菅野も肩を落とした。悪化する戦況の中で343空は特攻機の護衛、B29の邀撃と困難な任務をいくつも担わされ、激闘の中で有能な人材が次々と失われていく。しかし、菅野が烈々たる闘志を失うことはなく、最期の瞬間まで、隊長として敵に挑み続ける。


◎杉田との別れ

華々しい初陣を飾った第343航空隊だが、物量で勝る米軍の攻勢は凄まじく、多勢に無勢の剣部隊は次第に苦戦を強いられる。
昭和20年(1945)4月15日、戦闘301飛行隊の8機が鹿屋基地の上空防衛のために待機していた。

杉田庄一上飛曹にとって、鹿屋基地は居心地が悪かった。剣部隊は第5航空艦隊に属しているが、その司令部は鹿屋基地にあり、司令長官が宇垣纏中将だったからである。杉田が山本五十六司令長官機の護衛についたとき、2番機に乗って撃墜されながら助かったのが、当時連合艦隊参謀長たった宇垣である。宇垣は4月6日から、沖縄防衛の特攻作戦「菊水作戦」を指揮し、源田実司令にも「そろそろ特攻隊を出してはどうか」と打診していた。
源田から話を聞いた菅野は、鹿屋から他の基地へ移るように意見具申した。源田からの要請で343空は第一国分基地へ移動することになり、それが2日後に追っていた。

午後3時ごろ、電探(レーダー)基地と監視哨から指揮所へ緊急通報が入った。

「敵編隊、佐田岬の南東10カイリ(約18.5キロメートル)を北進中!」

源田は「即時発進」を命じた。杉田は愛機に飛び乗った。2番機の笠井智一(上飛曹)、3番機の宮沢豊美(二飛曹)、4番機の田村恒春(飛長)も搭乗した。源田は双眼鏡で上空を見あげた。すでにグラマンF6FとF4Uコルセアの編隊が攻撃態勢に入り、急降下してきた。どんな優秀な搭乗員でも離陸時を狙われたらひとたまりもない。

「発進中止、退避せよ!」

源田は自ら機上の無線電話に向かって声を張りあげた。ほとんどの隊員は発進を中止したが、すでに杉田と宮沢だけは滑走を始めていた。杉田の機体は離陸直後に敵の猛射を浴びて火を噴き、飛行場の端に激突した。宮沢も燃料タンクを撃ち抜かれて火だるまとなったまま飛び続け、国立療養所の庭に落ちた。

「あの不死身の杉田が戦死するとは…」

悲報を告げられた菅野直大尉は激しいショつツクを受けた。その姿は傍から見ていても痛々しいものがあった。
翌16日、杉田の遺体が荼毘に付された。ところが火葬の前に再び空襲があり、敵戦闘機が放ったロケット弾が近くで炸裂し、杉田の遺体を吹き飛ばしてしまった。

源田の具申により、杉田の戦死は全軍布告され、単独撃墜70機、協同撃墜40機の功績により2階級特進で少尉に進級した。


◎続く悲劇の連鎖

杉田庄一を失って傷心した菅野だったが、今は戦争中である。戦意まで喪失するわけにはいかない。菅野は自分の心に鞭を打ち、杉田が荼毘に付される4月16日朝、加藤勝衛(上飛曹)を2番機にして出撃した。

この日は鴛淵孝大尉率いる701飛行隊が8機、林喜重大尉率いる407が12機、菅野率いる301が16機の計36機が発進した。それぞれの隊長機の胴体後部には隊長機を示す黄色い線が2本、襷掛けのように描かれている。総指揮官は鴛淵が務めた。

途中で3機がエンジン不調で引き返す。紫電改は高性能だが、質の悪い燃料やオイルによって故障が生じやすかった。
奄美大島と喜界島の中間上空にさしかかると、グラマンF6Fの編隊と遭遇した。敵編隊は高度6000メートル。500メートル下で味方が左旋回すると、敵編隊は左旋回しながら第2中隊へ急降下攻撃をしかけてきた。第2中隊の数機が一撃を食らって墜落してゆく。

「ワレ、菅野1番、これより支援に入る。俺に続け!」

格段に向上した無線電話で命じると、菅野はこれまでと同じく先頭を切って格闘戦の渦の中へと突入した。

だが、この戦闘で剣部隊は自爆1機、未帰還機8機、不時着機1機と大きな痛手を負った。菅野は2番機についたばかりの加藤を戦死させてしまい、自責の念にかられた。

翌17日、剣部隊は鹿屋から第一国分基地に移った。ところが菅野が頼みにしていた笠井がエンジントラブルで小山に激突して右足を骨折、戦線から離脱してしまった。

この基地には第3航空艦隊601空が駐屯していたが、やはり菊水作戦による特攻隊が出撃していた。18日朝、基地はB29の編隊による空爆を受けた。以後、米軍は九州の各基地に100機ほどの大編隊で襲来し、爆弾を雨のように落とすようになった。
菅野は将兵の士気を鼓舞するためにB29を撃墜しなくてはならないと決意し、源田司令にかけあった。すぐに鴛淵、林を交えて攻撃方法について議論を重ねた。

菅野はかつてB24に対して敢行した前方上空からの背面急降下による直上方降下攻撃を主張したが、鴛淵と林は「誰もができる芸当ではない」として渋った。

21日朝、B29の編隊が宮崎方面から西に向かっているとの報が入り、剣部隊は発進した。指揮所からは無線電話を通し、源田司令の敵情報告が入る。途中、エンジン不調で3機が引き返したが松山の別働隊が加わり、30機を数えた。といってもB29は10機ほどの編隊が次から次と波状的にやってくる。そのため源田は特定の1コ編隊に攻撃を集中するように命じていた。

菅野は後方の編隊に狙いを定めた。米軍に一泡吹かせるには、まず自分が手本を示してB29を撃墜しなくてはならない。いざとなったら体当たりも辞さない。そんな強い決意のもと、急上昇した。B29は10000メートル上空を悠々と飛べるが、日本軍機を見下すように高度を下げて飛行していた。それがこちらの付け目になる。

「ワレ菅野1番、攻撃に入る」

全軍に伝え、列機を率いて上空で背面となり、編隊の後方を飛んでいる機体に向けて急降下した。さすがにB29はでかい。巨大なオニヤンマのように見える。コックピットが複眼となって迫る。菅野は4挺の機銃から20ミリ弾を放った。狙った機体の背部にある機銃座だけでなく周囲のB29からも赤い閃光が飛んでくる。操縦桿を臍に押しあてる。「ぶつかる!」と思った次の瞬間、前方をすりぬけていた。こちらの機首を立て直し、上空へと向かう。自分が撃ち落としたかどうかわからないが、炎を噴きながら降下してゆくB29の機体が見えた…。

だが、この日の戦闘で林隊長の機体は阿久根の海岸沖に突っ込んでしまった。失速が原因とみられる。地元の消防団員が小舟に分乗して林を収容したが、すでに事切れていた。301飛行隊の清水俊信(一飛曹)も海面に激突し、機体と共に海中に没した。

菅野は自分がB29の撃墜を強く主張したために林や清水に無理をさせ、死に追いやってしまったと悔やんだが、彼らの遺志を継いで死闘を続けるのが使命と闘志を掻き立てた。

剣部隊は4月25日、懐かしい松山基地に戻ったのち、ほどなく長崎県の大村基地に移った。407の後任飛行隊長として菅野と同期の林啓次郎大尉が着任した。

菅野はここで隊員たちに直上方背面降下によるB29攻撃について事細かく説明し、操縦方法を具体的に教えた。その甲斐があってか、5月11日、豊後水道付近でB29の編隊を邀撃したときには2機撃墜の戦果をあげた。

剣部隊は5月11日までの間に来襲した延べ1000機以上のB29に対し、紫電改延べ120機をくりだし、12機を撃墜した(源田實著『海軍航空隊始末記』文春文庫)というが、日を追うごとに戦死者は増えていった。

6月22日には407の林啓次郎隊長と隊員3人が未帰還となった。林の後任として菅野と同期の光本卓雄大尉が着任した。
7月中句には横須賀航空隊から武藤金義少尉が赴任した。武藤は撃墜王として知られる坂井三郎と同じく、日中戦争から戦ってきたベテラン搭乗員である。卓越した空戦術で敵機を蹴散らしていたことから「空の宮本武蔵」の異名がつけられていた。杉田に代わって菅野を助ける逸材が欲しいという源田の意向で異動してきたもので、引き換えとして701の坂井三郎が大村を去っていった。
「菅野を頼むぞ」

源田司令が言うと、「私が参りました以上、菅野大尉を殺させるようなことは致しません」と力強く答えた。菅野は武藤の精悍な顔を見て杉田を思い出し、頼もしく感じた。

7月24日、剣部隊は豊後水道上空で敵艦上機の大編隊と死闘をくりひろげた。菅野は自分の伝授した攻撃法が隊員に伝わっているとの手ごたえを感じ、大村基地に帰還した。搭乗員の報告をまとめると計16機を撃墜していた。ところが損害も大きかった。ラバウル航空隊の全盛期を知っていた数少ない指揮官の鴛淵孝を含む6人が未帰還となった。その6人の中に、あろうことか剣部隊では初陣となった武藤金義も含まれていた。
「いよいよ、次は自分の番か…」

弱気になりそうな心を、菅野は生来の負けん気で踏み止まらせた。


◎さらば、祖国よ

剣部隊は戦局の悪化に伴い紫電改の補充が断たれ、燃料は本土決戦のためと称して極力節約するように命じられた。
8月1日、先任飛行隊長となった菅野率いる剣部隊全機が沖縄方面から来襲する敵機を邀撃するため、ひさびさに大村基地から出撃した。全機といっても紫電改72機で大編隊を組んだ全盛期には遠く及ばず、20数機が参加するのがやっとである。

高度6000メートルで屋久島近くに達したとき、菅野は同島西方の5000メートル付近で旋回しているB24の編隊を見つけた(このとき最新鋭戦闘機のP51マスタングがいたかどうかについては『三四三空隊誌』の隊員の回想でも異なる)。
「全機、突撃せよ!」

無線電話で伝え、増槽を落とた。B24は南方で戦って以来の因縁がある。見慣れた機体に一撃を加えて急降下すると、とたんに激しい衝撃が機体に走った。

操縦桿が思うように動かない。左翼の日の丸あたりを見やると表面がやぶれ、めくれあがっている。20ミリ機銃の暴発だった。翼が飛び散らなかったのは幸いだが、これでは戦えない。丸裸になったも同然である。
「機銃筒内爆発。こちら菅野1番」

無線電話で伝えた。まもなく2番機の堀光雄(のちに三上と改姓)が降下してきて横に並んだ。ここにいてもどうにもならない。「俺にかまわず、さっさと空戦に戻れ」。菅野は堀に仕草で伝え、堀がそれに従わないと見ると、睨みつけ、殴るぞという手つきをしながら命じた。菅野の荒ぶる姿勢に堀はためらっている表情だったが、意を決したように上昇していった。よし、それでいい。菅野の顔に一瞬、笑顔が浮かんだ。しばらくして、敵機も味方機も周囲に見当たらなくなった。

「空戦やめ、集まれ」

無線電話に告げると、遠くで光る機影があった。あれは敵機か味方か。菅野が目を凝らしているうちに紫電改は失速を始めた…。
終戦まであと2週間と迫っていたその日、零戦と紫電改を駆って死闘を演じ続けた空の勇士、菅野直は最後まで闘志を失うことなく敵に立ち向かい、大海へと消えていった。剣部隊もまた、満身創痍のまま終戦を迎えた。










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