龍の声

龍の声は、天の声

「東京大学 エリートはどこへ消えた?」

2017-09-18 05:56:21 | 日本

かつて東京大学(以下多くの場合は「東大」と称する)は日本一のエリート養成機関とみなされてきた。しかし昨今、エリートの不在が問題視されるなか、東大はいまも、そして今後もエリートを生み出し続けるのだろうか。様々なデータ、および歴史的観点から探っていきたい。

東京大学の今日を理解するには、東京大学がどのような経緯で開校し、その後どのような発展を遂げたかを知っておくことが必要である。

まず東大は時代における体制派の政治権力の下に創設されたことを知っておこう。江戸時代の中期に儒教の一派として朱子学が栄えたが、江戸幕府は支配階級(すなわち武士階級)の統治にとって有利な思想を持つ朱子学を重宝し、昌平坂学問所(昌平黌(しょうへいこう)が正式名)を創設して武士道や朱子学を教えた。

江戸末期になると外国からの開国圧力もあり、江戸以外の有力藩では藩校において洋学を導入して外国語、兵器・軍艦製造法、天文学、地理学なども教えて、幕府にとっては倒幕の脅威になる人材を育てていた。そこで江戸幕府は幕府の体制内に蕃書調所(ばんしょしらべしょ)をつくって、洋学を学ぶ学校にすることによって有力藩に対抗しようとしたのである。後に開成所と称されるこの学校が東大の起源とみなされている。

もう1つの有力な東大の前史として医学所がある。これも幕府内において江戸末期の日本人を悩ませた天然痘を防ぐための研究・治療機関として設立された学校である。種痘という医術を導入するためと、他の病気への対策という目的の学校が幕府内につくられたのである。

こうして江戸幕府の体制内につくられた蕃書調所と医学所という洋学と洋医学を学ぶ学校が後に東大の母体となるので、東大は体制派の学校の伝統を有すると理解してよい。後の東大は明治時代以降の官僚、司法家、政治家、医者、教員、経営者などの養成機関として体制維持の学校として発展するのであるが、設立当初から体制派内のエリート養成校として始まったと認識しておこう。
◎官僚養成校として
ここで挙げた2つの学校が出発点となって、1877(明治10)年に東京大学が誕生する。法学、文学、理学、医学を専攻する大学となったが、必ずしもトップのエリート校ではなかった。例えば後に東大のシンボルとなる官僚養成は、各省庁の持つ付属の学校(司法省は司法省法学校、工部省は工部大学校、など)で行われていた。ほかにも陸軍大学校などのエリートコースが存在した。

ところが初代文部大臣だった森有礼(ありのり)によって1886(明治19)年に東大が帝国大学と衣替えすることとなった。「帝国大学令」という法令の下で日本のエリート校の頂点としての地位を確立したのである。
法、医、工、文、理の分科大学からなるいわゆるユニバーシティ(総合大学)が日本でも定着したのであるが、ヨーロッパの大学と異なる点は工学を専攻の1つにしたことにある。ヨーロッパでは技術や工学は大学で学ぶ科目ではないという伝統が強かったが、日本は帝国大学において工学を重視した。つまり産業や工業の発展に寄与するエンジニアの養成が最高学府の重要な役割とみなされたのである。製造業、建設業、鉱業などの殖産興業(しょくさんこうぎょう)の担い手となる人の養成を帝国大学で行ったことが、その後の日本経済の発展に寄与したといっても過言ではない。
1897(明治30)年に京都に第2番目の帝国大学がつくられたので、それまでの帝国大学は東京帝国大学と改称された。

帝国大学、東京帝大を通じて、東大は官僚養成の中軸校となったことをここで強調しておこう。明治政府は、欧米に遅れをとった日本の社会・経済を発展させるために、法律をつくったり政策を立案したりする官僚の役割を特に重視した。そこで優秀な帝大卒業生を官僚にすべく種々の政策を導入した。例えば官吏登用試験制において帝大生が有利に合格できる策(帝大出身者は無試験で採用された)、(賃金や昇進などでの)官僚の優遇策などを導入して、優秀な官僚を持つ官僚制国家を日本でつくったのである。 

これらの策が見事に成功して、東京帝大の学生が官僚を目指す制度が日本で定着することとなった。「官僚養成校イコール東大」はこの頃から始まり、戦後を経て今日までその伝統が続くこととなったのである。その証拠として、いかに東京帝大卒が官吏登用試験(高文試験とも称された)で優位であった。東京帝大卒は1894(明治27)年から1947(昭和22)年まで、実に62%の比率という高さである。特に、大蔵省、内務省、外務省、商工省というエリート省庁で圧倒的に高い比率を誇った。


◎「東大卒の首相」が消えた。

東大が官僚養成校として定着すると、東大生の多く、しかも優秀な学生ほど官僚を目指すため、官僚の幹部(次官や局長)はほとんどが東大卒で占められることとなる。そして官僚として比較的若い年齢で出世し、キャリア終了後は、民間企業や政府関係機関に天下ったり、政治家に転じる人が多くなった。その結果、戦後の一時期には首相の多くが東大出の官僚という国に日本はなってしまった。官僚としてのキャリアをバックに、東大は政界でも重きをなしていったのである。

ここで東大出で、かつ官僚出身という首相を明治時代から現代まで見てみよう。明治時代は大学出身者が首相になれる年齢に達していなかったし、大正・昭和初期、戦時期は軍国主義を反映して軍人が首相になることが多かった。戦後になって、官僚出身が幅を利かすようになり、戦後の昭和期は17名中の7名という多きに達した。名前を挙げると、幣原喜重郎(外務)、吉田茂(外務)、芦田均(外務)、岸信介(商工)、佐藤栄作(運輸)、福田赳夫(大蔵)、中曽根康弘(内務)である。なお他に東大出の弁護士が2名いる(片山哲、鳩山一郎)。官僚が多くなった原因としては、戦争責任者として多くの軍人、政治家、財界人がパージされて人材不足となったことと、戦後日本がますます官僚主導の国家になったことの反映である。官僚には東大出が多かったので、自然と東大出の首相が目立ったのである。

それが一変するのは平成時代に入ってからである。宮沢喜一(大蔵)を唯一の例として、他に東大を出たのは学者出身の鳩山由紀夫だけ。なんと16名の首相のうち2名しか東大出はおらず、学歴に関しては完全に群雄割拠の時代となっている。

なぜ官僚が少なくなったのか、それは規制緩和の時代に入って、民業優先と官僚主導排除の思想が強くなったことと、政治家に2世政治家が多くなって官僚派よりも党人派が優勢となったことがあげられるだろう。 
現代の官僚はどうだろうか。東大がまだ第1位を占めているが23%で、圧倒的な数の多さではない。むしろ私立大(特に早慶両大学)の進出が顕著である。かつては官庁は旧帝国大(特に東大)出身が幅を利かせていたので、早慶出身者の人気は低かったが、官僚の世界に私立大出身者が増加するという新しい動きが見られる。とはいえ、現代でも幹部(例えば次官)になる人は、戦後から2014年まで財務省(旧・大蔵省)で52名中48名が東大法、2名が東大経済の出身であるし、経産省(旧・通産省)で38名中35名が東大法、1名が東大経済の出身なので、官庁内の出世に関してだけはまだまだ「東大法卒」の存在感は大きい。次官になる人が入省した時代では、まだキャリア官僚の多くが東大法の出身者であったからこうなったのであるが、表3で見たように将来を見通せば東大出の幹部が少なくなることは明らかであろう。

東大を出ないと官僚の世界では希望が持てないとなると、他の有力校卒業の人々は官僚以外の世界に入って活躍することとなる。やや誇張して言えば、学問の世界における京大、実業界における一橋大(旧・東京商大)と慶応大、マスコミ界における早稲田大ということになる。


◎司法界での優位はつづくか

実は官僚の世界のみならず、司法の世界(特に裁判官と検事)でも過去においては東大の優位が明らかであった。司法試験に合格する人に東大出が多かったし、裁判所や検察庁の幹部にも東大出が圧倒的に多かった。この両機関ともに官僚と同等の職なので、学歴と年功が強い影響力を持ちうる組織というのは容易に想像がつく。

戦後に限定して歴代の最高裁長官の出身校を調べると、18名いる中で東大が15名、京大が3名である。全員が旧帝国大学の出身であることもすごいが、その中でも80%強が東大出で占められるという圧倒的な強さに驚かされる。余談であるが、現在の最高裁長官は父も長官を務めている。しかも2人とも東大出である。

なぜ裁判官の世界で東大出が出世するのか。司法の世界では頭の良さが重宝されるので、学力の勝者である東大生に打ってつけの職業だからである。さらに、過去の判例や学説をよく知っておかないと仕事ができないので、勉強好きや受験に強い人に向いている。これは検事の世界でも同様である。 

ところがである。裁判官、検事、弁護士になる予備軍として司法試験に合格する人の学歴(法科大学院)を見ると、新しい動きがある。私立大の方が東大よりも合格者を多く出していることである。トップの早稲田、第2位の中央、第4位の慶応と、国立大と私立大が混在して合格者数を競っているのが現状である。なお合格率に注目すると、京大、東大、一橋大などが上位にいて、やや国立大が優勢を保っている。とはいえ、合格者数でこれだけ私立大勢が多くなれば、将来において東大が圧倒的に司法の世界での幹部を占めることはないだろう、と予想できる。


◎社長、役員が多いのは?

先程、実業の世界では一橋大や慶応大の活躍が顕著であると述べたが、実は東大も多くの企業経営者(特に大企業)を生んでいた。戦前と戦後のしばらくは、東大出身者が一橋大や慶応大を凌駕していたといっても過言ではなかった。

その理由は、かつての日本では規制が強く、ことに大企業は官庁の指導や助言の影響が大きかったからである。例えば、銀行などではMOF(大蔵省)担と呼ばれる人を指名して、大蔵省と日頃コミュニケーションを持って情報の交換やアドバイスを受けたりしていた。大蔵省の役人には圧倒的に東大出が多いので、銀行はMOF担に東大出をあてることが多く、彼らが将来的に銀行で出世しやすかったことは容易に想像がつく。さらに、企業内で重要な仕事は総務、人事、労務、企画といった管理業務であって、製造や営業という現場業務の人はさして重要視されていなかった。そこで管理的な仕事をうまくこなす東大出が企業内で出世したのである。

しかし世は変わった。規制緩和が進んで、企業は役所にそれほどの意を配る必要がなくなった。もっと重要なことは、業界における企業間の競争、そして外国との競争が激しくなり、自社製品やサービスをどれだけ売るか、そして安くて質の高い製品やサービスをどれだけつくるかが、企業にとって死命を制するようになった。いわば現業部門の仕事のほうが、管理部門の仕事よりも重要な時代になったのである。

そうすると頭のよい人(逆に言えば頭(ず)の高い人)よりも、そこそこ頭が良くて、体力があり、明るい性格でかつコミュニケーション能力に長けて、人との交渉をうまくできる人が企業内で重宝されるようになり、現にそういう人の営業部門や調達部門における好成績が目立つようになった。そうした人材の代表が、慶応大、一橋大の出身者なのである。


 ◎東大出身の文豪たち

さほど強調されないことであるが、かつて東大出身者が目立ったのは作家である。明治の文豪二人といえば、多くの人が夏目漱石と森鴎外を挙げるだろう。昭和であればノーベル文学賞の受賞者である川端康成と大江健三郎、さらに惜しくもノーベル賞を逃した作家には、三島由紀夫と安部公房がいる。これら6名は全員東大出身である。他にも芥川龍之介、志賀直哉、谷崎潤一郎など明治時代から昭和にかけて東大出の著名作家はそれこそ数多くいたので、東大は作家を生む第1の大学として君臨していた。

しかし現代に至ると日本の文学界は東大の退潮が目立つ。作家の登竜門とされる芥川賞や直木賞は東大出が少なくなり、早稲田大学を筆頭にして、いろいろな大学で学んだ人が受賞者となっている。今ノーベル文学賞候補の最右翼にいる村上春樹も早大卒である。筆者は、東大出でもっとも退潮の目立つ分野は文学の世界と判断している。なぜ過去において東大が著名な作家を多く生み、現代になってそれが見られなくなったかについては、『東大 vs.京大』(祥伝社新書)で論じている。

戦後しばらくの間、日本の学問を代表する大学は京都大学であった。戦後になって湯川秀樹と朝永振一郎というノーベル物理学賞受賞者を生み、その後も化学や医学・生理学でノーベル賞を輩出、京大は「ノーベル賞大学」の別名を授けられるほどであった。東大は学問で京大に劣るとまで言われて、東大関係者にとっては歯ぎしりの時代が続いていた。

現代に至ってどうであろうか。東大出身者、ないし東大教授でもノーベル賞受賞者が出てきたので、昔ほどのうしろめたさはないと言ってよい。ノーベル賞(自然科学のみ)では京大と東大は拮抗している。
ついでながらノーベル賞に関して近年の傾向は、徳島大、長崎大、埼玉大、山梨大といった地方大学出身者が受賞し、出身大学の分散化が見られることである。しかし全員が国立大出身であり、不幸にしてまだ私立大出身者はいない。

ノーベル賞予備軍とされる「ネイチャー」や「サイエンス」といったトップの学術誌への登場は、数の上では東大が京大を上回っているのが現状である。表6を参照されたい。もっとも東大の研究者数は京大のそれよりも多いので、1人あたりに換算すると、東大と京大はほぼ同水準とみなせなくもない。


◎残されたのは学問の道?

とはいえ学問の世界における東大の復権には著しいものがある。なぜ東大が学問・研究で最強になったのか、様々な理由を指摘できる。大きな変化としては、これまでの東大は自校出身者を教員として採用していたが、他校出身の優秀な人を教員として積極的に採用するようになった。さらに、日本一の大学であるという名声は、外部からの研究資金を多額に受領できるようになっているし、文部科学省からの科学研究費補助金での資金獲得にも成功している。優れた研究を行うためには、研究施設の充実は当然として、研究補助をする人や研究の助けになる大学院生を採用するのにも資金は必要なのである。その意味で、大学の独立行政法人化は大学間の格差を広げ、研究機関としての東大に有利に働いたといえる。

東大は今でも全国で最も入試が難しい大学であり、優秀な学生が入学していることは間違いない。しかし卒業生の進路に注目すると、官界、政界、司法界、実業界、文学界などでは過去の栄光は消滅しつつある。京大、一橋大、早稲田大、慶応大などが東大に肉薄しているし、分野によっては東大が後塵を拝している。大学は群雄割拠の時代である。

またエリート校としての東大の最大の強みであり、拠りどころであった官僚の影響力が低下しているのも大きい。もともと日本でエリート教育とされるものは、東大に代表されるように、勉強、学問に偏ったものだった。本来のエリートの資質と思われる指導力、優れたコミュニケーション能力、探究心、決断力などはなかなか学校教育で育てられるものではない。

しかし以前にも増して東大が強くなっているのが研究の世界である。誇張すれば、東大の生きる道は研究の世界かもしれない。











最新の画像もっと見る