邪馬台国はどこ?魏志 倭人伝をGoogleEarthでなぞって卑弥呼の都へ

倭人伝の行程をグーグルアースでなぞってみました。
そこで気づいたこと、考えたことを綴ってみました。

遣唐使は南朝詣での二番煎じだった

2017年07月15日 09時00分08秒 | 読書記録

 

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卑弥呼が3世紀半ばに魏に朝貢したあと魏は晋に禅譲します。

その後さらに卑弥呼の後継者トヨが266年に朝貢してからは 

今度は晋の滅亡などもあり、黄河の政権には倭の事跡はなくなります。 

黄河の中原蛮族の割拠するところとなり漢族は揚子江に逃げます。

膨大な漢族がゲルマン人の大移動のように黄河から長江へ逃げ延びます。

そこで東晋から始まる南朝をつくりますね。

宋 斉 梁 陳とつながっていきます。

その前の三国志時代の呉をいれて全部で6つあるので六朝ともいいます。

五胡十六国時代ですね。

でも晋がまだあったときから

トヨの朝貢から晋滅亡までは50年くらいありますから、 
倭はその後大陸と距離を置いていたのかもしれません。 
それはそれでなぜだろうと思います。 
あるいはクナ国との戦いが終わり 
遠方の晋とつきあう必要がない 
あるいは親魏倭王の印を王朝交代により返却したのに 
晋は晋の名前ではくれなかったから。 

やがて100年以上のときを置いて 
突如南朝詣でが激しくなります 



下の日明貿易の海上ルートではなくて南朝もうでは朝鮮半島へ行き、

北上し、途中百済と高句麗の境目あたりから山東半島へ渡るルートだったとのことです。陸沿いだから安全だった、が、高句麗が邪魔して山東半島への渡海が思うようにいかず、南朝に文句を聞いてもらっています。

年間で9回の朝貢、これは都の健康へといったのだろうか? 
ならば長江河口に何度も使節を送ったことになり 
遣唐使の頻度よりもはるかに多い。 
遣唐使は200年の間に12回(失敗含んで20回)です。 

下の地図の帯方郡を超えたあたりから山東半島へ渡海するのですね。すると直接東シナ海を渡海していた遣唐使と違って

安全な航海だったわけです。


そして仏教盛んな南朝の都に9回も行ったら、もろもろ文物を持ち帰ったり、 
書物など持ち帰らないだろうか? 

その9回の朝貢においてまったく南朝から文化的影響を受けてないかのような 
雰囲気があるがそうだろうか。 
奈良が送っていたなら仏教のことなど 
もう5世紀には熟知していて 
538年に百済から伝来を待つこともなかった 
百済もまさに南朝に行って仏教を学んでいたのですから。 

この9回の朝貢という事跡が九州王朝のものであれば 
奈良は、南朝文化を知らないということになるので整合性が取れます

どうやっても中国側の記録と

日本の近畿王朝のそれはあわないのですがそれも不思議かもしれません。


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