邪馬台国はどこ?魏志 倭人伝をGoogleEarthでなぞって卑弥呼の都へ

倭人伝の行程をグーグルアースでなぞってみました。
そこで気づいたこと、考えたことを綴ってみました。

邪馬台国をめぐる仲間内の議論

2017年03月21日 01時08分28秒 | 読書記録

最近SNSで友人とこんな話をしました。

自分

どうやら卑弥呼即位前の倭国大乱って、時代的に、神武の河内上陸、奈良盆地侵攻のことではないかと思えてきました。それで、戦乱を収めるために、ヒメタタライスズヨリヒメのもと、神武も含めて従ったと。 
  
ただやはり、その死後1000人以上が死ぬ騒乱が起こったというのがなんの事件をさすか該当がないような気がします。 


やはり邪馬台国は九州のできごとかもしれません。 
不弥国=宇美町=神功皇后も居城にしたところこそ卑弥呼の住居。 
九州駐留中の神功皇后がなぜ不弥国の領域を居城としたかといえば、かつての卑弥呼なる倭王の跡地だったからなのではないかと思えてきました。不弥国は極端に戸数が少なく、また唯一戸ではなく家で数えられています。特殊な地域だと思えるのですね。倭へのルーツもここで終わりますし。 

自分の中では二つのものが邪馬台国として並存しています。 
ヒメタタライスズヨリヒメ ミヤーンさん説。吉備もからんで。なぜなら神武は吉備から出発しています。最後は。 

そして不弥国と神功皇后絡みですね。どちらでもいいのですがどちらでも楽しく想像できます。
ヤマト王権とはまったく異質の世界である。ヤマト王権の前段階である。

 

 

友人1

崇神が4世紀初頭の可能性が高い。ならばそれ以前の3世紀は魏志によれば女王国の時代だ。 
それに符合するように妃のいない天皇たちがいる。神武から6代孝安までだ。 

彼らが大王ならその血を残すために複数の后がいて当たり前。ところがいない。 
つまり彼らは大王ではなかったのだ。 

では話は簡単。彼らの正后をみればいいのだ。その中にヒミコとトヨ(またはイヨ)がいればいい。 
もしいれば邪馬台国論争は簡単に終焉する。 

それがいるのだ。 

①神武→ヒメタタライスズヒメ 
②綏靖 →イスズヨリヒメノミコト  生きてた「ヒメ」タタラが女王 
③安寧→ヌナソコナカツヒメノミコト   生きてた「ヒメ」タタラが女王 
④懿徳→アマトヨツヒメノミコト 
⑤孝昭→ヨソタラシヒメノミコト    生きてたアマ「トヨ」ツが女王 
⑥孝安→オシヒメ        生きてたアマ「トヨ」ツが女王 

見事にヒメとトヨの時代。 

そして7代孝霊には複数の妃。 実質の男王は孝霊の時代から。 
それは箸墓古墳の時代だ。 

邪馬台国とは「ヒメ」タタラが住まわれた奈良県御所市。 
纏向に卑弥呼はいない。 
九州は論外。 

これが私=天才のブログだ。 
https://o-yan216.wixsite.com/mysite 

友人2
張政(ちょう せい) 
三国時代の魏国の支配地域であった帯方郡の武官で肩書は塞曹掾史(さいそうえんし)帯方郡太守、王頎の部下。正始8年(247年)に邪馬台国が狗奴国と紛争になった際、魏から派遣された役人(塞曹掾史)。その後、20年近くを邪馬台国で過ごして泰始2年(266年)に帰国したとする説もある 

倭の女王卑弥呼は、もとから狗奴国の男王卑弥弓呼と不和であり、倭の載斯烏越らを帯方郡に送って、狗奴国と攻撃しあっている様子を報告し、郡太守は塞曹掾史張政等を遣わし、詔書と黄幢を難升米に授け、激文をもって卑弥呼に告諭した。 

この人が来たことも日本書紀も 
古事記も書いてないのです。 
ゆえに 
これは 
九州の出来事だ!! 
とにかく帯方郡からふみ国までは 
細かくルートが書いていて 
そこでぱたりととまる。 
そして 
なにより文章として 
読んでると 
倭人伝は 
九州北岸の雰囲気しか感じない。 

別の政権のことだから 
記録がない。 

シンプル。 
地形で読み解く古代史
関 裕二
ベストセラーズ
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1 コメント

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議論 (神墓学者)
2017-03-21 07:36:18
議論、しかしたしかに仲間内ですね。
居酒屋の
酒のつまみの塩辛か。

という感じでとても楽しいですね。

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