邪馬台国はどこ?魏志 倭人伝をGoogleEarthでなぞって卑弥呼の都へ

倭人伝の行程をグーグルアースでなぞってみました。
そこで気づいたこと、考えたことを綴ってみました。

伊都国と古代丹波王国を巡る対話

2017年08月03日 21時08分49秒 | 読書記録

 

サントリー 天然水 南アルプス
天然水
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古代丹波王国ですね。丹後には赤坂今井古墳がありますね。海人族です。そして元伊勢神社があり、海部氏が宮司で、国宝海部系図がありますね。冠島にはホアカリノミコトの天孫降臨伝説がありますね。
 
元伊勢神社から伊勢遺跡、伊勢へと伸びるルートはなぜだかほぼ完全に直線なのです。
 
ただ、神話はあまりにも対馬海峡が中心だと思います。 
出雲から対馬までの海域の出来事が神話です。 
沖ノ島航路割譲の話などはこれは筑紫と出雲など日本海の国々の話です。 
そういう意味では丹波王国が関わっていたとも言えます。 
いずれにしと神話は日本海ですね。 
御諸山も実は遠賀川の、つまり宗像の世界の東の端の山であると思っています。そこは大国主の筑紫の妻の場所でもあるわけです。
丹波王国ですね。若狭湾が古代史の鍵のひとつ。 
筑紫⇔出雲⇔丹波⇔越というこの海岸線こそが 
神話でしょうし 
まさに大国主の活動範囲です。 
ここから近江へ進出して 
尾張と手打ちししたのが 
伊勢遺跡。 
そこから進んで 
それに加えて吉備とも組んだのが纏向。 
ではないでしょうか。 
はじめに日本海ありき。 

でもそうしたらニギハヤヒは瀬戸内海からきましたね
もう一つの見方。 
伊勢とは海の拠点。 
太平洋と日本海と琵琶湖。 
真ん中の30くらいの建物が円周上にある伊勢遺跡は二つの海の真ん中ですね。 

この理屈でいくと纏向というのは 
瀬戸内海と太平洋と琵琶湖の真ん中?の機能なのでしょうか。 
三輪山が大事だからあそこですか? 
伊勢遺跡までと 
纏向からは何かが違うような

 うーん、3世紀の話をしていると、どうも丹波、近江、尾張、近畿になっていきますね。この流れでいくと論理的帰結としては邪馬台国はヤマトとなります。みなで共同で作った祭紀都市。そこに卑弥呼がいると。 
ただ、倭への行程は不弥国までがよく承知されていて、そこから先は大まかな移動時間を書いてるだけです。 
どうも帯方郡とつきあいのあるかつての100あまり、今の30あまりのクニグニは九州北岸あたりにあったと思えるのですね。この30のクニグニが、九州からヤマトまでに存在するならば吉備や出雲や安芸や丹波について、これらのクニグニも頻繁に帯方郡を訪れる国ということになります。 
そうであれば、たとえば出雲や吉備に対しての行程は必ずやもっと詳しく書くでしょう。 

かりに邪馬台国の都が纏向であったとしても、魏が承知している倭とは不弥国までであるという気がします。 

奴国は1世紀から2世紀にかけて博多湾岸あたりに存在し、半島と行き来があったことは間違いないでしょう。 
そしてその奴国までのルートはよく承知しているわけです。魏は。 
すると3世紀において、奈良と直接交渉を帯方郡がもっていたとは思えないのですね。 
どうも帯方郡が関わったのは伊都国から不弥国までのような気がします。 
そうすると不弥国とはなんだということになります。 
記述通りなら、そこは港ですね。投馬国へ向かって船が出る港です。放射説なら邪馬台国に向かっても船が出る港です。 
そしてそこまではマツロ国でいったん上陸して歩くわけです。 
このいったん上陸して歩くがまた不弥国から船に乗るというのが、実は地政学的に不弥国の場所を限定させるポイントという考え方もあります。 

さて帯方郡は倭国に行く時は必ず伊都国に滞在するのです。 
あるいは完全に後世の太宰府の役割です。 
しかしこの時代に九州の糸島を奈良から軍団を派遣して、周辺を畏怖させるほどの行政機関を作るなどできるでしょうか。そうならばその軍団の兵士はどこの出身なのか。 

纏向は連合都市です。列島の西半分の主要地域が集まって作っている。 
では伊都国に駐屯する軍団は近江の人か、吉備の人か、出雲の人か。 

伊都国も奴国も抑えて帯方郡とやりとりするということを3世紀の奈良にできたのだろうかというのが疑問なんですね。
 
 
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