邪馬台国はどこ?魏志 倭人伝をGoogleEarthでなぞって卑弥呼の都へ

倭人伝の行程をグーグルアースでなぞってみました。
そこで気づいたこと、考えたことを綴ってみました。

邪馬台国=ヤマト?  邪馬台国≠ヤマト?

2017年04月04日 23時52分58秒 | 読書記録

邪馬台国=ヤマトであれば倭人伝は記紀とかぶります 

邪馬台国≠ヤマト であればまったく別の世界が見えるわけです。 

この別であるときの、ヤマト世界との落差がまた面白いと思います。 
例えば倭人伝の行程は奴国の隣不弥国までは詳しいがそこからさきはなんのことだか意味不明に書いてます。 
なので、魏使は九州北岸までしか行かず、その先にはいかなかった。 
またはそこがゴールだったとも思えるわけです。 
奴国は大宰府の西隣、不弥国は大宰府の東隣あたりです。大宰府は北に福岡平野、南に筑紫平野が広がりそれぞれの平野に川が流れます。そして北には日本海、南には有明海に川を下ってつながります。 

さて日田に久津姫、八女(筑紫平野)に八女津姫、などがあり、地元では二人とも卑弥呼ではないかと言われています。 
いずれも奈良より広い筑紫平野の山間部に社があるわけです。特に八女津姫に至っては平地に降り立ち民をおさめるというような文言があり、さらに八女津姫の社がある場所は矢部村と言って、そこには矢部日向という峠があります。 

この九州の姫たちの古代世界というのはまさに、何かのときには巫女の姫を担ごうという流れを作ったのだと思います。 

魏に使いを送った卑弥呼と名乗るヒメは久津姫でも八女津姫でもおかしくはないように思います。そうすると当時、使者を送ることのできる姫は複数いたのであるとも思えます。 
ヤマトの出来事ととらえると、記紀などで覗く世界とリンクしながら考えるわけですが 
別の世界の話であるとするとまた違う風景が見える。 
そこが邪馬台国の面白さだと思います。 

ちなみに九州説の本丸は筑紫平野となります。ヤマトと無関係とした場合。 
ヤマトと関係するとなったときの最大の疑問が伊都国に一大卒を奈良の勢力がおいているということです。西暦200年代にそんなことができたのか?わずか1800戸くらいの国に大軍団をおき、2万戸の奴国がこれを畏れるとはいかなる現象か?平安朝に九州の豪族が大宰府に手を出さなかったのと同じことなわけで、それは技術的に不可能ではないかと思えるのです。 
吉野ヶ里をはじめとする筑紫平野に都を持つ勢力が、日本海側に軍事拠点を置くという程度のものではないかと考えるほうが3世紀の実態にあうと思うわけです。 


軍団を糸島に置くということ。 
これはテクニカルに相当高度な段取りが必要であり、その威力はとてつもないと思うのですね。
一大率をおけたら、たぶんおむ反乱は起こせません、奈良の勢力が吉備や伊勢に置くというのとは、本質的に違う話になるからです。 
糸島あたりに軍団を置くということは 
瀬戸内海の制海権と日本海の制海権を持っていることになります。となると瀬戸内海沿岸や島々の部族がみな傘下に入っていて、豊後水道も宇佐から日田や、門司もみなそうであり、筑紫平野と福岡平野もそうであるとなるので、すでに3世紀において平安朝と同じレベルで統治ができたとなり????です。 
しかも奈良から遠い糸島に軍団をおき、奈良側の奴国や、宇佐や門司や宗像あたりの国を統治するのは矛盾です。 

ところがの~じさんの言うように 
加羅から派遣されているとなると辻褄が一気にあいます。加羅に近いのは糸島であり、半島から上陸したであろうと思われる事績がたくさんあります。 
そして加羅は倭地であります。 
やはり古代ヤマトは連合王国であり、国ごとに役割もあり、その糾合のために卑弥呼制度があったということですね。 

邪馬台国=ヤマトの場合は倭地の韓から一大率が派遣されているということですね。女王の権威でみな従っていたということ。 
このようなやり方がのちに政治は夜行うと遣隋使が隋に語り、馬鹿にされた遠因かもしれません。もっとも武力なしで統治するのはしかし宗教的権威でしょうね。ローマ法王がいい例です。
聖徳太子に至るまでこの伝統が続いていたということですね。




邪馬台国とヤマト王権: 卑弥呼の「鏡」が解き明かす
藤田 憲司
えにし書房
ジャンル:
ウェブログ
コメント (2)   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 倭の五王と邪馬台国 | トップ | 川と古代と邪馬台国 »
最近の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (囲炉裏端)
2017-04-15 04:09:07
[メモ九州王朝]・・・「たとえば民主主義に賛成か反対かという考え方を議論するより 、独裁政治に賛成か反対かを議論するほうが 、民主主義の本質が見えるときもあります。
"逆に考えて観る"と言うことでしょうか。

記紀には日向から天孫が奈良へ入植し・・・、
もし、これが架空であったら・・・
奈良は、地理的に場末の地と思える・・・河内や琵琶湖界隈と比較して。
要衝の地のひとつはであったとしても条件のひとつでしかない。この地に王朝が出来る求心力は何だったろうか?   
伊勢東海勢が進出したのだろうか?
勃興と思われる勢いと周りへの求心力は何だったろうか

ところで、鎌倉幕府。
鎌倉も、静岡・関東ではどちらかと言えば、場末。
頼朝がこの地に入ったことにより、求心力が生じて幕府が誕生した。
頼朝がいてこその鎌倉幕府の成立。

突然、僻地に鎌倉幕府。~
"邪馬台国=ヤマト"が、解り易い。(記紀の記述・地名類似・九州衰退と同期に大和勃興などもあり)

先日の記事"逃亡男王=神武"とした場合には、九州系が少なく、多い伊勢東海系や吉備祭祀系の遺物も解り易い。
古代奈良の立地 (作者)
2017-04-15 09:11:07
琵琶湖東岸に稲辺遺跡や伊勢遺跡があります。丹後からの日本海ルートで半島でつながる近江琵琶湖。

一方東海北陸関東交易のあった伊勢と尾張。伊勢尾張は近江、丹波ともつながります。

一方瀬戸内海交易圏。吉備を中心に宇佐や日向や淡路播磨河内。

この二大交易圏をひとつにする場所は

奈良です。!!!

だから巻向は尾張伊勢近江と
吉備瀬戸内海の共同管理だったと思うのですね。

こんどそれを書いてみます

コメントを投稿

読書記録」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL