邪馬台国はどこ?魏志 倭人伝をGoogleEarthでなぞって卑弥呼の都へ

倭人伝の行程をグーグルアースでなぞってみました。
そこで気づいたこと、考えたことを綴ってみました。

第二次九州遠征軍の司令官の妻 神功皇后

2017年08月01日 20時35分45秒 | 読書記録

 

 

発見・検証 日本の古代I 纒向発見と邪馬台国の全貌 卑弥呼と三角縁神獣鏡

クリエーター情報なし
KADOKAWA
熊襲征伐中に仲哀天皇は死ぬのですが香椎宮という博多湾に陣をはって、熊襲と戦ってる。
どうも戦死したみたいだ。 
すると博多湾や筑紫平野が熊襲の陣地になるが、熊襲とは鹿児島や宮崎ではないのか。 
こんな風に全然場所が違います。
どうもこの辺おかしい。戦っていたのはタブラつ姫の勢力、
吉野ヶ里勢力の子孫。邪馬台国=山門国ですね。 
この人達は熊襲ではないのではないか。あるいは熊襲は負けて南に行ったのだろうか。
いずれにしても仲哀天皇と神功皇后の戦いは福岡平野と筑紫平野です。

仲哀天皇の死後神功皇后は
九州の邪馬台国を倒したあと、海上の邪馬台国も倒していったのではないだろうか 
すなわち、壱岐(神功電設がたくさんありますね)対馬、そして弁韓、そして支援国。 
神功皇后の三韓征伐とは邪馬台国残存勢力の支援勢力であり 
そこまでやらないと邪馬台国は無くならない。 
なぜなら邪馬台国とは対馬海峡共同体だったのだという考え方ですね。
ところで

神功皇后の39年は239年でした。
日本書紀にそう明記されています。
この年代が基準になって記紀から逆算してかく天皇の年代を出しているのでしょうか。
明記されていて中国年代から特定できるのは神功皇后だけです。
しかし架空説もあり、また4世紀の人だという話もあり・・・・

日本書紀が神功皇后39年にナンショウメたちが洛陽に書いてますが 
神功39年は天皇西暦変換表で239年=卑弥呼の文来る魏の都です。 



景行天皇は長く九州遠征をしていましたがなぜか筑紫には入らなかった。
そして京都郡から宇佐、日向、薩摩、阿蘇を経て筑紫平野の朝倉郡を経て宇佐へ抜けます。
なぜか筑紫平野の上、福岡平野には入らなかった。
これは入れなかったです。
強力な勢力がいたので。
そしてその息子仲哀天皇がそれを打ちに行ったが強すぎて負けてしまう。
さてここからが不思議です。
その妻オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后はそのまま60年も九州にいます。
まあ長期にはいたでしょう。
なぜ長期に駐留したのでしょうか。
滅ぼした相手が邪馬台国で朝鮮半島にまであったその残存勢力を打たねばならなかったというのが一つ。
 
一方邪馬台国から来た姫が、狗奴国征討を行い長期に駐留したのかもしれません。
狗奴国は熊襲。つまり、仲哀天皇が戦った相手が狗奴国なのだという考え方。
すると邪馬台国から狗奴国征討に来た女王が神功皇后になります。
それは景行天皇が行った遠征と同じことです。
 
しかしその後あまりにも長く九州にいたので王子である応神天皇は生まれてからずっと九州です。
 
 
あるいはこれは単なる空想ですが
 
仲哀天皇と応神天皇は無縁の別勢力である。
王家の連続性を持たせるために神功皇后という滅びた方の妻であり 
滅ぼした方の母という装置を作ってその間の歴史を埋めた 

これはなかなか深いですね。たとえば14代将軍徳川家茂が長生きしてて 
彼と和宮の間に男子が生まれたらどうなるか。 

孝明天皇がなくなって次の帝がまだ決まらないうちに 
和宮と男子が京都に帰る。 
幕府の権威は失墜し事実上機能しないが 
将軍と皇室の血をもつ男子の血統には権威がある 

その男子が帝になる。 


政治情勢次第ではありそうな話です。そういうことが応神天皇だったかもというわけですね。
 
 
 
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