邪馬台国はどこ?魏志 倭人伝をGoogleEarthでなぞって卑弥呼の都へ

倭人伝の行程をグーグルアースでなぞってみました。
そこで気づいたこと、考えたことを綴ってみました。

諏訪は5000年の都・聖地 改定再録 邪馬台国以前の倭の歴史

2016年02月17日 08時18分32秒 | 古代史

 諏訪湖のあたり

八ヶ岳山麓では、旧石器・縄文時代の遺跡、遺物が多く発掘され、狭い地域ながら縄文中期には日本では最も人が集まっていた人口稠密地帯、すなわち縄文王国でした。

黒曜石です。

 産出地     ウィキより

  • 黒曜石が古くから石器の材料として、広域に流通していたことは考古学の成果でわかる。例えば、伊豆諸島神津島産出の黒曜石が、後期旧石器時代紀元前2万年)の南関東の遺跡で発見されているほか、佐賀県腰岳産の黒曜石に至っては、対馬海峡の向こう朝鮮半島南部の櫛目文土器時代の遺跡でも出土しており、隠岐の黒曜石はウラジオストクまで運ばれている。また北海道では十勝地方も産地として非常に有名で、北海道では現在でも「十勝石」という呼び名が定着している。
こうやってみると、列島を横断できますね。
 
巧みにフォッサマグナが峡谷を作り、通り道になっている。
 
志賀島の安曇族の安曇野なんて諏訪の黒曜石のためにここに来たことが地図上はっきりしますね。
 
そして冬は閉ざされるが、夏には涼しく快適な旅路の場所です。
 
人々は冬を避けてここに集まり、黒曜石と各地の物産を物々交換していったでしょう。
 
そして管理元の諏訪では高度な土器などが発達した。
 
それが下図です。

上諏訪地区最大の遺跡、穴場遺跡から出土した蛇体文装飾付釣手土器です。

縄文時代中期中葉(約4500年前)のもの・

縄文時代一二〇〇〇年の中でそれを〇年から12000年と比定すると、そのあとで弥生時代2000年があると考えると

この土器は縄文年間1万年ころの出来事ですね。

この図で早期7000年のあたりから弥生のあたりまで諏訪は都だった。聖地だった。

やはりこの縄文1万年の研究が大事ですね。

その世界に天孫族や邪馬台国や大和王権が入り込んできた・・・・

実は諏訪湖は7000年間くらい、

縄文世界の都、聖地だったのではないか。

そうすると京都どころの話ではない。

永遠の京都1200年。

大和王権以来約1500年。

聖地諏訪の存続機関は7000年?5000年?

地層からだけ見るば10000年です。

黒曜石が使用されて以来でしょうからとにかく別のスケールの時間の話です。

そうするとこの諏訪の神話の世界はどこへ行ったのでしょうか。

神話と言ってもすでに銅や鉄の剣が登場し、

高天原にさえ畑や田があるような出雲や日向の神話とは格段に時代が違う。

トロイ遺跡に対してのシュメール遺跡のようなそんなスケールの違いを感じる。

 

三内丸山遺跡でも1500年続いたという。諏訪勢力はどうか?

この土器は4500年前のものです。

出雲の大国主の息子が逃げ込む弥生時代はたぶん0年から300年ころ。

するとなんと驚くことに4500年から5000年くらいの時がたってる。

最低でも諏訪は4000年の聖地です。

でもその前から続いているからやっぱ7000年の都、

まあとにかく年代はべつにして空前の古さと長さの都です。

 

このとてつもない時間の流れを評価するすべがないということです。

 

諏訪大社もあります。

Suwa taisha akimiya05n4592.jpg

 。諏訪一帯の遺跡分布の密度・出土する土器の豪華さは

全国でも群を抜いており

当地が繁栄していた様子がうかがわれる。

これは圧倒的な数と密集具合なのですね。

これを地図にあてはめると

見事に集落は諏訪湖のある平野全部が

湖であったことを証しているようです。

ついでにいうと地図の左の安曇野の平野も湖だったという説もあります。

それだけの淡水の量にしてはじめて食料調達が可能だったと思われます。

さらに諏訪の4つの社はみな旧古代湖岸にそってあります。



縄文5000年の都です。

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11 コメント

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諏訪、文化拠点の必然性 (天地無我)
2014-12-24 10:15:27
列島。御前崎~親不知辺りで断面。道は太平洋沿いと伊那谷の2か所だけ。(若しかしたら、親不知海岸に間道が、の程度。)日本海側の南北の交流は、阿寺断層沿い~美濃北端~神坂峠~伊那谷南端~諏訪~の道。また美濃に至ればそのまま濃尾。 諏訪から和田峠を越えれば北関東東北へ。太平洋岸の道は台風等で破壊されれば面の破壊。山岳地帯は線・点の破壊。復旧・迂回路の困難さは?。これを考慮したとき、唯一?、日本・東西南北の文化のたまり場だったでしょうね。関東平野等は広すぎて、その中で、核となる地が出来得なかった様にも感じます。    すごいですね。いよいよ、G・アースで列島俯瞰ですね。  
Unknown (作者より)
2014-12-24 22:16:11
いえいえ。ご指摘の点を鑑みながら改めて地図を見た感想です。ありがとうございます。
三内丸山遺跡がBC3000年くらいに1500年続いたと聞いて驚愕しましたが、諏訪はBC7000年くらいから、7000年くらい続いたということに思い当たり、果てしのない驚きを感じました。
ほんと、京都や明日香どころの話ではない。縄文の心臓。しかし志賀島や出雲ともつながり弥生とも連結して諏訪大社で締めている。
なんという場所でしょう。この7000年の縄文のへその諏訪。
どこか間違ってる!? (天地無我)
2014-12-24 23:56:48
静岡県の縄文遺跡の概要をザッと見てみました。 「西部は西日本系。伊那谷の影響も。   東部は西日本の影響が余り見られない。糸魚川辺りの影響はみられる。」 (①牧の原台地・大井川が障害? - 行ったこと有りますが大した起伏でもなく ?  ②大雨の大井川氾濫で道が確保され難かったのか? …原因は? )  いずれにしても、若し、ここで静岡県東西の関係が希薄であったならば、伊那谷~諏訪ルートは日本南北を結ぶ最も太い幹線と言うことになる。  (自分で言いながらも、??? 。妄想病カモ。)
Unknown (作者)
2014-12-25 12:36:41
神津島の黒曜石が越まで行ってたらしいです。そうすると黒曜石を軸にした交易があった。
江戸時代に米を軸に交易があった。大阪中心に。
全国の黒曜石が諏訪が大阪の役割をして交易していたと考えると、日本列島のもう一つのとてつもない歴史が見えてきます。シュメール文明のようなとてつもない・・・・・
資源大国 (天地無我)
2014-12-25 18:13:58
日本を中心とした環日本海"黒曜石平価"交易圏みたいな。もっと大きく火山のない大陸深くまで広がっていても…。遺石(遺跡)次第ですが。
Unknown (呆旁搖)
2016-02-18 03:06:05
黒曜石が諏訪の求心力の源であることは確かと思う。
仮に、その求心力がなかったとしても、東西交通の要と言うより必ず、通らねばならない所の平坦地が諏訪であり、相当の興隆をしていたと思う。

例えば、尾張~北関東の道。
海沿いは平坦ではあっても、一旦大雨が降れば一週間程は洪水状態の大きな川をいくつも越えなければならない。今の関東平野は大湿地帯。日本海側は親不知に代表されるように海からいきなり北アルプスの山岳地形。

中央部=名古屋~中津川、飯田~諏訪は殆ど平坦。この平坦域の境に御坂峠(真下を恵那山トンネル)の難所=直線で10㎞程度があるだけ。行程は川を渡るのでなく川沿い。浜松からも飯田まではやや険しいが中央構造線沿いまたは天竜川沿いの道が=信玄南下の道が。
諏訪からは和田峠を越えれば上田・佐久、ここから北関東へは概ね平坦。

(長距離トラック。現在も相当数が名古屋~諏訪~和田峠~佐久~関東・東京の経路をとっている)

南北は2つの峠越えのみであとは平坦な道。川は殆ど妨げにならない。

交通の要衝。その面だけであっても、かなり栄えたと感じる。
ここに、求心力=黒曜石があれば、尚更のことであったでしょう。



越地域~南関東は、記事で述べられている通り。
Unknown (OTOPIKO)
2016-02-18 04:41:29
初めまして。安曇野在住の古代ファンです。諏訪信仰史をテーマに写真を撮っています。
黒曜石が何故古代人に必要だったのか、科学的根拠が乏しくてヤキモキしています。耐熱力のある火山石だということと、人体手術に使用できる鋭利なことくらいです。単なる宝石財産ではないはず。
OTOPIKO様 (作者)
2016-02-18 07:45:16
ありがとうございます。安曇野在住とは。ぜひ今後ともご教示ください。
諏訪産黒曜石は、遺跡分布からはブランド品であったようですね。知人の全国黒曜石集め趣味のものが言うには、諏訪の黒曜石は他のとこと見た目、手触りはっきり違うそうです。


ぼくらの中では黒曜石は実用性と美しさに加えて
物々交換における貨幣的役割を果たしていたとかんがえています。黒曜石との交換比率を基準に、いのししや魚や塩が交換されていたのではないかと。
OTOPIKO様 (作者)
2016-02-18 07:45:24
ありがとうございます。安曇野在住とは。ぜひ今後ともご教示ください。
諏訪産黒曜石は、遺跡分布からはブランド品であったようですね。知人の全国黒曜石集め趣味のものが言うには、諏訪の黒曜石は他のとこと見た目、手触りはっきり違うそうです。


ぼくらの中では黒曜石は実用性と美しさに加えて
物々交換における貨幣的役割を果たしていたとかんがえています。黒曜石との交換比率を基準に、いのししや魚や塩が交換されていたのではないかと。
作者さま (OTOPIKO)
2016-02-18 10:27:03
さっそくの返信ありがとうございます。
魚沼産コシヒカリのようなブランド品だったのですかね。
私は貨幣価値ではなく、兵器的なものか、神器など祭祀的なものだったのかも等、想像を巡らしています。
また、古代人の移動について、徒歩や丸太船ではなく、空路も想像してみてはどうでしょうか?
例えば、苗場山と恵那山を線でつなぐと諏訪を通ります。私は神社とか古墳とかは方向を指し示す建造物ではないかと考えます。
古代について考えるのはワクワクして楽しいですね!これからもよろしくお願いします。九州の黒曜石産地にも出かけたいと思います。
OTOPIKP様 (作者)
2016-02-18 16:37:59
返信ありがとうございます。さすが地元の方でないとわからない細やかな探求、興味深いです。ぼくも九州の状況はよくわかるのですが、地図をみながら実際どうかというと諏訪あたりは、空想ですのでとても参考になります。

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