邪馬台国はどこ?魏志 倭人伝をGoogleEarthでなぞって卑弥呼の都へ

倭人伝の行程をグーグルアースでなぞってみました。
そこで気づいたこと、考えたことを綴ってみました。

邪馬台国とタミル語。古代海のシルクロード③

2017年11月05日 16時35分28秒 | 読書記録

 

シー・ドリーム vol.10―海へ 海からの芳香「メコン川の船旅」 (KAZIムック)
クリエーター情報なし
舵社

 

ローマの金貨が発見された扶南は下記現在のベトナムあたりのメコン川流域にありました。

 

前回からの続きで、インド洋交易の中継者アーンドラ朝のドラビダ人がこの、メコン川の

扶南に駐留していて、その一部が長江流域との交易の最中難破して日本列島に来たものもいたのではないかという

壮大な夢想にそってみていくわけです


するとこんなことがWikipediaに書かれています

扶南の起源[編集]

3世紀頃の南京にあったの官僚の報告書に同時代の東南アジアの国家が出ている。⇒3世紀とはまさに卑弥呼の時代です

しかし、扶南という名称は出ておらず、当時の現地人がどのような名前で国を呼んでいたかは明らかではない。

後述する民族についての考察からも、1世紀頃にオーストロネシア系が扶南をたてたとする説が有力である。

629年に完成した梁書によれば、扶南をたてた人物は「徼」(マレー半島かインドネシアの島と言われている)から来た外国人「混塡」(Kaundinya I)である。混塡は土地の女王「柳葉」(Queen Soma)と結婚し、その子供に王権を与えると、その子供は七つの町[1]を作ったと伝えられている。同様の話は晉書にも伝えられている。4世紀頃からチャンパ王国ミーソン聖域の建設が開始され、扶南滅亡後の658年の日付で同様の話が記録されている。

⇒そしてここからが味噌ですね

インドシナ半島では1世紀ころからインド文化が伝わり、扶南もその文化的影響を強く受けていた。ヒンドゥー教が伝わると官僚として多くのインド人が採用され、サンスクリット語が法律用語として使われた。

⇒インド人がたくさん来ていた。公式にはサンスクリット語ですが、南インド人の商人も当然来てたでしょうから、彼らの言葉はタミル語です

扶南はインド・中国間の海上交易ルートの中継地として大いに栄え、とりわけタイランド湾に面した外港オケオには交易による商品と後背地からの様々な産物が集積され、活況を呈していたと考えられている。

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さて。

扶南はインドと中国の中継基地。

インドはローマ世界と東南アジアの中継基地。インドはアラビア海からマラッカ海峡まで活動していたというのが歴史的事実となるわけです。


そしてインド人、サンスクリットの公人とともにタミル語を話すドラビダ人が扶南にいたことは

容易に想像できるわけです。ローマ金貨を扶南に持ち込んだのは

ドラビダ商人でしょう。

そうするとです!!

こういう航路はほんとに現実味を帯びるわけです


扶南から長江流域あたりに、当時は呉とか越ですね。漢の時代もありましたが。

この時代に扶南駐在のドラビダ商人が長江あたりの呉の都に行こうとしていたり、その前、漢の時代に

長江、あたりに行こうとして交易していたドラビダ商人がいたというのはほぼ間違いないと想像できます。

ドラビダ人は扶南に間違いなくいたら

扶南と漢や呉との交易にドラビダ商人がかかわらないわけはないと思えるわけです。


すると期せずして

遭難して黒潮に乗って日本列島に上陸したことは大いにあり得ることです。

つまりドラビダ人の文化は日本に来たということですね。

 

 

そんなことがタミル語と日本語の関連性に影響を与えるとしたら素晴らしい古代ロマンです。


しかし一方で、インド人はアラビア海とペルシャ湾にもつながっていたことを考えるならば、海のシルクロードを通しても、日本はペルシャあたりとつながっていたという考え方も成り立つわけです。

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