邪馬台国はどこ?魏志 倭人伝をGoogleEarthでなぞって卑弥呼の都へ

倭人伝の行程をグーグルアースでなぞってみました。
そこで気づいたこと、考えたことを綴ってみました。

邪馬台国と扶南国オケオ遺跡 古代海のシルクロード④日本にドラビダ人は来たか?

2017年11月05日 22時29分10秒 | 読書記録

 

扶南・真臘・チャンパの歴史
鈴木 峻
めこん

 

 

 

インドと中国の海上交通の中継地。したがって

ここは交易地として栄えました。

インドからの官僚が王国に仕えて居たり、

サンスクリットの碑文があったりローマの金貨がある

そして中国に朝貢していた。

国際都市オケアは1世紀から6世紀。初期のころは志賀島の金印やスイショウの朝貢の時代です。

 

 

→これは日本の丹後地方
 
今日見られる高床式水上住宅。オケオより45kmほど北のアンザン省チャウドックにて(2012年)

 

オケオの文化を反映した遺跡群はベトナム南部全域に広がっているが、

特にホーチミン市より南西のメコンデルタ地域に集中している。

現在のオケオ市鎮から離れた場所での最も重要な遺跡群は、

メコン川の東の流れ(ソンティエン)に位置する、ドンタップ省カオライン市の東、同省タップムオイ県(Tháp Muời)であり、

ここでは6世紀のサンスクリット語の碑文が発見されている。

また、1958年に撮影された航空写真によって、

扶南国時代にはメコン川の支流が

タケオの周辺からタイランド湾に流れ込んでいたことが証明された。

タケオは古くは海岸に面していたが、後に堆積によって海岸線と離されていったと見られている。

扶南国の時代、オケオは運河でタケオと繋がっており、オケオもタイランド湾の深部へつながる経路を持っていたことになる[2]。また、航空写真によって明らかになったこのメコン川の河口部は、プトレマイオスが「ゲオグラフィア」で言及した、メコン川の西の支流(プトレマイオスはコッティアリス(Cottiaris)と呼んだ)に属する河口分流の「シーナス(Saenus)」である可能性があるとされる[3]

 

 

オケオと扶南国

オケオは、メコンデルタで

紀元1世紀から6世紀に花開いた歴史上の王国である

扶南国に属していたと考えられる。

 

扶南国については、

旅行者や外交官の証言、

中国への朝貢使節の記録に基づき王朝史を書いた、

古代中国の多くの歴史家たちの記録によって知られている。

 

 

新石器時代後期から金属器時代初期に、オケオは徐々にメコンデルタの経済と文化の中心になってゆき、また東南アジアの航路上の重要な位置を占めることによって職人や交易人の集まる場所となり、

インドのような外部文化の影響が十分な都市化を促したとも、ハー・ヴァン・タンは論じている[

→インド人官僚団が駐留していました。

また扶南は、インド人たちが「スヴァルナブーミ」(黄金の野原)と呼んだ東南アジアの地域の最初の表れであった可能性がある。

まさにインドと中国をつなぐ国です。

そしてより強くインド文化の影響かにありました。

官僚だけが駐留するとは考えにくい。

官僚たちをインドから運んだ船の船員たち、商人たちも一緒にやってきてるはずです。

その人たちは航海術にたけたアーンドラ朝の人たち。つまりドラビダ人ということになります。

海上交通帝国のアーンドラ朝はアーリア人に追われてモヘンジョダロを追われたドラビダ人のようです。

 

するとモヘンジョダロの末裔が扶南国にも来ていた。中国に朝貢するときもついていったかもしれません。

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邪馬台国とタミル語。古代海のシルクロード③

2017年11月05日 16時35分28秒 | 読書記録

 

シー・ドリーム vol.10―海へ 海からの芳香「メコン川の船旅」 (KAZIムック)
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舵社

 

ローマの金貨が発見された扶南は下記現在のベトナムあたりのメコン川流域にありました。

 

前回からの続きで、インド洋交易の中継者アーンドラ朝のドラビダ人がこの、メコン川の

扶南に駐留していて、その一部が長江流域との交易の最中難破して日本列島に来たものもいたのではないかという

壮大な夢想にそってみていくわけです


するとこんなことがWikipediaに書かれています

扶南の起源[編集]

3世紀頃の南京にあったの官僚の報告書に同時代の東南アジアの国家が出ている。⇒3世紀とはまさに卑弥呼の時代です

しかし、扶南という名称は出ておらず、当時の現地人がどのような名前で国を呼んでいたかは明らかではない。

後述する民族についての考察からも、1世紀頃にオーストロネシア系が扶南をたてたとする説が有力である。

629年に完成した梁書によれば、扶南をたてた人物は「徼」(マレー半島かインドネシアの島と言われている)から来た外国人「混塡」(Kaundinya I)である。混塡は土地の女王「柳葉」(Queen Soma)と結婚し、その子供に王権を与えると、その子供は七つの町[1]を作ったと伝えられている。同様の話は晉書にも伝えられている。4世紀頃からチャンパ王国ミーソン聖域の建設が開始され、扶南滅亡後の658年の日付で同様の話が記録されている。

⇒そしてここからが味噌ですね

インドシナ半島では1世紀ころからインド文化が伝わり、扶南もその文化的影響を強く受けていた。ヒンドゥー教が伝わると官僚として多くのインド人が採用され、サンスクリット語が法律用語として使われた。

⇒インド人がたくさん来ていた。公式にはサンスクリット語ですが、南インド人の商人も当然来てたでしょうから、彼らの言葉はタミル語です

扶南はインド・中国間の海上交易ルートの中継地として大いに栄え、とりわけタイランド湾に面した外港オケオには交易による商品と後背地からの様々な産物が集積され、活況を呈していたと考えられている。

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さて。

扶南はインドと中国の中継基地。

インドはローマ世界と東南アジアの中継基地。インドはアラビア海からマラッカ海峡まで活動していたというのが歴史的事実となるわけです。


そしてインド人、サンスクリットの公人とともにタミル語を話すドラビダ人が扶南にいたことは

容易に想像できるわけです。ローマ金貨を扶南に持ち込んだのは

ドラビダ商人でしょう。

そうするとです!!

こういう航路はほんとに現実味を帯びるわけです


扶南から長江流域あたりに、当時は呉とか越ですね。漢の時代もありましたが。

この時代に扶南駐在のドラビダ商人が長江あたりの呉の都に行こうとしていたり、その前、漢の時代に

長江、あたりに行こうとして交易していたドラビダ商人がいたというのはほぼ間違いないと想像できます。

ドラビダ人は扶南に間違いなくいたら

扶南と漢や呉との交易にドラビダ商人がかかわらないわけはないと思えるわけです。


すると期せずして

遭難して黒潮に乗って日本列島に上陸したことは大いにあり得ることです。

つまりドラビダ人の文化は日本に来たということですね。

 

 

そんなことがタミル語と日本語の関連性に影響を与えるとしたら素晴らしい古代ロマンです。


しかし一方で、インド人はアラビア海とペルシャ湾にもつながっていたことを考えるならば、海のシルクロードを通しても、日本はペルシャあたりとつながっていたという考え方も成り立つわけです。

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邪馬台国とタミル語。古代「海のシルクロード」②インドは中継基地

2017年11月03日 17時03分36秒 | 読書記録

 

シルクロード 全15巻 DVDBOX
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上図海のシルクロードを細かく見ていくと

地中海から紅海やペルシア湾を通り、

アラビア海を渡ってインドに達します、

この海域の主人公はローマ人、ギリシャ人、フェニキア人

インドから東南アジアを経由してここはこのアラビア半島の人たちのようでした。

しかしドラビダ人も往復いしていたのではないか?

中国にいたる航海路。

これはドラビダ人が東南アジアに往復し

またベトナム人も往復してたでしょう。

ここはベトナムと中国の行き来、倭人と中国の行き来、あるいは

台湾、琉球列島を行けば中国抜きで倭人とベトナムの行き来。


一つ一つの赤のラインはだいたい3000キロから4000キロ。

人類の移動へのエネルギーはすごいものがありますね。

 

地中海から紅海やペルシア湾を通り、

アラビア海を渡ってインドに達し、

ンドから東南アジアを経由して中国にいたる航海路である。

船による輸送の特色は、馬やラクダによる輸送に比べて大量輸送が可能な点にある。

このルートによる中継貿易の中心地は南インドであり、

インドと西方の貿易は、ローマが発展して、ギリシア系商人が活躍し始めた1世紀頃から開かれた。

彼らは季節風を利用してインド洋を渡り、香料や奢侈品を中心に活発に交易を行なった。

この頃記された『エリュトラー海案内記』(arrow_forward 南インドの諸国)は、作者不明であるが、

活発な貿易のようすを描いており、遠く東南アジアや中国のことと思われる記述が見られる。

またインドと中国を結ぶ東南アジアのマラッカ海峡、インドシナ半島南部も航海上の要衝であった。航海技術に長じたマレー・ポリネシア系の人々は、沿岸各地に国をつくり、島々の間を往来した。

この結果、南インドから東南アジアにかけての国々は、海上貿易で栄えた。

このような経路の中で

ベトナムあたりでローマの金貨が見つかるのですね。

 

2世紀頃の「海の道」が栄えた頃にはメコン川下流域に扶南、

半島東南部にチャンパーが建国され、海上貿易によって栄え、

特に扶南のオケオ港跡からは漢の鏡やローマの金貨が出土しました。

さてここからが本論です。

二世紀にこの場所でローマの金貨が見つかっている。

これらの海路を実際に航海したのはどの民族なのでしょう? 

先にも述べましたが海域ごとにプレーヤーは変わります。

しかしアラビアからベトナムまではそれぞれがドラビダ人の往来があったと思われる、すると

ドラビダ人の活動領域は

アラビアからベトナムまで。

ローマ金貨がメコン川で見つかるとは

おおむねこういうことを意味し、

また漢民族の骨が22人分イギリスで見つかるということは

この海のシルクロードがかなりつかわれていた海路だということを示すのではないか?

 

 

そうなるとこの2世紀というのは卑弥呼登場の100年前、まさに倭国王スイショウが107年に漢に朝貢した時代となっていくわけです。

イザナギイザナミ神話というのは南洋の海洋民の神話との類似点が夥しいそうです。

すると日本創生の頃、つまり倭人というのがそもそも

南方から来たとすれば(いきなり飛躍してすみません)

その南方とは沖縄を超えて、台湾を超えて、ベトナム、インドネシアあたりからという考えたも

成り立たないこともない。

 

そこにはインドから商売に来ているドラビダ人たちもいるわけですね。

種子島に鉄砲を伝えたポルトガル人は船団で組織的に来たのではありませんね。

難破して例外的にやってきたのですが日本に鉄砲というハードを広めるには決定的な役割を果たしました。

徳川家康の外交アドバイザー三浦按針も難破して例外的に日本にやってきたわけです。


島国日本にはインドネシアに駐留するドラビダ人が中国貿易の途中、漂着していたとしても

おかしくないどころが必然さえ感じるのです。

では漂着先はどこか?

このルートで北上してくると鹿児島宮崎の高千穂へ。

対馬へ。そして出雲へ。

黒潮という古代からの海上高速道路にのって、ベトナムあたりからドラビダ人が長江へ向かう途中、日本列島の領域にやってきてもおかしくありません。

その時代は奴国と出雲が勃興する頃なのですね。

すると大国主の政治アドバイザーであるスクナヒコとはドラビダ人ではないのか。

天孫降臨とは難破したドラビダ人の出来事のことではないのか。


などなど夢想は膨らみます。

その言葉タミル語が日本語に紛れ込むとうのが

この天孫族の神々の名前を読み解くのに実にはまっているとうこと、次回それを見たいと思います。

 

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邪馬台国とタミル語。古代「海のシルクロード」①古代インド洋の大航海

2017年11月03日 07時53分52秒 | 読書記録

インドのタミル語が日本語の起源であるという説があります。その説には構造的に欠陥があり、今では

ほぼ否定されています。

日本語とタミル語 (1981年)
大野 晋
新潮社

しかしこのような書物があります。

また現在では田中孝顕氏のタミル語について考察された文章がとても開明的で教えられるところ多いものでした。

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古代南インドの活動領域については我々のイメージは全く追いついていません。

その地球規模の活動範囲を見ると、

南インドのドラビダ人(=これはまさにモヘンジョダロを作った人たちではなかったでしょうか。)が日本に来た可能性を否定しきるのも野暮な気がします。

むしろ海のシルクロードはゴール地点となる日本列島に向かって多くの人々を連れてきたと考えると

ロマンも学説の奥行も広がると思うのです。

奈良時代の平城京にはペルシャ人の名前が彫られた木簡が見つかっています(新聞掲載の事実です)

そしてローマ時代のロンドンから漢民族の骨が見つかっています(これも新聞報道レベルの事実です)

そんなことを想定して自由に想像してみます。

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邪馬台国は3世紀。

倭国王帥升が朝貢したのが107年。志賀島の金印が57年。奴国の時代でしょう。するとたぶん日本神話の歴史的舞台として紀元0年前後、紀元前200年くらいの稲作の水耕勃興のあたりではないかと思うのです。


されこの紀元前2世紀から紀元後3世紀のあたりの500年の時代。中国は漢の時代。西洋ではローマ帝国、その間のペルシャ世界は割合混乱があり3世紀のササン朝ペルシャまでは分裂と滅亡を繰り返していたようです。

世界は古代からつながっていました。

世界規模で一元的にはつながらなくても地域ごとに広域がつながりその広域同士がつながることで、結果として世界には直接間接のネットワークが生まれるのでしょう。

古代海のシルクロードはこんな風なネットワークでした。

紀元0年あたりの頃です。

海のシルクロードを見ると、各地の海路をつなげるとローマ帝国と漢はつながってますね。すると必然として、広州、泉州と長江はつながるから長江と朝鮮半島や日本列島も東アジアネットワークでつながるのです。

つまり日本とローマは海路でつながっていると言えないこともないわけです。


誤解のないように述べますが

もちろんこれをもって現代のように、

ヨーロッパとアジアを自由に行き来していたということではありません。

各地の海路はそこで自己完結していて、

たとえば長江からインドに直接いくこさえなかったとおもいますし、

ローマからインドというのも

地中海の航海者と西インドの航海者ば別であり、

西インド洋と東インド洋も別であり、結果としてしかしつながっているということです。

インターネットのようなものでしょうか。

 

さて注目したいのはインド南半分くらいにあった王朝アーンドラ朝の人々のことです。

この人たちの言葉の一つがタリム語です。

この人たちというのはドラビダ人です(イギリス人がつけた名称。言語グループに分けてドラビダ系ということにした)タリム語というとマイナーに感じますが

この地域で使われていて、なんと7000万人もの人が使うそうです。領域も人口も国レベルです。

世界4大河文明というのがありますね。いまでは12文明とかになっていて4つどころではないとなっていますが、インド代表は

インダス文明です。

これをつくったのがドラヴィダ人です。

Wikipediaより

これは同文明の遺跡から発見された未解読のインダス文字により記された言語が、マヤ文字で有名であるユーリ・クノロゾフらソ連の研究者によってドラヴィダ語族の言語である可能性が高いことが指摘された。ということから推測されています。

(これをきっかけにインダス文字の研究では、Iravatham Mahadevanがドラヴィダ語仮説(Dravidian hypothesis, 南インドのドラヴィダ系の言語)を提唱し、Shikaripura Ranganatha Raoはドラヴィダ語仮説に反対していた。これらの対立にはドラヴィダ運動英語版の政治的な側面からの影響もあった。現在に至るまで多くの研究がなされているが、[1]インダス文明の言語がドラヴィダ語に最も近かったことはほぼ確実である。)

 

さてそれでインド神話によると

北からやってきたアーリア人たちはドラビダ人の神を悪魔の神とよび、

ドラビダ人の地域ではその神は当然正義の神となりますから、インドでは山の向こうとこちらで同じ神が正義だったり悪魔だったりすることがあるようです。

モヘンジョダロはなぜだか都市ごと放棄されます。ドラビダ人たちは南インドに逃げます。

そこでアーンドラ朝がやがてできます。

 

そのアーンドラ朝が邪馬台国前夜の時代、国際交易の国として隆盛を極めます。

有名な話としてローマとの交易です。

 

この海路、NHKでも紹介されていましたし、世界史の教科書に昔から載っています。

なんとインド洋を外洋航海していますね。

陸路伝いではなく一気にアラビア半島からインド半島に航海しています。

これがどれだけすごいことかというと

上の地図のラインの距離は最長3000キロくらいありますし、ちょっと外洋航海するだけで1000キロなのですね。

赤線は長い方が3000キロくらい。短い方が1500キロです。

これを東アジアに当てはめると

この赤線は1000キロから1200キロくらいです。

3000キロというと日本の九州からベトナム近くまで行きますね

いかにスケールの大きいインド洋航海をしていたかがわかります。大航海で中東からインド半島へ航海していた。

 

この時代

漢民族の22人の骨がイギリスで見つかっている。

インドネシアでローマの金貨が見つかっている。

このインド洋航海を制していたドラビダ人の航海術がそれらの出来事を可能にしたのだと思います。

 

続く

 

 

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雑然と邪馬台国

2017年09月21日 22時55分35秒 | 読書記録

 

【精米】秋田県産 無洗米 あきたこまち
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邪馬台国=ヤマトであれば倭人伝は記紀とかぶります 

邪馬台国≠ヤマト であればまったく別の世界が見えるわけです。 

この別であるときの、ヤマト世界との落差がまた面白いと思います。 
例えば倭人伝の行程は奴国の隣不弥国までは詳しいがそこからさきはなんのことだか意味不明に書いてます。 
なので、魏使は九州北岸までしか行かず、その先にはいかなかった。 
またはそこがゴールだったとも思えるわけです。 
奴国は大宰府の西隣、不弥国は大宰府の東隣あたりです。大宰府は北に福岡平野、南に筑紫平野が広がりそれぞれの平野に川が流れます。そして北には日本海、南には有明海に川を下ってつながります。 

さて日田に久津姫、八女(筑紫平野)に八女津姫、などがあり、地元では二人とも卑弥呼ではないかと言われています。 
いずれも奈良より広い筑紫平野の山間部に社があるわけです。特に八女津姫に至っては平地に降り立ち民をおさめるというような文言があり、さらに八女津姫の社がある場所は矢部村と言って、そこには矢部日向という峠があります。 

この九州の姫たちの古代世界というのはまさに、何かのときには巫女の姫を担ごうという流れを作ったのだと思います。 

魏に使いを送った卑弥呼と名乗るヒメは久津姫でも八女津姫でもおかしくはないように思います。そうすると当時、使者を送ることのできる姫は複数いたのであるとも思えます。 
ヤマトの出来事ととらえると、記紀などで覗く世界とリンクしながら考えるわけですが 
別の世界の話であるとするとまた違う風景が見える。 
そこが邪馬台国の面白さだと思います。 

 

ちなみに九州説の本丸は筑紫平野となります。ヤマトと無関係とした場合。 
ヤマトと関係するとなったときの最大の疑問が伊都国に一大卒を奈良の勢力がおいているということです。西暦200年代にそんなことができたのか?わずか1800戸くらいの国に大軍団をおき、2万戸の奴国がこれを畏れるとはいかなる現象か?平安朝に九州の豪族が大宰府に手を出さなかったのと同じことなわけで、それは技術的に不可能ではないかと思えるのです。 
吉野ヶ里をはじめとする筑紫平野に都を持つ勢力が、日本海側に軍事拠点を置くという程度のものではないかと考えるほうが3世紀の実態にあうと思うわけです。 


伊都国と宗像の海岸線から福岡平野を上り、奴国の領域を通り、大宰府を超え、吉野ヶ里に行ってます。もう一つは、朝倉、浮羽を通り、日田を通り、日田から宇佐へ行き、国東の安芸へ行き、大分の速水に。こうして瀬戸内海へ向かう陸上ルートに見事にはまっています。 

また逆に奈良からやってきたと考えると、宇佐に上陸して日田へ行く。宇佐から日田に川が流れているので、土地感覚では宇佐と日田は隣なのです。 
そして日田に来るとその盆地から筑後川が筑紫平野に流れているので、必然として、浮羽朝倉へ行き、そこまで来ると 
大宰府を超えて福岡平野へ行きます。そして伊都国の糸島へ行くルートと、沖ノ島への港宗像へと向かっている。 

この地図は九州の地制図としてみると、見事にそのどちらかだろうというラインにそって分布しています。



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