邪馬台国はどこ?魏志 倭人伝をGoogleEarthでなぞって卑弥呼の都へ

倭人伝の行程をグーグルアースでなぞってみました。
そこで気づいたこと、考えたことを綴ってみました。

邪馬台国はどこだ?とは倭人伝のどこにも書かれていない

2017年08月11日 00時21分30秒 | 読書記録

古田武彦さんはまず通説をことごとく否定しますので

読んでいて単純に面白く

否定される通説が逆によく頭に入るから

古代史の入り口として優れた本だと思います。

「邪馬台国」はなかった―解読された倭人伝の謎 (古田武彦・古代史コレクション)
古田 武彦
ミネルヴァ書房

さて倭人伝は

帯方郡から倭に行くにはと

行程を書き始めます。

どこにも

邪馬台国へ道程は?などと書かれていません。

 

いまのソウルくらいから日本列島へ行くには・・・・というおおざっぱなノリです。

 

道程で書きたかったのはこれだけです、帯方郡から倭に行くには

 

当然南に行って東にいって半島南端から海を渡って

上陸したらそこはマツロ国で

その隣の伊都国が半島からの外交官の駐留所になっていて

さらに行くとあの奴国があってそれは大国です、

そしてその隣にフミ国がありますよ。

 

厳密に論じるものでもないです。

 

これで終わってるのですね。帯方郡から倭に行くという話は。

ついでい投馬国と邪馬台国のことが書かれています。

厳密に水行陸行を書いてないということですね。

 

すべては外国から当時の日本を見た時のことをそのまま描いたことで起こった齟齬です。

 

邪馬台国問題の決着はこれです。

邪馬台国から九州遠征にやってきた女王がずっとフミ国に駐留したから

帯方郡からみたら女王国というのは九州北部のことです。

そしてその南に狗奴国があります。

女王の本来の都は

奈良です。つまり邪馬台国は奈良だけど

今女王がいるのはフミ国=宇美町だぞ

ということですね。

このため複雑になってどこにあるのだ。九州か?

近畿か?新潟か?ジャワか?

トルコか?

 

卑弥呼がなぞめく女王なんて誰が言い出したのか。

 

フミ国にいる女王に夫がいなくて

鬼道で人を惑わし

南の敵、狗奴国と戦争をして

絶大な権力をもち

弟のような腹心の部下がいる

 

この人物といえば

オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后です

 

そもそも夫仲哀天皇を神が憑依してる最中に呪い殺したのだから。

 

そもそも魏にとって纏向の奈良は遠すぎてよくわからない。

知ってるのは摂政皇后のいるフミ国までで十分です。

 

『全国卑弥呼は神功皇后だ の会』

「邪馬台国」はなかった―解読された倭人伝の謎 (古田武彦・古代史コレクション)古田 武彦ミネルヴァ書房

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ワインと倭の五王

2017年08月08日 16時41分49秒 | 読書記録

 

酒は各地の文化の妙味です。

ロシアはウォッカ。

中国は老酒

ブリテン島はウィスキー

日本は日本酒

あと各地にそれぞれ焼酎がありますね。

そしてヨーロッパはワイン。

 

 

 

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ワインというお酒は

そもそもはメソポタミアのどこかの

後宮の女が皇帝の寵愛がなくなり

絶望して、腐ったブドウを入れた樽の中から

ブドウの果汁(腐敗して毒のようなものだと思った)を飲んだのがはじまりだとか。

その腐ったブドウの樽から、絶対死のうと思ってたくさんのブドウ果実汁を飲んだその女は翌朝樽のわきで気持ち様さそうに眠っているのを発見されました。

起こしてみるとどうやら酔いつぶれている。

どうしたのだと、皇帝が聞くと

正直に、愛を失い、死のうと思って樽の中のブドウの汁をたくさん飲んだと言います。

 

皇帝は家来たちに試しに飲ませました。

「うまい」

みなが口をそろえて言います。毒でもなさそうです。

それで皇帝も飲んでみました

「うまい」

そうですね。

ワインができていたのです。

この女性、ワインを発見したことでいつまでも皇帝に重用されたというお話です。

 

こんなふうに

ワインの起源にはいろんな逸話が作られているようです。

https://food-drink.pintoru.com/wine/history/

 

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多くのものは「人類が発明」することで歴史が始まりますが、ワインの場合は発明したというより発見したというのが適切です。

その理由としては、ブドウの原種自体がすでに300万年前頃から地上に繁茂しており、糖分をアルコールに分解する酵母はそれよりも古く数億年前から存在していたとされており、つまり人類が登場するはるか以前からワインとなる要素はすべて揃っており、ブドウの木の実が地面に落ちて潰れ、天然の酵母にて発酵し、ワインとなるものを人類が発見したのです。


さて

日本の古代に戻ります。

南朝への9回の朝貢をした倭の五王のことです。

遣隋使や遣唐使は有名ですが、実はたった100年で遣唐使300年と同じ回数の

朝貢をしている倭の五王。

遣唐使は朝鮮半島航路が使えないから遭難も多発しましたが

倭の五王は半島伝いに行くからほぼ遭難してないというか

その遭難の記録はない。

海に強いのです。


さて行った先の長江の河口の南朝。晋が蛮族に滅ぼされて

今の上海あたりに逃げて王朝を作り南朝になります。

東晋です。

その後100年前後おきに禅譲革命があり

東晋→宋→斎→梁→陳

と移りますが

倭の五王は継続して朝貢を続けます。

三国志のころの呉もこの地を根城にしていたので

それを合わせて6つの王朝がいたということで

六朝文化という言い方をすることもあります。

陶淵明や竹林の七賢人など

浮世に絶望して文化に逃げたのですね。

優れた詩文や絵画など文化が醸成されました。

さて 南朝は仏教にあつい 

南朝でも仏教は盛んであったが、

中でも、希代の崇仏皇帝であり、

またその長命の故にか、

リア王に比せられるような悲劇的な最期を遂げることになる、

梁の武帝の時代が最盛期である。

都の建康は後世「南朝四百八十寺」と詠まれるように、

北朝の洛陽同様の仏寺が建ち並ぶ都市であった。 


こんな場所に朝貢に9回も行ったら必ず仏教は伝来するのでは?

もちろん 
寺院や経典や添うなど3点セットで初めて伝来となるので 
寺院づくりの技師などもこないと無理ですが。 
まず教義だけというわけには大乗はいきません。 


だから散々仏教を知ってて、あこがれてたのに 
なかなか寺院づくりの技師も僧も来ないし、本もくれないからやきもきしてるところに 
百濟が三点セットを用意しようじゃないかということになって 

「おー。百濟のためならひと肌脱ごうと」白村江の戦いにつながったのかも 
というのはちょっと飛ばしすぎに妄想。 

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伊都国と古代丹波王国を巡る対話

2017年08月03日 21時08分49秒 | 読書記録

 

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古代丹波王国ですね。丹後には赤坂今井古墳がありますね。海人族です。そして元伊勢神社があり、海部氏が宮司で、国宝海部系図がありますね。冠島にはホアカリノミコトの天孫降臨伝説がありますね。
 
元伊勢神社から伊勢遺跡、伊勢へと伸びるルートはなぜだかほぼ完全に直線なのです。
 
ただ、神話はあまりにも対馬海峡が中心だと思います。 
出雲から対馬までの海域の出来事が神話です。 
沖ノ島航路割譲の話などはこれは筑紫と出雲など日本海の国々の話です。 
そういう意味では丹波王国が関わっていたとも言えます。 
いずれにしと神話は日本海ですね。 
御諸山も実は遠賀川の、つまり宗像の世界の東の端の山であると思っています。そこは大国主の筑紫の妻の場所でもあるわけです。
丹波王国ですね。若狭湾が古代史の鍵のひとつ。 
筑紫⇔出雲⇔丹波⇔越というこの海岸線こそが 
神話でしょうし 
まさに大国主の活動範囲です。 
ここから近江へ進出して 
尾張と手打ちししたのが 
伊勢遺跡。 
そこから進んで 
それに加えて吉備とも組んだのが纏向。 
ではないでしょうか。 
はじめに日本海ありき。 

でもそうしたらニギハヤヒは瀬戸内海からきましたね
もう一つの見方。 
伊勢とは海の拠点。 
太平洋と日本海と琵琶湖。 
真ん中の30くらいの建物が円周上にある伊勢遺跡は二つの海の真ん中ですね。 

この理屈でいくと纏向というのは 
瀬戸内海と太平洋と琵琶湖の真ん中?の機能なのでしょうか。 
三輪山が大事だからあそこですか? 
伊勢遺跡までと 
纏向からは何かが違うような

 うーん、3世紀の話をしていると、どうも丹波、近江、尾張、近畿になっていきますね。この流れでいくと論理的帰結としては邪馬台国はヤマトとなります。みなで共同で作った祭紀都市。そこに卑弥呼がいると。 
ただ、倭への行程は不弥国までがよく承知されていて、そこから先は大まかな移動時間を書いてるだけです。 
どうも帯方郡とつきあいのあるかつての100あまり、今の30あまりのクニグニは九州北岸あたりにあったと思えるのですね。この30のクニグニが、九州からヤマトまでに存在するならば吉備や出雲や安芸や丹波について、これらのクニグニも頻繁に帯方郡を訪れる国ということになります。 
そうであれば、たとえば出雲や吉備に対しての行程は必ずやもっと詳しく書くでしょう。 

かりに邪馬台国の都が纏向であったとしても、魏が承知している倭とは不弥国までであるという気がします。 

奴国は1世紀から2世紀にかけて博多湾岸あたりに存在し、半島と行き来があったことは間違いないでしょう。 
そしてその奴国までのルートはよく承知しているわけです。魏は。 
すると3世紀において、奈良と直接交渉を帯方郡がもっていたとは思えないのですね。 
どうも帯方郡が関わったのは伊都国から不弥国までのような気がします。 
そうすると不弥国とはなんだということになります。 
記述通りなら、そこは港ですね。投馬国へ向かって船が出る港です。放射説なら邪馬台国に向かっても船が出る港です。 
そしてそこまではマツロ国でいったん上陸して歩くわけです。 
このいったん上陸して歩くがまた不弥国から船に乗るというのが、実は地政学的に不弥国の場所を限定させるポイントという考え方もあります。 

さて帯方郡は倭国に行く時は必ず伊都国に滞在するのです。 
あるいは完全に後世の太宰府の役割です。 
しかしこの時代に九州の糸島を奈良から軍団を派遣して、周辺を畏怖させるほどの行政機関を作るなどできるでしょうか。そうならばその軍団の兵士はどこの出身なのか。 

纏向は連合都市です。列島の西半分の主要地域が集まって作っている。 
では伊都国に駐屯する軍団は近江の人か、吉備の人か、出雲の人か。 

伊都国も奴国も抑えて帯方郡とやりとりするということを3世紀の奈良にできたのだろうかというのが疑問なんですね。
 
 
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第二次九州遠征軍の司令官の妻 神功皇后

2017年08月01日 20時35分45秒 | 読書記録

 

 

発見・検証 日本の古代I 纒向発見と邪馬台国の全貌 卑弥呼と三角縁神獣鏡

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KADOKAWA
熊襲征伐中に仲哀天皇は死ぬのですが香椎宮という博多湾に陣をはって、熊襲と戦ってる。
どうも戦死したみたいだ。 
すると博多湾や筑紫平野が熊襲の陣地になるが、熊襲とは鹿児島や宮崎ではないのか。 
こんな風に全然場所が違います。
どうもこの辺おかしい。戦っていたのはタブラつ姫の勢力、
吉野ヶ里勢力の子孫。邪馬台国=山門国ですね。 
この人達は熊襲ではないのではないか。あるいは熊襲は負けて南に行ったのだろうか。
いずれにしても仲哀天皇と神功皇后の戦いは福岡平野と筑紫平野です。

仲哀天皇の死後神功皇后は
九州の邪馬台国を倒したあと、海上の邪馬台国も倒していったのではないだろうか 
すなわち、壱岐(神功電設がたくさんありますね)対馬、そして弁韓、そして支援国。 
神功皇后の三韓征伐とは邪馬台国残存勢力の支援勢力であり 
そこまでやらないと邪馬台国は無くならない。 
なぜなら邪馬台国とは対馬海峡共同体だったのだという考え方ですね。
ところで

神功皇后の39年は239年でした。
日本書紀にそう明記されています。
この年代が基準になって記紀から逆算してかく天皇の年代を出しているのでしょうか。
明記されていて中国年代から特定できるのは神功皇后だけです。
しかし架空説もあり、また4世紀の人だという話もあり・・・・

日本書紀が神功皇后39年にナンショウメたちが洛陽に書いてますが 
神功39年は天皇西暦変換表で239年=卑弥呼の文来る魏の都です。 



景行天皇は長く九州遠征をしていましたがなぜか筑紫には入らなかった。
そして京都郡から宇佐、日向、薩摩、阿蘇を経て筑紫平野の朝倉郡を経て宇佐へ抜けます。
なぜか筑紫平野の上、福岡平野には入らなかった。
これは入れなかったです。
強力な勢力がいたので。
そしてその息子仲哀天皇がそれを打ちに行ったが強すぎて負けてしまう。
さてここからが不思議です。
その妻オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后はそのまま60年も九州にいます。
まあ長期にはいたでしょう。
なぜ長期に駐留したのでしょうか。
滅ぼした相手が邪馬台国で朝鮮半島にまであったその残存勢力を打たねばならなかったというのが一つ。
 
一方邪馬台国から来た姫が、狗奴国征討を行い長期に駐留したのかもしれません。
狗奴国は熊襲。つまり、仲哀天皇が戦った相手が狗奴国なのだという考え方。
すると邪馬台国から狗奴国征討に来た女王が神功皇后になります。
それは景行天皇が行った遠征と同じことです。
 
しかしその後あまりにも長く九州にいたので王子である応神天皇は生まれてからずっと九州です。
 
 
あるいはこれは単なる空想ですが
 
仲哀天皇と応神天皇は無縁の別勢力である。
王家の連続性を持たせるために神功皇后という滅びた方の妻であり 
滅ぼした方の母という装置を作ってその間の歴史を埋めた 

これはなかなか深いですね。たとえば14代将軍徳川家茂が長生きしてて 
彼と和宮の間に男子が生まれたらどうなるか。 

孝明天皇がなくなって次の帝がまだ決まらないうちに 
和宮と男子が京都に帰る。 
幕府の権威は失墜し事実上機能しないが 
将軍と皇室の血をもつ男子の血統には権威がある 

その男子が帝になる。 


政治情勢次第ではありそうな話です。そういうことが応神天皇だったかもというわけですね。
 
 
 
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徒然的なMY邪馬台国論争

2017年07月30日 15時35分20秒 | 読書記録

邪馬台国近畿説があります

でもヤマト王権が100年後に成立したらしいということ以外に 
邪馬台国が奈良にある理由はなかったのですけども。

奈良まで行ったのなら 
倭人伝は九州までは知ってるがそれ以外は吉備も出雲も安芸も阿波も尾張も越もでてきません。詳しくは伊都国と奴国くと不弥国くらいで、不弥国は馬韓にも同表記の国があるのです。

奈良まで行ったなら当然出雲か吉備は出てきます。それが投馬国という話もあるのですが。

しかし安芸国や宇佐国の話が、瀬戸内海コースならでるし

日本海コースなら出雲の他に丹後や丹波、それに琵琶湖の話が出るはずです。

帯方郡からの道程 対馬海峡

邪馬台国というと3世紀はわかっていて 

纏向遺跡も3世紀とわかっている。 

わからないのはその登場人物か。

纏向=倭国の都ではないような気もしますし。 

ただ纒向には吉備、越、尾張、伊勢、出雲など当時の目立った勢力の

すべての土器がでているわけです。

これはまさに卑弥呼にかぶります。

これを見てると当時の日本代表は奈良です。

 

一方吉野ヶ里も同時期でありかぶります。

しかしながら親魏倭王はもらったもの勝ち!! 
洛陽にまできたのだから最大勢力の使いだろうと思ったとかですね。 
しかし帯方郡はどこの誰かは知っていたのだろうか。 


でもパスポートはないから九州北岸の連中がやってきたら 
それがどこの国の代表か客観的に確かめるすべはないか。 

だれでもそれなりの情報をもって、それなりの振る舞いができれば(割と限定されるかな) 
倭王の使いだと思わせることができたかもしれません。


でもそうでなくても当時の吉備が来たら?

出雲が来たら?筑紫が来たら?みな日本代表に見えるだろう。


吉備からも出雲からも半島は遠くない

河内平野が古代は潟であり、内海であったということです。

すると奈良はしっかりした平野として海に向かっているところだった。

倭人伝の後半です。


我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印紫綬裝封付帶方太守假授 

私は汝を大変慈しみ、いま汝を親魏倭王とし金印と紫綬を装封して帯方郡太守に託し授ける。 



汝其綏撫種人勉爲孝順 

汝は倭人を綏撫し、我に孝順をつくせ。 



汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞 

汝の使者難升米、年利は遠路を苦労してやって来た。 



今以難升米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印青綬引見勞賜遣還 

いま難升米を率書中郎将、年利を率善校尉とし、銀印青綬を与え、彼らに会って、ねぎらって送りかえす。 



→激烈な檄文に感じます。頑張れ卑弥呼。狗奴国に負けるなと言ってるような・・・・

それにしても偉そう。

頑張れはいいから、援軍送ってくれと難升米は思ったに違いない。

つまりこの朝貢は失敗だったのではないか。

本当は、魏の援軍が対馬海峡を超えて支援に来てほしかったのではないか。

せっかく ははー ってやりに来たのに

もらったのは印鑑かよ!みたいな。

絢爛豪華。 
洛陽でみたら普通に馴染むけど 
倭の地に持ち込まれてみたら 
とてつもないものだったでしょう。 

いったい遥か彼方の超文明の洛陽を 
当時の倭人たちはどんな目で見ていたでしょう。 
帯方郡という巨大権力をそのまたはるかかなたから派遣している。 

月から来た宇宙人くらいの印象かもですね。 
そこから文字もくれば仏教もあるらしく(洛陽へ行った使節は確実に仏教寺院をみているわけです) 
いやはやという感じです 


こうした人々の心の印象というのは 
現代人にはよほど想像しないとまったく適合せず洛陽への印象というものが 
案外ポイントかもしれない 


でもなぜ倭人伝の行程は九州までは詳しくて

そのあとはおおざっぱなのか。

すべての矛盾を解決する考え方があります。

女王国は九州北部にあったがその本拠地は奈良にあった。

つまり女王国は九州で邪馬台国は奈良だった。

この現象は時々起こっています。

景行天皇の九州巡行。

王は九州にいるがその本拠地は奈良であるとなります。


では女王が九州に長期駐留した事績はといえば

つまり神功皇后です。

おまけにフミ国にいました。60年くらいいました。

このとき外国からみると

女王はふみ国にいる。その本拠地はならである

となります。

 


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