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中入り部隊出陣

2009-09-06 17:07:07 | 歴史
小牧・長久手戦役シリーズ。前回の続きです。

四月六日夜半、羽柴軍の中入り部隊24,000が3部隊に分かれて進発しました。第1部隊は池田恒興、森長可、堀秀政。第2部隊は羽柴秀次。第3部隊は中川秀政。

先発した第1部隊は、出発地点から15km先の合流ポイントでしばらく後続部隊を待つことになります。

ここで、八日まで合流ポイントに留まっていた池田恒興の怠慢を責める解説を読んだことがありますけど、狭い間道を24,000人の人間が行動を秘匿しながら進軍する場合、2日ぐらい時間がかかるのは仕方がないことだと思うんですが。

しかしこの滞留が致命的な結果をもたらしたのは間違いありません。周辺の地侍が羽柴軍の行動を家康に通報したのです。この報を受け家康は迎撃隊を送り込み、自身も密かに小牧の陣正面から、長久手方面の小幡城へ移動しています。

一方進軍を再開した羽柴勢の第1部隊は岩崎城目前で、出撃してきた岩崎城守備部隊と接触することになります。池田恒興はこれを撃退し、岩崎城を(自らの采配ミスで)苦戦しながらも落城させることに成功します。

再びここで、城への攻撃で自らの所在地を暴露してしまったことを問題視する解説もありますけど、前回も説明しましたが、秘匿行動の目的は岩崎城へ奇襲をかけることにあり、まして中入り勢の後方連絡線を扼する岩崎城を無視して進軍するのは無理がありすぎます。そしてなにより、城方から迎撃部隊が出てきたからには、徳川方が既に隠密部隊を察知していたことの証左であり、所在地を知られてしまったことを批判するのはナンセンスなんですよ。

それは置いておくとして、多少の遅れはあったものの無事岩崎城を落とし、前進を再開しようとしていた池田恒興のもとに、驚くべき凶報がもたらされることとなります。

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