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拠点防御と縦深防御の併用

2010-03-15 00:02:45 | 歴史
「小田原の役」シリーズ第5回。前回の続きです。

前回は北条氏邦の提案した出撃策をベースにワタシの考えを書きましたが、実際には北条家は籠城策を採りました。

この方針を主張したのは松田憲秀で、念頭にあったのはもちろん上杉、武田を撃退した過去の実績です。

もっとも、今回の籠城作戦は過去とは違い、拠点防御と縦深防御の併用策です。

前回も説明しましたとおり、豊臣軍主力は東海道経由で進軍し、別働隊が中山道と甲州街道からやって来ると考えられます。

そこで、まず豊臣軍主力を韮山城、山中城、足柄城という箱根の天嶮を利用した西方防御線で拘束し、時間を稼ぎます。そして別働隊を上野、武蔵の支城群(厩橋城、鉢形城、松山城、河越城、八王子城など)で漸減的に拘束し(可能なら消耗させ)、領国の奥深くまでのめり込んだ豊臣軍が兵糧を使い果たして攻勢限界に達したタイミングを見計らって、小田原に集中した強力な機動予備兵力でもって撃破する。

以上の戦略に則り、西方防御線に合計2万の守備兵力を配置し、厳重な防御態勢をとります。また、下野、武蔵、上総、下総などから動員した兵力を小田原城に集め、小田原守備隊を除いても5万を超える機動兵力を確保しました。

武装についても北条家は予てから鉄砲の導入を進めており、大動員によって兵力が2倍になったにもかかわらず、鉄砲武装度は15年前と同じ水準を保っていました。つまり15年で北条家の有する鉄砲の数は2倍になっています。関東にはかつて無いほどの大量の鉄砲が豊臣軍に向けられることとなりました。

以上が北条家の守備態勢です。次回は攻撃側の豊臣軍がどんな戦略を採ったかを見てみましょう。

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