嶋津隆文オフィシャルブログ

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「シリーズ団塊世代論」もとうとう最終回です

2009年03月05日 | Weblog


団塊の世代の死とダンディズム

3月は年度の終わり。そして一年間連載してきた私の執筆シリーズ「もうひとつの団塊世代論」(「地方財務」(ぎょうせい)より転載)も今回の3月号のアップで最終回です。最後まで「死」についてのコメントとなってしまいました。白梅でも見ながらお読みください。

死の論議を回避してきた団塊世代
団塊の世代が吉永小百合主演の映画「愛と死をみつめて」に涙していたのは昭和40年代初めの高校生の時のこと。今や「愛と死」ではなく、「老いと死」をみつめる年齢になった。先人の誰もが通った「死」との対面だが、宗教学者の山折哲雄は、「高齢化を考える際に重要になるのは人口の約1割を占めている団塊世代のことだ」としてこう言っている。
「団塊の世代は、老病死に対して全く無防備な世代であると思うからです。老病死はゆっくりとやってくるわけですが、それに対応していくための人生観や価値観についての教育をこの世代はほとんど受けていませんので、人間いかに生きそして死んでいくかについて、周章狼狽することが予想されます。」(「人口減少と総合国力」総合研究開発機構(NIRA))
大量の死者を出した太平洋や中国での戦争への反発として人の死、わけても社会的な死というものが否定され、強くタブー視されてきたのがこの半世紀余の日本である。その結果、団塊世代は戦後の民主主義教育の中で、死の迎え方を考えることを敬遠し、「死の美学」や「殉死」(社会的な死)といった視点での論議をともすれば右翼的、反動的なものとして排斥してきたことは事実だろう。

死に際を意識し始めた団塊世代
久しく「人生80年の時代」といわれてきた。男80歳、女87歳。だがこれは生まれてすぐに亡くなった赤子まで算入しての平均余命の数値である。60の坂をこえた世代の平均余命は男85歳、女89歳なのである。要するに現在生きている団塊世代は、死ぬまで30年はあるのだ。それだけに「なかなか死なない人生90年」というスローな感覚が昨日までの団塊世代であった。しかし昨今、次々と知人友人が死に始めたという事態に、「死」を正面から考えねばならない季節の到来を痛感し始めてきているのである。老いを実感する日常の中で、団塊世代は自分がいかに納得して死を迎えるか、当事者として問題視し出したのである。
昨夏知人の建築家黒川紀章が逝った。その直前、都知事選に立候補し参院選にも出馬し、派手なパフォーマンスで話題を呼んでいた。だがあの極端な派手さを思い浮かべると、ひょっとしたら死期を知った彼が、自分の存在を人々の目の中に焼き付けておきたいという演出ではなかったかと思えるのだ。死に際しそれなりの形跡を残して逝きたい、さらにはやり残したことを整理して逝きたいと思うのは当然というものだろう。黒川紀章世代と団塊世代は一回り違う。しかし団塊世代の間でも、「死ぬまでのもう一旗あげる」「死ぬまでにオトシマエをつける」として最近次のような主張がされてきている。「戦後失ってきたもの、特に民族の知的遺産ともいえる江戸や明治からの日本の教育というものを復活したい」。「戦後日本は、国家と自信を失ってしまった。健全なナショナリズムをもたねばならない」。「団塊党といった運動体を作り、もう一度改革のエネルギーを集めたい」。意気込みが溢れているというものだ。

持ちたい死へのダンディズム
だが、戦後民主主義の申し子として、その自由至上主義を満喫するばかりで社会的な責任をとらなかったといわれる団塊世代。改革を口にしながら、ニート・フリーターやモンスターペアレントを放置したまま、さらに最近問題が顕在化した期間労働者制度などを導入したまま現役を退いてきた。さすがにこうした行動パターンでは、「いつも口ばかりの無責任な団塊世代」と前後の世代から不信をもたれるのである。「社会貢献して逝きたい」とのは確かに一つの「死の美学」である。しかし常に中途半端な終結が予想されるだけに、団塊世代にはもう強い気負いなど持って欲しくない等といわれる昨今なのだ。
過日、もっとも親しかった友人の弁護士が亡くなった。彼女は胆癌で余命6ヶ月と診断され、その言葉通り半年を過ぎて逝った。しかし彼女は宣告を受けた後、その事実を一切秘匿して、時間と身体が許す限り友人や知人に会い、その姿を思い出としてそっと印象づける。他方で、財産や仕事上での身辺整理を滞りなく済ませ、その時を迎えたのである。大変な勇気と精神力があったものだ。老病死に対して無防備だと案じられた団塊世代であるが、こうした死に様を貫いたダンディズムが存在することを同世代人としては誇りたいと思う。
社会的貢献を声高に語ることもさることながら、かように自らの死を着実冷静に対処する姿勢こそ、家族と社会に対するもう一つの誠実な貢献といえるのではないだろうか。


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