遊煩悩林

住職のつぶやき

永遠の微調整

2017年06月09日 | ブログ

永代経のお知らせです。

名古屋から荒山優さんにお話に来ていただきます。

うちの子どもたちが優さんに会いたくて会いたくて・・・ 

「優さんは、遊びに来るんじゃないからね。仏さまのみ教えを伝えに来るんだからね。ちゃんとお話を聞こうね」

どうなることやら・・・

ご参詣をお待ちしております。

 

さて「永代経」。

一般に求められる「永代供養」の認識とのニュアンスの違いに、自分のお伝えの行き届かなさを感じることがあります。

故人の「供養」を何らかの都合でできなくなる、といった相談が多く寄せられる時代。

「家系が絶える」「跡取りがいない」「娘が嫁いだ」、なかには「子どもに面倒をかけたくないので、お寺で全部やってほしい」という方も。

例えば、都会に出ていった息子の家族に、(法事とかの)「面倒」をかけたくないので、「お寺で全部やってほしい」というようなニュアンス。

不謹慎ながら、法事を勤めるということが面倒であるということは薄々わからなくもない。でも息子が親の法事に帰省するのは面倒なことかどうかはわからない。まして忙しくしている息子がいつまでも忙しくしていられるかどうかもわからない。

暇になったらやるかということではないですが、子に面倒をかけたくないというのは、「面倒をこなして」きた人からしか出てこないのでしょう。

「ワシに何かあったときは全部お寺に頼んで任せてあるからお前たちは何もしなくてもいい」というのを、いまどきの親心というのか。

親を亡くして何もすることがない虚脱感ほど子どもにとって辛いことはないかもしれないとも憂います。

そこで「永代経」。

その願いを確かめると「永代供養」とは似て非なるものだと思う。

確かに「永代供養」は「永代経」の願いに触れる大切なきっかけ、「ご縁」となることは間違いがない。

だけど、お寺に預けてあるから何もしなくてもよいのとはまったく違う。

「お寺で全部やってほしい」という「供養」とは何だろうか。

お寺がやることは、仏さまの教えを儀式をとおしてお伝えすることだ。儀式をやるだけでなく、お伝えするために儀式がある。誰にお伝えするか。身近な人の死を縁としてその身近な方々にお伝えするのが勤めのひとつだとすれば、伝える人がいなくなるほどお寺や僧侶が虚しいことはない。お伝えする人が誰もいない儀式、それを「修行」というのかもしれない(儀式を執行する側がそのまま教えを受け取る側でもある)。

「永代経」の願いの根底は、念仏の教えに生きる人を永代に生み出し続けることだと思う。その生み出す場となってほしいという願いが寺にかけられている。だから常照寺の場合は永代経のまとまった懇志金はすべてご門徒の「護持会」が受け取るようになっている。

どんな生きにくい時代社会であったとしても、そこにお念仏の教えが生きていてほしいという願い。お寺が護持されるという本質はここにある。

だから、「故人のご供養」として志納される懇志は、永代に寺を存続するための懇志として受け取られる。お寺が存続できなければ当然「故人のご供養」も成り立たない。

ただし、お寺がいくら存続したとしても、その願いを受け取ることがなければどうなのか。

寺を過去の「遺産」にしてはならないのだ。

合理的で効率的な供養が求められている社会の中で、時間とお金をかけて勤める法事の意味は大きい。

面倒臭さの中身は、意味を見出せないという無意識の苦悩なのかもしれない。ただ時間とお金の浪費するだけだと思っていたとしても、そこには願いがはたらいている。

あとはアンテナの調整だ。それを受けとる受信機の精度。お寺にぜんぶ預けたはずなのに毎年、永代経の案内がやってくるのはそういうことだ。

永代経は永遠の微調整なのかもしれない。

「人に迷惑をかけるな」と言われて育つと「人に面倒をかけたくない」という人が多いような気もします。

迷惑と面倒は違いますが、少しぐらい面倒がのこってないと、迷惑をかけ、面倒をみてもらった方は恩返しもできない。恩返しは「故人の供養」ではなくて、微調整され続けることといってもいいかもしれない。

ならば、この私が「願い」の方から微調整されることを「供養」といってもいいのかもしれない。

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