中村亮太の活動日記

加古川市のために走り回る中村亮太のブログです

播磨国風土記を読んでみた

2016-04-23 21:14:01 | 活動
最近、加古川出身の噺家である旭堂南海さんの、播磨国風土記のお話を聞くことが多かったのですが、
よく考えたらちゃんと読んだことがない。
(ほとんど南海さんのお話で記憶してしまっていますが)

ということで、読んでみました。
賀古の郡のところだけですが。

まず、賀古の郡ですが、景行天皇が「ここは丘・原・野がとても広く大きい。見ると鹿児のようだ」と
仰せになったためとなっています。

そして日岡は、景行天皇が狩りをなされたときに、一頭の鹿が丘を登って「ひひ」と鳴いたということで、
「日岡」と名付けられたとされています。

伝承として伝わっていたのでしょうが、おもしろいものですね。

で、ちょっと飛ばしまして。。
景行天皇がこの地の印南の別嬢(いなみのわきいらつめ)を見初められたのですが、畏れ多いということで
隠れてしまいます。
それが南毗都麻嶋(なびつましま)。
これはどこかよくわからないのですが、一説には加古川の中州かもしれないそうですね。

そこに景行天皇が賀古の松原まで来られたのですが、そこで別嬢の愛犬が島に向かって吠えたため、別嬢の
居場所がわかり、舟で渡り、二人で戻られたのです。

この賀古の松原ですが、どうも平岡町一色から加古川町北在家・尾上町養田あたりまで続いていた松原を指す
ようです。
ちなみに、今は浜の宮に松林がありますが、当時は海だったようですね。

その後、別嬢は景行天皇よりも先に亡くなってしまうのですが、その葬儀の際、つむじ風によって亡骸が加古川に
流されてしまい、櫛を入れる箱と褶(ヒレ)という肩掛けのみ。
そこでこれを日岡に作ったお墓に埋葬されたため、褶墓と呼ばれるようになりました。
あまりに悲しまれた景行天皇は、「この川の物は食べない」と仰り、加古川の鮎を食べなかったとのことです。

なお、この二人の子が小碓尊(古事記による)、のちの日本武尊、ヤマトタケルノミコトとなります。

日本武尊の古事記におけるヤンチャ・・もとい大活躍はまた別のお話ですし、日本書紀とちょっと違ったりは
しますが、こうした古代のスタート地点がある意味加古川であるのは、もっと誇っていいのではないでしょうか。

いま、そうした活動が起こっていますが、やはり地域の歴史を知っていくことが郷土愛に繋がりますし、もっと
知り広げることが必要ですね。

折角なので、他の章も読んでみます。
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2 コメント

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Unknown (凧松)
2016-04-24 02:47:25
戦前の写真では、泊神社の南には船着場がありました。そこまで海だったかも。
Unknown (中村亮太)
2016-04-24 22:44:46
凧松さま

そうなんですね。写真も見てみたいものです。
加古川市南部は扇状地でしょうし、海だった可能性が高いのでしょうね。

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