緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

ブラームス作曲「間奏曲イ長調 Op.118-2」を聴く

2017-05-27 22:36:04 | ピアノ
深い思いや感情を音楽にすることは本当に難しいことだと思う。
華麗な装飾や技巧で良く見せようとせずに、ありのままの心境、それもこれまで積み重ねてきた人生体験から思いをめぐらし、正直に自問自答する。
そんな思いを感じさせる曲を聴いた。
ブラームス作曲「間奏曲イ長調 Op.118-2(Intermezzo A Major, Op118 No.2)」。ブラームスが59歳の時に作曲した曲だ。
初めて聴いたの昨年の秋、ヴァレリー・アファナシエフの演奏だった。
そして最近よく聴くようになったアレックス・ワイセンベルク(Alexis Weissenberg、1929-2012)の演奏をきっかけにこの曲を何度も繰り返し聴くようになった。

人の中には、小さい頃からいい学校に行って、有名な会社に就職して出世して取締役になることを期待される。
学生時代に、このような、親から洗脳された人たちがいた。
彼らは結構精神的にタフである。大学時代、堕落し自信の無かった私はよく彼らから蔑まれた。
また、慣れ親しんだ故郷を離れず、親や幼馴染の近くに職を求めて安定した人生を設計していた人たちもいた。
私は大学を1年長くいたし、将来のことも殆ど考えていなかったが、最終学年の春にあわてて就職活動し、運よく就職できた。
今でも時々同じ夢を見るのだが、大学最終学年になって、未だ就職活動をしていない自分に気付きあせりを感じているシーンだ。

親から将来のことを言われた記憶が無い。例えばどんな職業につきたいとか。
就職で故郷の北海道から東京に出る日も、素っ気なかった。
家を出るときの玄関のシーンは今でも覚えている。
そして悪いことに、大学時代に先述の出世欲の塊のような輩からズタズタにされてから、自分も出世欲に支配された人間に変化してしまった。
猛烈なエネルギーを使って立派な人間になろうとしたが、元からそんな人間とは無縁だった私がそんな人間になれるはずがない。
ほどなくして力尽き、ぼろぼろになってしまった。
そこからはずっと長い間、暗黒の闇の日々だった。
40半ば過ぎからやっと前に光が見えるようになってきた。

無計画だったし、不器用だったし、そして何よりも自我がとても弱かった。
しかし今思えば唯一救われたのは、今の勤め先をずっと続けてきたことだ。
働ける状態でなかったときも、とにかく行った。当然のことながら、仕事の無い閑職にまわされたが。

この「間奏曲イ長調 Op.118-2」を聴くと、自分の人生を回想する心境にさせられる。
だから恥ずかしい自分の人生だけど、書いてみた。
この間奏曲は、穏やかでやさしさを感じる部分とメランコリーを感じる部分とが交錯する。
そして最後は全てを肯定するかのような心境を感じさせる音楽で終わる。
ブラームスは野心があっただろうが、おそらく「成功」に喜びを感じるタイプではなかったのではないか。自分自身に不全感を抱いていたかもしれない。
自分の人生を振り返ってみて、努力したけれど成功に結び付かなかったし、思う様な評価が得られなかったし、自分の才能の限界に直面したふがいなさを感じたり、さまざまな悔恨を抱いていたのではないか。
ブラームスの晩年のピアノ曲には、深い精神性に満ちた曲が多いが、「成功者」の音楽ではない。
素朴で簡素であるが、実に多くの感情が詰め込まれている。

人の人生、どう生きようと自由であるが、晩年には生きてきて良かったと思えるようになりたい。
成功できなくても、その人生を肯定できる心境になりたい。
この曲を聴くと、どんなに不器用で苦しい人生であっても、生き抜いたことに対する包みこむような肯定感、許しの気持ちが感じられる。

昨日、ささやかであるが勤続30年の表彰を受けた。
そして偶然であるが今日この曲を聴いて思いをめぐらせた。
しかししばらくこの曲を聴くのを封印しようと思う。
できれば定年した日に再び聴いてみたい。






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父との想い出を演出する「珈琲」 (fado)
2017-06-11 11:29:17
緑陽さんこんにちは、fadoです。
ブラームスの間奏曲を聴いたのは、昨年、私の習っているギター教室の発表会で同世代のYさんがケッペル編曲によるop.76とop.117を弾いたのを聴いたのが最初でした。
ピアノではなくギターであったというのも何か奇遇ですね。クラシック音楽に疎い私をブラームスに結び付けてくれたYさんに感謝ですね。
Yさんの弾くこの曲を聴いたとき、父と過ごした晩年(亡くなる3年間)のことが鮮明に思い出されました。それから、この曲のことを調べ、ブラームスの晩年の作品であること、彼自身の人生を振り返って、その局面その局面を回想しながらピアノと対話するようにこれらの曲を作ったことなど、彼の人生を語る作品であることを知りました。
この曲を聴くと、誰しも、緑陽さんも書いておられるように自分の過ぎ去った人生の重み(男の背中で表現する哀愁のようなもの)を感じさせてくれますね。以前、父との想い出を綴った雑文を紹介させていただきます。(私の人生に最も影響を与えてくれたのが父です)
ー父との想い出を演出する「珈琲」ー
 「お父さん、おじいちゃんの珈琲が入ったよ」という妻の声に催促されて、私は、毎日仏壇に珈琲を供え、手を合わせる。香ばしい珈琲の香りが私の鼻をくすぐる。この行事はかれこれ10年ほど続いている。
 15年ほど前、父の日に、新しい珈琲メーカーと珈琲を送った。それ以来、実家に行くと、必ず父は妻と私のために珈琲を淹れてくれるようになった。珈琲カップから立ち上る湯下の向こうには、父のはにかんだ笑顔があった。
 それから何年か後、体の弱かった母が入院し、退院とともに施設に入所した。一人になった父は、毎日、母の入所している施設に通った。私は、親孝行のつもりで、毎朝、父を、母の入所している施設まで車で送っていった。朝、実家のチャイムを押すと、父の笑顔とともに、部屋から、淹れたての珈琲の香りが漂ってきた。おしゃれな父は、決まって、お気に入りのジャケットを着て、通信販売で買った籐の椅子に座り、美味しそうに珈琲を飲んでいた。ある日、今まで戦争について語ったことのない父が、ポツリポツリと自分の戦争経験を語るようになった。若くして死んでいった戦友達のこと、空中戦のこと、また、高校まで過ごした樺太での楽しい思い出、樺太の代表として出場した国体のこと・・・など・・・。まるで、過去の記憶を私の頭の中に遺書として書き残すように・・・。子供の頃の楽しそうな表情とは反対に、戦争の話を語るとき、遠い記憶の糸を手繰り寄せるように、一点をじっと見つめ辛そうに話していた。そして、いつか死んでいった戦友たちの霊を慰めるために、四国八十八箇所を巡礼するのだと自分に言い聞かせるように語っていた。そんな日々は、2年ほど続き、父は亡くなった。その3年後、母も父の後を追うように亡くなった。母と結婚してからの父は、子供の目から見ても、仕事、子育て、身体の弱い妻の看病と、それこそ大変な日々を送っていたように見えた。そんな父の楽しみは、酒と珈琲だった。特に珈琲はお洒落な父を表現する道具だったのだろう。大き目のマグカップに入った、珈琲を片手に、もう一方の手にはスネークウッドで出来たパイプ・・・。なかなか様になっていたように思う。
 父が亡くなった次の年の父の日、「珈琲メーカーを買って、毎日、おじいちゃんの仏壇に珈琲を供えようか。おじいちゃん珈琲が好きだったからね」と、言ったのは妻である。それ以来、毎日この行事が続いている。珈琲は近くにある自家焙煎の店で買ってくる。今では私も、珈琲の味がほんの少しわかってきたようだ。
 毎日、仏壇に珈琲を供え、手を合わせるたびに、父が語ってくれた様々な物語を珈琲の香ばしい香りの中で思い浮かべている・・・。(2011)

 昨日、緑陽さんお勧めのアファナシエフのCDを玉光堂で買ってきました。父の日の今日、午前中は珈琲を飲みながら・・・夜はアイリッシュウイスキー(タラモアデュー)を飲みながら父との思い出に浸りたいと思います。

それではまた…。

 「

Unknown (緑陽)
2017-06-11 22:55:41
fadoさん、こんにちは。コメント下さりありがとうございました。
fadoさんのお父さんは激動の時代を生きてきたのですね。戦争体験を話したがらなかったのは、とても辛く、悲しい出来事がそれこそたくさん、抱えきれないほどだったからに違いありません。
私の両親も戦争中は10代半ばでしたが、父は両親を子供の時に亡くし、母も父親を小さな時に亡くしています。父は確か妹も小さい時に失っています。
私の両親も戦争時代のことは殆ど語りませんでした。
私の父は、若い頃は気難しい人でした。怒ってかっとなることもありました。
私は子供の頃から父に気兼ねなく話すことはできませんでした。
父は40歳ころから模型作りに熱中し出しました。
夜中まで遅くまで起きて、何も言わずに熱中していました。
手先が器用で几帳面だった父の作る模型の出来は自分で言うのも何ですが素晴らしいものでした。
しかしその楽しみを母が奪ってしまったのです。
父が50歳くらいの時だったでしょうか。母が「もう止めてください」と言ったのです。
それっきり父は2度と模型を作らなくなりました。
私の母も体が弱く、若い頃、結核で長い間療養していました。私が小学生の時も発作を起こし救急車で運ばれ入院したこともあります。
その後も何度か入院しましたが、子供の頃に親が病気になることは辛いものですね。
若い頃から頑強だった父も今から10年以上前ですが、癌になりました。しかし、奇跡的に克服しました。
私は20代半ばから30代前半まで両親と断絶していた時代がありましたが、親を受け入れるようになるまで長い時間がかかりました。
完全な親などいません。
私も50半ば近くになり、子供の頃の父が、勤めていた父が、その頃どのような気持ちでいたか分かるようになってきました。
父は口には決して出しませんでしたが、自分のやりたいことを我慢して、子供3人を大学に入れるために父なりに頑張っていだんだと思います。
老いた父は昔のような気難しさは無くなり、楽天的に生きるようになりました。
私も父に似たのか素直に表現できない所がありますが、年と共に楽天的になってきました。

今日は父の日だったのですね。
私は父に何かを買ってあげたことは殆ど記憶にありません。基本的に人にものをあげるのがとても不得意です。
しかし親と和解してからは、年3回は帰省し、家のことを手伝うようにしています。
偶然ですが、たった今このコメントを書いている最中に父から電話がありました。
父は改めて年をとったな、感じます。
本当に長生きしてほしいと今では思っています。

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