緑香庵通信

三軒茶屋から世田谷線で6分・松陰神社前のアロマテラピーサロン。

フィードバック! フィードバック! フィードバック!

2007-06-02 18:03:40 | 「緑香庵」的なもの
今回、ちょっと長いです。

私は自転車通勤をしています。
自転車に乗って季節の変化を感じるのは、
夜の帰り道の方が多かったりします。

暗くて視界があてにならないからでしょうか、
感覚がより鋭敏になる気がします。
まず、音が違う。
ある日を境に突然に虫が鳴き出しましたが、
この音を聞いて初めて、
「そういえば冬の間、夜は随分しーんとしていたなあ」
と気づきました。

冬は窓をぴったり閉め、カーテンも厚いので
生活音も漏れて来ませんが、
この季節はいろんな音が聞こえますね。

それから香り。
ちょっと以前ですが、近所の夏みかんの花が
あっという間に最盛期を終えました。
ネロリに似た濃厚でメロメロになりそうな甘い香り。
夏みかんの花は昨シーズンの実と同居するんですね。
枝の高いところにはまだ黄色い実が残っていました。
夜になるとより香りが強まる気がします。
本当に強く香ったのはほんの2~3日。

こんな変化を楽しみながら自転車をこいでいると、
自分自身も随分緊張が弛んでいることに気づきます。
いろんな感覚が開いている感じです。

冬はやっぱり相当、身体も意識も硬くしていたんですねえ。

バイオフィードバックという技術をご存知でしょうか。
例えば血圧。
本来は自分の血圧というのは自分では感知できません。
感知できないものは意識で制御できず、すなわち
自律神経の管轄です。
しかし、例えば血圧がある数値を超えたらブザーで知らせる
というような、生理現象を科学的に検知する装置を装着すると、
自分の血圧の状態を自分で認識できるようになり、
訓練によって自分の血圧が高くない状態というのを
意識的に作り出すことができるようになる、という技法です。

注目したいのは、感知できない(意識にのぼらない)
ことは制御できない(意識でコントロールできない)ということ。
反対に感知できるようにすれば、
たとえ血圧そのものをコントロールできなくても、
血圧の低い(高い)体の状態というものを
意識の力で再現できるということ。

五感と一口に言いますが、人は
「今、視覚を使おう、聴覚を使おう、
ちょっとだけ触覚も使っちゃおう」
などと区別している訳ではありません。
一斉に押し寄せる情報丸ごとを、
同時にあらゆる感覚器を通して受け取り、
瞬時に判別して、処理するということを絶えず続けているワケです。

目を開けていれば主に視覚を使っているようですが、
実は他の感覚器もフルに動いているといってよいでしょう。
ただし、それを全部感知していては
情報量が多すぎて処理しきれないでしょうから、
感知の主役という部分はでてくるでしょうが、
たとえ主役の感覚器が遮断されても、その他の部分が
一斉にパワーを上げて生命を維持できるよう頑張る訳です。

たびたびこのブログでも申し上げてきた、
感覚を磨く、よく感じるということは、
普段、意識の下に潜っている主役以外の感覚を
一度意識の上に持って来てみましょう、ということと
同じ意味になります。

つまり、フィードバックの回路を増やしましょうということ。
そのことにより、硬直した主役の感覚をやすめ、
意識下に溜まったゴミを整理し、
さらにより豊かな感覚を育てようというものです。

 ◆  ◆  ◆

ここまでは前振り。結構硬かったですね。
今日の気になることはヘッドフォンなんです。

Natsumikan
《なつみかん》

ウォークマンとかiPodとかね。携帯もか。
といっても、モラルやマナーがテーマじゃありません。
あくまでも緑香庵的に考察してみました。

ヘッドフォンを着けて街を歩いている人は
だいぶ前からたくさんいましたが、
最近特に増えているように思うのです、傍若無人な感じの人が。

どうでしょう。
メールしながら、携帯で話しながら自転車に
乗っている人もいます。
何だかすごく変に感じる今日この頃です。
ある感覚を(例えば聴覚を)完全にひとつのものに
あてがってしまって、街をびゅんびゅん歩いている。

いわば、この現実界においてある感覚を一つ
完全に遮断している状態と同じです。
これって怖くないですか?

そのせいか、そういう人の振る舞いはどこか変です。
周りの空気とマッチしていません。
いわゆる気配というものをぜんぜんキャッチ
していないからです。
聴覚を遮断しているだけじゃなく、
それ以外の感覚もすごく鈍くなっている。
誰かに迷惑をかけていなくても何だか違和感があります。

多分本人は目も見えているし、行動に支障が出ていないので
気づいていないでしょう。
でも、変です。振り向き方とか、
ちょっとした動き、反応が。
これは動物として、もしかしたら凄く退化しようと
しているのじゃないでしょうか。

 ◆  ◆  ◆

ちょっと話は飛びます。
お酒をのんで酔った時を考えてください。
アルコールで少しだけ神経が麻痺します。
理性のたがが外れてリラックして気が大きくなり楽しくなります。
ここまでは良しとしましょう。
それからが問題。さらに飲み続けるとどうなるか。
記憶がなくなったりしますね。
つまり理性はどんどん麻痺の方向へ行くのです。

しかし、ちゃんと家には帰らなきゃならない。
人に迷惑かけないようにしなくちゃならない。
さらには、ちゃんと死なないように心臓を動かさなきゃいけない。
意識の下で脳はさらに回転スピードを増し、
緊張が高まっていることを知っていますか。

つまりお酒を飲んでリラックスしたはずが、
実は普段よりもっと脳は頑張っている
のです。
そしてこれを繰り返すことにより、
脳はより簡単に緊張するようになりイライラしやすくなります。
その緊張を解きたくてまたすぐお酒が欲しくなり、
この悪循環が依存症への道。


 ◆  ◆  ◆

これと似たようなことがヘッドフォンにもないでしょうか。

聴覚を現実界とは全く別の物にゆだねたまま、
次から次へと刺激がやってくる街中を移動するということ。
それは、聴覚以外の他の感覚器に膨大な負荷がかかり、
脳に極度の緊張を強いるということにならないか。

確かに不快な満員電車の時間をせめてお気に入りの音楽で
やり過ごすというのは悪くないのですが、
でも、そのことがますます、ヘッドフォンなしではいられない
という状況を助長しているかもしれません。
しかも、まだそれでも普通にやっていられるうちはいいけれど、
最近の変な振る舞いの人たちを見ていると、
完全に他の感覚器官じゃカバーしきれていないのを感じます。
これは生き物として完全にヤバくないですか?
せめて、感覚器官まるごとひとつ何かに預けるなら、
自分が安全だと心から思える場所で楽しんで欲しいです。
それでないと逆効果ではないかと思うのです。

感知する能力をあえて放棄するというのは、
生物にとってとてつもなく大きなリスクを伴うことです。
感知できないことは制御できません。
体中のあらゆる感覚をはたらかせ、気配を感じ、
それに対応して自分が変化するという
あたりまえのことをあたりまえにしていかないと、
生きていくのがますます大変になるのではないでしょうか。

くそ面白くもない現実でも、
味わって何ぼのもんじゃいと開き直っていかないといけないなあ、
と感じる今日この頃です。

長文失礼。