言葉の泉

一粒の種から言の葉が茂ることを願って。

顔の毛布

2017年09月14日 | 日記その1


 我が家は新聞や雑誌などをまたいだり、ぞんざいに扱うと厳しく叱られて育った。

 父は威張ったり、家長風をふかせることもなく、亭主関白でもなかったけれど、母が勝手に父親を敬って特別扱いをしていた。
 新聞は父が始めに読まない限り誰も読むことはなかった。
 そういう家訓があったわけでもなく、自然とそうなった。
 お風呂も父親が一番風呂だった。
 もっとも、出張やそのた家にいないときは自由だったけれど。

  一時父親が活字媒体すべてを取り扱い、読んだり、書いたりする仕事をしていたので、家の中には新聞全紙、雑誌、本類が山のようにあった。
 勿論子供雑誌もあったので学校へ行かないで家でずっと本を読んでいたいと夢見た。

 家庭人ではなかった父は仕事が生きがいのような人だった。

 家庭をかえりみず、妻の献身に感謝することもなく、仕事に没頭した。
 華々しくアメリカで業績を残し、凱旋した。
 そんな父の本が古本屋で売られているのを見ると、ひとりの人間が家庭も人生の半分をも捧げた作品が没していくのをみるのはさみしい。

 作家の先生のブログなどをみると、資料を読み研究するのに2年、それから草稿を練って書くのに1年などとある。

 渾身の作品を読者はあっけなく読むのであるから著述業はむなしくもあり、やりがいがあるともいえよう。

 私は今でも雑誌や新聞、書籍をまたいだり、投げたり、ぞんざいにあつかうことはできない。

 と言っても、本をアイマスクがわりにしているふとどきな面もある。

 いつだったか炬燵で居眠りをしていたら、遠くでぼんやり父の声がして何か言っているようだった。
 「ろこはまつげが長いね」と言っている。
 居眠りしている私の寝顔をしみじみみているようだった。

 それ以来、昼寝するとき、仮眠をするときは本をかぶって寝るようになった。
 本はときどき私の顔の毛布になる。

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