言葉の泉

一粒の種から言の葉が茂ることを願って。

初恋が来た道

2016年09月19日 | 新・随想

『つゆのあとさき』 永井荷風
つゆのあとさき (岩波文庫 緑 41-4)
永井 荷風
岩波書店

 思い出深い本だ。
 高校の時読んだ。
 それは私が敬愛する家庭教師の先生がお茶の時間に荷風について話したからだった。

 勉強の合間においしいケーキや果物を母が部屋に運んでくれる。
 それを合図に先生と私はティー・タイムをとる。
 お茶を飲みながら先生がステレオラックからその日の気分にあわせてレコードを選び、聴きながら文学や音楽の話をする。
 東大生の先生と女子高生の私。

 それは夢のようなときめく時間だった。

 先生は東大の理系に学ぶ徒であったけれど、文学をこよなく愛する人だった。
 外交官のご子息だった先生は国際的マナーが幼少の頃から身に備わっている人だった。
 先生は永井荷風が好きだと言った。
 意外だった。
 私たちは随分長い間荷風について語り合ったものだ。
 先生の文学論に対等に語り合うほど読解力も感性も及ばない私は随分歯噛みをした。
 少しばかり感想を述べるとその端から突っ込んだ議論が沸き上がって読み込みが足りない私は立ち往生する。次回また読んでその話をしようとするともう次の本の話題になる。

 卒論の為に新潟に地質のボーリング調査にでかけた先生は新潟から東京の我が家にまで電話してきて、そこからまた私と本の議論をするというとんでもなくお金のかかることまでした。

 あれから荷風はずっと読まないでおいてあった。
 先日「60億の肖像」と題する写真展を見に行った。
 そこで作家や画家たちの肖像があり、そこに永井荷風のそれもあった。
 
 ぼろぼろのへりもなにも朽ちたような畳の部屋で荷風が前歯の欠けた顔をほころばせて座っているポートレートが目をひいた。
 ぼろぼろのくたびれた服を着て、写真を撮るというのにズボンの前のボタンがはずれたままになっている。
 しかし、そのひとなっつこそうな笑顔は少年のようだった。

 そう。あの写真展に行って以来、永井荷風は私の心に蘇ってきた。
 誰にでもきっと思い出と繋がる文学、音楽、作家、作品があることだろう。
 私の先生との思い出はポーの詩、漱石、荷風。
 そして音楽。

 私の初恋だった。
 恋と呼ぶにはあまりにも淡い恋だった。

 あのしなやかな感性の高校生の時、物の見方、真髄にふれるアプローチを教えてくれた先生に深い感謝の気持ちを今なをいだく私だ。
 いつどこで先生にひょっこり出会ってもあの時より素敵な人間になっていたい。
 今もそう思っている。
 実家に帰るとき、新宿から京王バスに乗る。
 乗る前に必ずコンパクトを出して自分の顔をみる。
 先生にあうかもしれないと、今でも胸がときめくのだ。
 
 また荷風を読んでみようか。

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4 コメント

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驚きました (michi)
2016-09-19 06:08:59
私も同じような思い出が・・・書きたいけど書けないでいた想い出です
東大生ではなく(笑)同じ高校の一年先輩でとても頭のいい人で家庭教師をしてくれていました
ケーキとコーヒーでは無く
母の手作りの夕食。
当時精神的に不安定な私を優しく見守ってくれていました
妹と兄を表に出していたので妹だと自分に納得させていました。
結婚後「わたしのこと、女性として見ていた」と彼の友人から聞きました。ショックでした
夜中の12時に道路に面した勉強部屋の外に下駄の音が止まります
「K君?」の問いかけに
「うん。頑張ってるね~」と。
出て行くと「冷たいアイスコーヒーをコップに入れて持って来てくれていました。ただ・・・それだけ(笑)
恋を恋とも知らない時の思い出・・・・アイスコーヒーの味だけは鮮明に覚えています。
同じ町に住み電話番号も分かるけど・・・・
今も私の事、彼の心にはあるのでしょうか?ね(*^。^*)
思わず・・・・私の思い出を書いてしまいました。
ごめんなさい。
こんばんは (小父さん)
2016-09-19 17:03:21
素敵な思い出ですね。

私にも淡い恋心はいくつかありましたけど
いつも「さわり」だけしか、かつ訪問先でしか書いていませんね(笑)

だけど、そんな女性に会ってみたいなとはよく思う今日この頃です(汗)

本は疑似体験できるからいいですよね。
明治41年生まれのお袋はそんな小説は押し入れで隠れてしか読めなかったとかなんとか言ってうた気がします。

そうだ、確かお袋は18歳で父と一緒になったはずです!
michiさんへ(初恋) (ろこ)
2016-09-19 18:20:55
michiさんへ
 素敵な思い出ですね。
 大切に胸の中にしまっておいてください。
 人生の中で、初恋は淡くはかない記憶の中の宝物。
小父さんへ(早熟) (ろこ)
2016-09-19 18:25:27
小父さんへ
 小説はあくまでも虚構の世界ですが、初恋は人生で初めての恋ですから、趣はちがいますよね。
 お母様は早熟だったのですね。といっても昔の人は早婚でしたから18歳で結婚は早くないのかも。

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