言葉の泉

一粒の種から言の葉が茂ることを願って。

現代人の心の不安

2017年11月07日 | 新・随想


占いやスピリチュアルな世界が大人気だ。
それだけ人の心が不安定で、理屈や論理では測れない不可思議なものにすがり、依存したいのだろう。
自己流にあるいは、聞きかじったもので自分を内観したり、それを他者に伝えようとする人を見かける。
すっかり教祖様のようになって、「~を手放して」と言うのを見聞きすると、オウム真理教の事件を思い出す。
カルト集団の教祖のような人が身近にいる。
似たような友人たちに祀り上げられ、すっかり女王様か教祖様になって、自己陶酔する姿は異様だ。

 インターネットの普及やロボット、ITの時代になり、人の手を借りずに物事が動いていく。
 戦争も、ドローンや、ロボットが爆弾を仕掛け、遠くの国で他国が破壊される様子を、パソコンから大勢が眺める時代になった。
 イラクでの戦争を衛星中継で全世界がつぶさにみるという異常な現状である。

 現場で人が人を殺すのでなく、ロボットが殺戮するので、人が死ぬのに痛みを感じない。
 そんな人で地球がいっぱい。
 わが国でも戦争ごっこをしたい防衛大臣や総理大臣をトップにいただいている。
 
 過疎の地をいかに活性化し、人口流失を防ぐのは政治の腕の見せ所である。
 しかし、過疎の地をよいことに、札束で地域住民の頬をはたいて、原発を作る。
 過疎の地に原発従事者が増え、じいちゃん、ばあちゃんだけの村に「原子力ムラの力」で活気が生まれ、プールができ、道路は整備される。
 原発様のおかげだと地域住民は喜ぶ。
 そして原発事故が起き、先祖伝来の地には永久に戻れないほどの放射能が野山や川や海を汚染し続けるのだ。

 原発事故の責任はいまだに誰もとっていない。
 時の政権も、電力会社も、誰も責任はとらないまま。国に保護され、幹部の給料は庶民とはかけ離れた額をもらっている。
 黒字経営となり、原発廃炉にむける費用は国の税金で支払われるのである。

 殺伐とした現代。占いやスピリチュアルな世界に依存する人は増え続ける。
 「癒し」をすぐ求める人でいっぱいだ。
 自分の脳みそをつかい、心の奥底を自ら覗いて、悩み、苦しみ、そこから何かをつかむ。
 そんなまだるっこしく、苦しいことはしたくない、早く誰か私を「癒して」と依存する。

 自己治癒力や、克己心は薄まり、他者に依存し、手っ取り早い「癒し」を求める。
 それは違法な薬だったり、ほかの物だったりする。
ツイッターやSNSで交流する人を友達と思うが、心の底を打ち明ける友ではない。
 苦しい胸の内を打ち明ける人もなく、「死にたい」と短絡し、「一緒に死ぬ人募集」する。
 9人もの人を殺した犯人の言葉に驚いた。
 「本当に死にたいと思っていた人はいなかった」と。
 それを知っていて殺したのだ。
 しかも、どこの誰かも知らず、年齢も知らない人9人。
 殺された人も、どこの誰かもよく知らない人に殺されたのだ。
 死にたいというのは、「苦しい」「悲しい」「孤独」な気持ちを言い換えただけの人が多い。
 ある自殺したいというグループに潜入した人の話だが、
 死にたい理由をお互いに話し合っているうち、そんな理由なら死ななくてもいいのではないかと説得に回る人が現れたという。
 心の内をおもいっき吐き出しているうち、死ぬ理由がないことに気付く人が多いという。

 弱い自分をさらけ出し、胸の内を聴いてもらう人がいない。
 これだけ指の運動ばかり、スマホつながりが多いというのに。
 
 相手の目を見てじっくり話す機会を小さな金属の機械にゆだねた弊害だろうか。
 血肉が通った人としての相手。
 体温を感じあえる、眼を見て話す能力が欠けているのだろう。
 だから怪しそうなどこの誰かも知らない男に簡単に騙され、大切な自分の命をゆだねてしまった。
 コミニケーション能力が足りない。
 文字でなく、相手の目を見て、心を通い合わせることの大切さを思う。
 占いやスピリチュアルなものに頼るのでなく、人間本来持っている自己解決能力を磨くことが大切だ。
 
 前世や過去世が何であっても、今が大切なのだ。
 前世を占ってそれを絵にしたり、そこから未来を描いてもらっても何も生まれない。
 そんなものを何枚も描いてもらって高いお金を払う愚を思う。
 
 しかし、現実問題として、だれにも相談できない状況を憂うばかりだ。
 相談できる機関の充実を望みたい。
 そして何よりも必要なのは、家族で友達同士で、学校で目を見て話す機会を増やしてほしいと思う。
 コミニケーションは言葉による心の交流だ。
 小さなスマホの中の社会でなく、眼を見て話す人間同士の交流が今こそ必要なのではないだろうか。
 
 

 
 
 
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6 コメント

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コミニケーション (cocoa)
2017-11-07 16:46:21
現代人は、コミニケーションが取れなくなったような気がします。
不寛容がはびこっているからでしょう。
私は、現代が「経済性」「効率」等を重要視することと、見えすぎる情報過多の世の中が災いしている様な気がします。
何事にも皆が評論家のように考えを述べる。
何かに意見を述べるのは良いことですが・・・
例えばテレビでスポーツ観戦、選手のミスや力不足に「何やってんだ!」などとなじる、私は「あなたはあの選手より優れているの?」と思います。
「どの選手もすごいなあ!」と感心していれば平和ですが、それはテレビの画面だけでなく、現実の目の前にいる人や自分自身にも向けられます。
強く美しく有能でなければならない、と言う気持ち。
誰もがすごい能力を持っている訳でもなく、テレビで見るほどの美男美女でもない。
それが当たり前なのに、自分や身近な人に不満を持つ。
自分を責めるのは辛いので、他人を責める。
自分が中途半端に頑張っているとなおさら、同じ程度に「義務」を果たさない人を許せない。
自分も他人も許さなくては息が詰まってしまいます。
現実を良くできるのは、それからだと思います。
cocoaさんへ(不寛容の時代) (ろこ)
2017-11-07 17:54:08
cocoaさんへ
 こんにちは。
 いじめの問題も根源はそこかもしれません。
 優れていればいるで、排除しようとする。逆に劣っているものは徹底的に馬鹿にされ、いじめを受ける。
 弱いものの居場所がない社会。
 未熟な「若さ」を尊びもてはやす。
 家族間のコミニケーションも薄く、友達同士もスマホの短文の世界。
 限られた文字数のツイッターでは十分なコミニケーションなどはかれるわけがない。
 その短文の世界の中でいじめが増殖する。
 社会に出れば、格差が広がり、貧しいものはどこまで行っても貧しいばかり。
 そこで助けあう心が生まれればよいけれど、憎しみが増幅。
 老いたもの、貧しいもの、弱いものは社会の片隅に追いやられ、強者の論理が世の中を制覇する。 
 資本主義の行き着くところまできた感じがします。
 「経済性」「利便性」「富める者」が強者で覇者の世界のひずみが現代の姿。
 助け合う互助の精神がなくなってきたように思います。
 
 
ブログでも (雀(から) )
2017-11-07 19:12:31
似たような いじめ 嫌がらせを 感じて またかい?と思うことがあります😨
プライバシーを 細かく詮索して 気に入らない人は 無視したり 陰口を 言いふらしたり…何様なのかなあ😅と思うこともありますけど、分け隔てないリベラルな方も たくさん居て、自分も見倣わなくてはと思う方もあり、手遅れながら社会勉強させて頂いて居ます🙏…其でも、ネットの繋がりよりも フェイス トゥーフェイス 付き合いが お互いに すれ違いや 思い違い 誤解がなく ベストかなと思うこの頃です😌
自分の心を引き締めたい (からく)
2017-11-07 22:14:16
こんばんは。

ここのところ、過去の自分のブログとみなさまからいただいたコメントを見返していました。
だんだんだんだんと、無遠慮にも人の心に入り込もうとする自分が見えました。
「自己流にあるいは、聞きかじったもので自分を内観したり、それを他者に伝えようとする人を見かける」
痛い言葉です。
でも、そのとおりだと思いました。
顔の見えないブログだからこそ、お互い一定の距離を取る。必要なことだと思いました。

「眼を見て話す人間同士の交流が今こそ必要なのではないだろうか」
私も再度その必要性を考えてみようかと思っています。


ああ、それから少し前にイバンカ基金について「国税でなく、外貨準備金」とコメントで訂正しておられましたが、調べて見ましたら、外貨準備金の原資は、回りまわって税金からということが分かりました。
実際一般会計から14億、4年かけて返済(?)する予定だという記事も見ました。余計なことかもしれませんが、訂正する必要はないかと思います。
雀(から) さんへ(偏狭な心) (ろこ)
2017-11-07 23:19:49
雀(から) さんへ
 ブログでも現実社会でも、どこでも偏狭な人によっていじめはありますね。
 「村八分」などという言葉があるように、地域でも、そして世界的には難民への対応など、つまはじきにする。
 みんな自分自身の中の少しの偏狭さを省みて、自分がされて嫌なことはしないという単純なことに気付くことでしょうね。
 私自身反省すべきことは多々あります。
からくさんへ(心の持ちよう) (ろこ)
2017-11-07 23:51:21
からくさんへ
 こんばんは。
 実社会でもブログでも、人との交流を穏やかにするのは難しいですね。
 顔が見えないブログは特に難しいように思います。
 文章だけのやり取りは誤解が生じやすいですからね。
 その一方、言葉で表せない部分、行間ににじむものにも注目したいです。
 そこに、思わぬその人の真(まこと)の情を見ることがあるからです。
 読解力のようなもの、人の心を汲む心が問われるのだと思います。
 それは性善説に裏打ちされた、善意なる心です。
 悪意を持って読んだり、相対すると、どんな言葉も、悪く取れてしまうからです。
 顔が見えない言葉の世界はこれからも、広がっていきそうです。
 だからこそ、己の人間性を磨いて、より善き言葉の世界を紡いでいくことなのだと思っています。

 そういう私自身も、自分のブログを読み返すと、身が縮みます。恥じ多き私がそこにはいるからです。

 イヴァンカ基金のこと。ありがとうございました。
 何かを発する前に、よくよく調べてから発信するべきだと反省しました。
 ありがとうございました。
 心を割ったコメント欄での交流は貴いですね。
 素敵なコメントをありがとうございました。
 
 

 

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