言葉の泉

一粒の種から言の葉が茂ることを願って。

めぐり逢い

2017年07月08日 | 新・随想

 義父は嫁に優しく、義母は嫁に厳しい。
 そんな構図が頭に浮かぶ。
 わが家もそうだった。
 夫は5人兄弟の三男。
 長男次男、と続いて三男の夫がまさか夫の両親と暮らすなど夢にも思わず結婚した。
 新婚一年にも満たない頃、隣の敷地に家を建てて夫の両親が引っ越してきた。
 
 結婚前、義父は東京に出張するたびに、大学生だった夫とそのガールフレンドだった私にご馳走してくれた。
 「おじさま」と甘えて、あちこちに連れて行ってもらって、ご馳走になり奇妙な三人のデートが続いた。
 義父は私の性格を気に入ってくれ、国内や外国での出張先から絵葉書を送ってくれ、可愛がってくれた。

 世間知らずで向こう見ずな嫁に厳しかったのは義母。
 向こう見ずでわがままだと思った嫁が、慣れない土地で、塾を始め、地域の人達になじんで頑張って行くのを応援してくれたのは義父だった。
 初めて翻訳童話を出版した時、一番喜んでくれたのも義父だった。
 「忙しい中、一生懸命勉強してよくここまでやったね、おめでとう」と祝ってくれた。
 自分から進んで手をかすことはなかったけれど、人知れず頑張っている私を見守って陰でそっと応援してくれたのは義父だった。

 塾は大繁盛し、子どもたちの自転車が自転車置き場に入りきらず、道路に長い列を作って並んでいた。
 それを整理してくれたのは義父だった。
 風の強い日、父兄の一人が、「お宅のお父さんが風で倒れている自転車を並べているよ」と教えてくれて、初めて義父の手助けを知った。

 日本中の橋を設計し都市計画をし、戦争中は飛行機の格納庫を設計してきた頭脳明晰な人だった。

 その義父が認知症になったときは、ショックだった。
 それも暴力を伴う認知症という困った症状だった。
 誰もいないとき、義母を激しくたたいたり、雨戸を夜中に叩いて壊す騒ぎを起こした。
 でも不思議なことに、私には暴力をいっぺんも振るわなかった。
 最後は寝たきりになり、誰のこともわからなくなった。
 義父の耳元で「お父さん、今までよくして下ってありがとうございました。おかげで幸せです」
 というと義父の眼から涙があふれた。
 夫が「父さん、帰るからね。また来るよ」
 というと、夫の手をぎゅっと握ってまた涙をこぼした。
 認知症で誰のこともわからないはずなのに、まるで何もかも知っているようだった。

 嫁姑の確執があったけれど、認知症になった二人を介護し見送った日々を思い返すことがある。
 きれいごとで済むようなことはなかった日々だった。
 長いようで短い人生の終末期。
 
 他人であった人たちが、家族になり、その終焉まで付き合った日々は意義深い。
 人として生まれ、どれだけの人達と巡り合うのだろうか。
 その中でも、自分の心の中に相手の心の中に思い出として残るのはそう多くはない。
 人は死してなお、愛する者の心の中に生き続けるのである。
 なんと素晴らしいことだろう。
 死はけっして死で終わっていない。
 それは命の復活でもある。

 

 

 
 
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2 コメント

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わずか 10年足らずでしたが (雀(から) )
2017-07-08 06:12:49
それまで ずっと 私を育ててくれた 祖母を介護し見送った年月が人生で一番充実した時間でした…すぐ認知症で一括りにするけど心までは死んでは居ませんから! むしろあの時期 右往左往して 心まで 死んでしまいそうになったのは 私自身でした。介護していたのではなく介護を教育されてたのだと気づいたのは祖母が旅立ってからでした👼
雀(から)さんへ(介護) (ろこ)
2017-07-08 09:21:29
雀(から)さんへ
 おはようございます。
 雀(から)さんも、悲しくつらい日々をお過ごしだったのですね。
 育ててくださったおばあ様を介護なさった年月は、いろいろな意味で雀(から)さんを育んできた年月だったのかもしれませんね。
 心のひだを深くやさしいものに耕した年月だと思いたいです。

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