
生涯熟読玩味しても読みきれない書物
菜の花の苦味や、せりの香り、蕗のほろ苦さがおいしいと思うようになったのはいつのことだったのだろう。人生のにがみだけは知りたくないものだが・・・。
夫婦という最も身近な他人と生活するということは考えてみれば冒険だ。
環境も育ちも違う赤の他人が恋をして結ばれる。相手を良く知るにはとてつもない時間がかかるものだ。それなのに赤い糸伝説の元、他人同士が日々生活するのであるから、面白いといえばこれほど面白いことはない。新生活をスタートして新発見のことが多い。良くも悪くも毎日が発見だ。そして何年も経つと空気のような存在となるのだから不思議なえにしとしか言いようがない。
無口な夫と陽気な妻。我々夫婦はそんな感じだった。それがいつのまにか同化してきた。
結婚前、どこへ行っても似ているといわれ、兄弟かと聞かれることが多かった。
私は当然のことながら怒り心頭!「似ても似つかない!」と怒ったものだ。
それが去年ベトナムとカンボジアの旅をしていて、カンボジアのアンコールワットの夕日を見ていたとき、カンボジアの女の子に「あなたたち兄弟?」と聞かれてびっくり仰天した。私は二重まぶたのソース顔。夫は一重まぶたの醤油顔。どこが似ているのか信じがたいことだ。
詩人の四元 康祐はその詩集『妻の右舷』(集英社 )の中にある「妻を読む」でこう書いている。
妻は言葉では書かれていないので
長編小説を朝までかかって
読みあげるようには
ゆかない
(省略)
字面ではなく文体を捉えたい
妻からも自分からも遠くはなれた静かな場所で/
大気に雪の気配を嗅ぐ小枝のように
妻を読みたい
と(一生一緒に生きてゆくだけでは満足できずに)、(表情でも仕草でもなく)妻そのひとを読みたいと詠いあげる著者。
夫と私は年月を経て同化した部分はあるが、やはりまだ未知なる人なのである。私もこの詩人のひそみにならうならば、「夫そのひとを読みたい」と思う。
生涯かけて熟読玩味しても読みきれない書物。それは人の心という本だろうか。
愛を越えた愛があるならばそれは相手を知り得ない哀しみにも通じるのかもしれない。
言い換えるなら、朝晩顔を突き合わせていても存在丸ごと、魂の深部まで知りえないことへの憂いにも似たものである。










いい詩です、しみじみします。
一緒に暮らしていると、時々いじわるな気分になったりもして、「本当は一番好きな人だったのに!」と悲しくなります。
ろこさんのブログを読み、やわらかな、やさしい心になりました。
可愛いしまちゃんの側面を理解しているのはやはり相方さんです。
私なんか十二分にいじわるだもんね!
毎日楽しみに読ませていただいてます。
今回の「夫と私は〜」からに大いに同感致しました。「ただ愛を超えた愛があるならば」が
いまいち掴めません。朝晩顔を付き合わせている関係の愛のことでしょうか?
読解力は悪く申し訳ありません。よろしくお願いいたします。
「愛を越えた愛」というのはわかりにくい表現だったと思います。すみません。
愛と言っても広く、夫婦の愛や恋人同士の愛、親子の愛、エロスとしての性愛、人間全般への愛などがあります。
この場合は一人の男と女の愛と考えます。「愛する」ということはどういうことでしょう?
妻が夫を愛するといっても、この詩のように、自分の想いのすべてを伝えることはかなわないです。また相手の魂の深い部分にふれることはどんなに愛していてもできません。
言葉では表せない、態度でも表せない、一生かけても伝えきれない魂からの愛。そんなもの。
そんなものがきっとある。それは相手にもある。しかし、お互いにその見えない魂の深部にふれることすらできない。つたえきれないもどかしさ。そんなもの。
本当に夫婦というものは摩訶不思議な関係だなと最近つくづく考えていましたので、ろこさんのコメントに救われました。夫と居る時に感ずる孤独、それを見事に文章に表わすことができる力を羨ましく思っています。
どうぞこの力を大切に養い育てて、ますます私達に生きる力を与えてくださいね。
嬉しい言葉の数々、ありがとうございました。あまり思慮を深めることもなく書き綴っておりますが、あなたからの励ましと受け取って綴ってまいりたいと思います。ありがとうございました。