親愛なるR、お元気ですか。
私はあなたと過ごした英国カンタベリーでの日々を思いだしています。
大學のキャンパス内を流れる小川のほとりで午後のお茶を独りのんびりと楽しんでいると、一人の紳士が傍(かたわ)らにきて、
「隣に座ってもいいですか?」と尋ねました。
「どうぞ」と言うとスコーンとココアビスケットを勧めながら座ったのがあなたでした。
それがはじめての出会いでしたね。
音楽の話や文学の話をかわしながら楽しいお茶の時間が過ぎていきました。それから日々、色々な場所でばったりと出会う機会が多くなって会話を深めるまでになった二人でしたね。
![]() | 日の名残り (ハヤカワepi文庫) |
| カズオ イシグロ | |
| 早川書房 |
そんなある日、日本人でもある作家カズオ・イシグロの話題がでて小説『日の名残』についての感想を聞かせてくれと、あなたから乞われました。私は英国人より英国的な香りがするというと、では次回、彼が最初に書いた小説を持ってくるよ、といったのを昨日のことのように覚えています。
カズオ・イシグロは英国の文学賞である「ブッカー賞」をとって華麗なデビューをした作家です。日本でいうなら直木賞のようなもの、いえ、それ以上に権威があるものかもしれません。当時まだ、日本国籍だった彼が英国の権威ある文学賞を取ったのですから、たいしたものです。
そのカズオ・イシグロはこのカンタベリーの大學にかつては在籍していたとあなたは教えてくれましたね。
三月のある日、あなたは、レストランで食事をご馳走したいと招待してくれました。
カンタベリーから車を走らせて イングランド南部の海岸線をドーバーからブライトン方面へひた走る途中にライ(Rye)という小さな街があります。そこが目的地でした。

ライは中世の面影が残り、石畳が続く英国で最も美しい街の一つです。そのライの町で有名な「マーメイド・イン」へ私はあなたにエスコートされ入っていきました。
「マーメイド・イン」は1156年創業。1420年、旅籠(はたご)として再建。ライの街は海辺から2マイルのところにありました。数百年前まで、そこはホークハースト・ギャングという海賊たちの溜まり場になっていたとか。今はキャンドルのともる素敵なレストランです。

「ドーバー舌平目」に舌つづみを打ち、素敵な時が過ぎていきました。あなたはワイングラスをかかげて、
「お誕生日おめでとう」と言いました。すっかり忘れていたけれどその日は私の誕生日でした。
あなたはレストランの歴史などを語り、マーティン・ピピンのお話の中に出てくる人魚がどうとかこうとか、一生懸命に話してくれました。でも私はさっぱり意味がわかりませんでした。英語力の問題ばかりでなく、物語を知らなかったのです。
ひとしきりしゃべったあなたは、こころなしか寂しげな様子になっていましたね。
![]() | ヒナギク野のマーティン・ピピン (ファージョン作品集 5) |
| エリナー・ファージョン | |
| 岩波書店 |
後でわかったことですが、その物語は英国人なら誰もが親しんできたエリナー・ファージョン作『ヒナギク野のマーティン・ピピン』だったのです。その中に出てくる「マーメイド・イン」の人魚はこのレストランにちなんだお話でした。
童話に出てくる有名なレストランで誕生祝をして喜ばそうと思った意図は、はからずも失敗してしまったわけです。
英国人なら童話の話で盛り上がるところだったのに、わからない相手では興ざめだったことでしょう。
文化の礎(いしづえ)となっている童話や童謡は、その国の人たちの血となり肉となっていることを、あの日の失敗で私はしみじみ身に染みました。
あなたが英文学の名物教授だったと知ったのはずいぶん後のことでした。
あなたから見たら、私は、映画「マイ・フェアレディ」の原作にもなった、ジョージ・バーナード・ショーによる戯曲『ピグマリオン』の主人公イライザのような存在だったのかもしれません。

あなたはレストランでもカフェでもわからない言葉は辞書をひくように言いました。
「こんなところで辞書をひくのは恥ずかしいから意味を教えてください」
と頼んでも、あなたは決して私を甘やかすことはありませんでした。おかげでずいぶんいろいろな表現を覚えることができました。私はいつのまにかあなたに似た古風な英語をしゃべるようになっていました。
あなたのお宅に伺った時、あなたは銀の食器で食事をたのしんでいらっしゃいました。誰も見ていない独り身の食事でも、銀の食器でゆったりと優雅なひと時を過ごす姿がとても素敵でした。
ところで、「ブッカー賞」にあたるのは日本では「直木賞」です。その直木賞を受賞したのは向田邦子という作家です。
女流作家、澤地久枝と向田邦子の対談でこんな逸話があります。
二人とも独り身。うちへ帰ったら一人暮らしなのだけれども、ちゃんとテーブルに箸置きを置いて、ご飯を食べている。ひとりなのだから楽をしようと思ったら、箸置きも何もいらない。でもそのルールを破ったらどこまでもルーズになっちゃう。だから自分自身の支えとして必ず箸置きを置いている。
これを読んで私は感動し、同時にあなたの食事風景を思い出しました。日本の女流作家も、あなたも、自らを厳しく律して独り身でも必ず箸置きを置き、銀の食器で食事をする。
あなたが私に日本人だからと言って甘やかすことなく、どこでも厳しく辞書をひかせたのは、言葉を大切にする姿勢を教えたかったのだと今になって知ることができました。
日常こそが大切で、美しい佇(たたず)まいでいることが、内面の美につながるのだとも教えられました。
あなたの教えと存在はわたしを支える箸置きであり、銀の食器です。
英国でのあなたとの日々は「日の名残」となって、いつまでも私の心をともしてくれています。
いつまでもお元気でいてください。
あなたのイライザ「ろこ」より。











