民家雑文

この国の民家と風土に魅せられて各地を訪ねました。

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沖縄の赤瓦(アカガーラ)

2011年05月30日 | 民家探訪
    

仕事で沖縄へ行く機会があった。さっそく時間を見つけて沖縄の赤瓦(アカガーラ)の探訪を始めた。

          

赤壺屋焼物博物館によると、昔は灰色系の瓦が主流だったようで城(グスク)や貴族の家で使用されていたようである。18世紀ごろから赤瓦が使われるようになる。明治になり庶民にも赤瓦が使えるようになったが、高価なため一般的に使われるようになったのはかなり後のことだ。本部町で出会ったお婆さんによると戦後になってから瓦が多く使われるようになったと話されていた。

    

沖縄の赤瓦は、丸瓦のウーガーラ(雄瓦)と平瓦のミーガーラ(雌瓦)からなる。ミーガーラは二枚重ねている。

瓦の継ぎ目や棟筋を漆喰で固定している。赤瓦は低温で焼かれており、吸水性が高い。したがって、雨の際は重くなり風に飛ばされにくい。また吸った水分が蒸発する際の気化熱により涼しくなるなどの利点がある。ちなみに昔の灰色系の瓦は、還元焼成で焼いた瓦で高温で焼成し、しっかり焼きしまって吸水率が低い。赤瓦は酸化焼成で焼かれていて赤色になり素焼きなので吸水性が高くなる。そして、灰色系の瓦に比べて、工程が容易なのでコストがかからない。赤瓦が普及した原因かもしれない。

          
             ※漆喰で固められた棟筋

          
             ※漆喰で固められた軒端   
          
             ※軒丸瓦が付いている
          
             ※軒丸瓦に琉球王国の三つ巴の家紋が付いている
          
             ※漆喰がまぶしいく感じられる
    
       ※これも漆喰だろうか?クリーム色が珍しかった。瓦も新しく感じられる。
    
       ※屋根全体が真っ白だ!これには驚いた!!!
    
    ※戦後になって、セメント瓦が現れた。これは桟瓦風。

沖縄の透き通るような青い空に赤瓦はとてもよく似合う。とくに白い漆喰がよいアクセントを与え屋根を際立たせている。本土にはない色彩が南国のイメージを印象付けてくれた。時間的に余裕があれば、もっと見て回れたが沖縄の地に足を踏み入れることが出来ただけでも感謝したい。

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常陸のグシ瓦

2010年08月23日 | 民家探訪
常陸のグシ瓦を見てみよう!

以前は竹を巻いた丸グシだったのを瓦に替えたようだ。その昔は芝棟だったのだろうかと思ったりもする。

民家は偶数が忌み嫌われている。グシ瓦も奇数になっていた。


コビラから見るとグシ瓦が3枚乗っていることが分かる


この屋根は5枚だなぁ。


7枚だ!しかも漆喰を施しているし、グシが高い。民家も大きかった。


入母屋屋根にも瓦が乗る。5枚だね!写真では分からないが他の瓦より大きかった。
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切手を作る

2010年02月20日 | 心の旅
切手を作ってみた。実際に出来上がってみると茅葺き屋根の質感が表現できず、トタン屋根のように見えてガッカリした。
別の画像で、もう一度チャレンジしてみよう。この切手、実際に使用できますよ^^v

切手の原画像は広島県熊野町の民家
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石垣に見惚れる

2009年11月03日 | 民家探訪
 各地を訪ねていると色んな石垣に出合う。先人の苦労が偲ばれるとともに、その美しさに目を奪われてしまうことも時々ある。
 石の種類、石の加工の有無、積み方の違い、石垣の大小高低など、すべて違う。特に石の種類による色や質感の違いは、その土地の記憶に深く残ることもある。

             
            和歌山県の山中で見かけた石垣

 上の写真は、たまたま見かけた石垣である。非常に美しい石垣だった。私なりになぜ美しく感じたか気付いたことを羅列してみよう。

1.非常に高い石垣で見上げなければならず圧巻だった。おそらく6m以上あったのではないだろうか。

2.高い石垣にもかかわらず“はらみ”がなかった。“はらみ”とは、お腹がはらんだ様にふくらんだ部位のこと。“はらみ”は石垣にとって致命傷になりかねない。

3・ほとんどが自然石であまり加工されていなかったこと。それが石垣にとって風合いをかもし出していたようにみえた。

4.何層にもなって築かれていること。下段に道が斜めについており、それがいいアクセントになっている。

5.下の方は比較的大きな石で谷積みに、上の方は小さな石で野面積みになっていること。(上にも大きな石が所々あった)

6.一番上に柵が築かれ、ひとつ下の段に植え込みがあり、その植え込みの緑が不思議なくらい石垣とマッチしておりバランスが取れているように見えたこと。

7.石垣にあまり草がついていないこと。おそらく定期的に草取りをされているのだろう。(草は石垣にはよくない)

驚いたことに、この石垣を上って見ると一面黄金色に輝いた水田が広がっていた。その光景は、感動的だった。目の前に川が流れているので高く築かれたのだろう。石工の心意気を感じられずに入られなかった。



※島根県平田市の石垣                     ※高知県佐川町の石垣


 宮本常一の書籍の中に石工について非常に心を打たれた記述があったので、一部ここに記したい。宮本常一が東広島市西高屋を歩いていた時に、川の中で仕事をしていた石工の言葉である。
 「金がほしうてやる仕事だが決していい仕事ではない。ことに冬など川の中などでやる仕事は、泣くにも泣けぬつらいことがある。子供には石工にしたくはない。しかし、自分は生涯それでくらしたい。田舎をあるいていて何でもない田の岸などに見事な石のつみ方をしてあるのを見ると、心をうたれることがある。こんなところにこの石垣をついた石工は、どんなつもりでこんなに心をこめた仕事をしたのだろうと思って見る。村の人以外には見てくれる人もいないのに・・・・・」と。
「―(略)― 結局いい仕事をしておけば、それは自分ばかりでなく、あとから来るものもその気持ちをうけついでくれるものだ」
 この言葉を受けた宮本常一は、“平凡だが、この人たちはこの人たちなりに一つの人生観をもっている。そしてそういうものが世の中をおしすすめていっているのだと思った。つみあげられた石の一つ一つの中には、きっとそんな心がひそんでいるのであろう。”とつづけている。 

石垣は、その土地の風土をよく現しているのではないだろうか。静岡県三ケ日付近に行くことがあれば、ぜひミカン畑の石垣を見てもらいたい。粗末だったが非常に素敵な石垣があちこちと見受けられた。
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風を破る破風~兵庫の旅~

2009年10月08日 | 民家探訪
 屋根に『破風(はふ)』と呼ばれる部位がある。入母屋や切妻の棟木下の三角部分と思って頂いたらいいでしょう。(これに異を唱える人がおられたら尊敬に値するでしょうね)
 
 この破風は、すなわち妻部分になり必然と風がぶち当たる部位でもある。まさに字のごとく風を破る破風といってもいいだろう。
 今回は兵庫県内で見かけた入母屋の破風について見てみよう。

              
 通常、破風を平側から見ると、垂直に切られてる。

          
          ※ちょうど電柱があり、破風を平から見ると垂直に切られていることが分かる

 しかし、いろいろと見比べてみると前のめりになって切られている破風に時々めぐり遭う。そんな時、不思議と嬉しくなってくる。破風が前のめりに切られてことについて、ある呼び方があったのだが、ど忘れしてしまった。(←後日調べておこう)
          
          ※破風が平から見るとお辞儀しているように見える
     
 このタイプの破風は茅の積み方にも工夫がいる。また、刈るのが非常に難しいらしい。遠目から見ると屋根に勢いを感じてしまう。
 上の写真は、棟が水平になっているが棟が反っているのもある。

          

上の写真を見てもらいたい。棟に少しむくりがついており、破風が前のめりになっている。今までに、このような屋根に出遭ったことがあるかどうか記憶にない。きっと気づかなかったのだろう。今回は、あまり多くの民家を見ていないが自分なりに納得できた小さな民家探訪であった。


               
               ※兵庫県らしくない破風に思えてならない!
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『滅びゆく民家』より

2009年01月01日 | 人物・書籍
『滅びゆく民家』より抜粋


 民家はいずれは滅びさるものである。住まいが生活のうつわである以上、人の生活が変われば。それにともなって住まいも変容していくのは当然のことである。
―(略)―
わが国の美しい民家がつぎつぎと姿を消してゆくのを見ると、まことに愛惜の情にたえぬものがあるが、これは何びとの力をもってしても防ぎきれるものではない。
―(略)―
古民家を復原修理して保存しようとする運動もある。
―(略)―
しかしそれは譬えてみれば、瀕死の病人をカンフル注射で、いくらかの延命を図るようなもの、あるいは死んだ珍獣を剥製にして保存しようとする行為にはなはだよく似ているように思えるのである。形骸を保存することはできても、そこで行われていた生活まで甦らすことはできない。現存する建物の保存に併行して、文書による記録の重要性がそこにあると考えられる。
 民家研究の一方法として、悉皆調査というのがあった。これは一村の民家を一軒残らず調査して、その手法や様式を比較研究し、変遷の実態を編年するものであった。この方法は民家研究に科学的な客観性を与え、建築年代を把握する上に大きな貢献をした、また画期的なものであった。
―(略)―
一時万能のように考えられた悉皆調査は、影をひそめたようである。
 それは何故かというと、純粋に建築史学的な立場から追求しようとするあまり、民俗学とか人文地理学などとの関連を否定したことや、何にまして悪かったのは
住民の意志を全く無視したものであったことである。「絨氈爆撃」と称して、多数の学生を動員し、大学の権威を振りかざしての一方的調査に住民の好感が得られるはずはなかった。彼等の収録した間取り図には、室名の記入すらなく、ましてそこでどのような生活が展開されているとかいうようなことは、一切おかまいなかったし、またそれに触れることを否定していた。そうして「住民なき民家研究」という自嘲のレッテルをみずから貼って、幕はとじられた。方法論は正しかったが、その実践の方法が悪かったのである。
 現代の都会人の常識では通用しないことが多い。都会のビルはすべて靴ばきのままであるし、土間は下足のままで入ってよいと心得ているのが都会人の常識である。しかし農家の土間はそんなものではない。それは因襲的な迷信や習慣というものではなく、やはり生活がかかっているのである。農家の土間では、収穫物の脱穀や精白が行われるし、漬物や味噌・醤油などの製造・貯蔵の場でもある。年に一度の米という商品に砂が混って、品等を下げられることは致命的なものである。
 農家の土間は常に適当な湿度と、清浄が保たれている。そこへ固い靴底でドヤドヤと踏み込まれては、表層が剥離して土の細片が飛散するし、濡れた靴底の泥を持ち込まれては表面がヘドロ化する。それを元にもどすためにいらぬ労作を強いられることになる。住民たちの信仰する、正規の神仏はでいや座敷に鎮座しているが、かまど神とか井戸神様などという土俗的な神々はすべて土間に鎮座している。農家の土間は農民にとっては、神聖な仕事場なのである。
 こんなことも弁まえない、調査に名を籍りた学生団や、物珍しいそうに訪れる観光客などは、もっとも歓迎されぬ闖入者なのである。はなはだしいのは靴底の泥を、大戸の敷居の角で、こそげたりする。このような農村生活にいろはも心得ない集団の調査に、大きな成果を期待はできなかった。


『滅びゆく民家-間取り・構造・内部』 川島宙次著 (株)主婦と生活社  1973年11月30日発行

           

民家を撮影している人にたくさんであってきた。

皆さん口をそろえて同じことをいう、「記録しているんです」と。

私は、いつも心の中でつぶやく「何を記録しているのだろう?記録とは何だろう?」と自省の念を

こめて。
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『あるく みる きく 31号』

2007年07月14日 | 人物・書籍
 その昔、『あるく みる きく』という月刊誌があった。ご存知の方も多いだろう。
日本近畿ツーリストの馬場勇副社長(当時)に請われて故宮本常一氏が創設した日本観光文化研究所(略して、観文研)が発刊していた月刊誌である。
 観文研は、高度経済成長の中、失われていく農山漁村の生活文化や旅の文化の研究所で若い研究者の指導育成の場でもあった。
 その観文研が発刊する『あるく みる きく』は、各号ごとにテーマを決めた特集形式で、昭和42年(1967)3月から昭和63年(1988)12月までの21年10ヶ月の間に263号が発行された。

     =『あるく みる きく選書』=

 『あるく みる きく 31号』は、出稼ぎをする会津茅手を取り上げている。当時、武蔵野美術大学の学生だった相沢韶男(あおざわ つぐお)さんは、宮本常一氏の薦めで東日本を中心に民家、本陣、旧街道を訪ね歩いていた。それは観文研のテーマの一つでもあったようだ。
 山梨県上野原町近くでゆったりとした美しい茅葺き民家に心引かれ、そのうちの一軒に上げてもらいお話を伺っているうちに、福島県会津地方の草葺きを出稼ぎにしている茅手が来ていた事実を知り驚かされる。そして、会津茅手を訪ねる旅が始まったのである。
 『あるく みる きく31号』の「会津茅手見聞録」で相沢さんが会津茅手の技術や出稼ぎの様子などを鮮明に記してくれている。また逸話などが紹介され、そこにどんな生活があったのか非常に参考になる。

 次々と茅手を尋ねていくうちに、相沢さんは自分の目を疑う風景に出合う。大内宿である。そこは、昭和の世とは思えない雰囲気をもち、江戸時代のままと思いたくなる宿場であった。両側に茅葺き民家が整然と70軒連ねる光景だ。興奮した相沢さんは一日中写真を撮りまくった。何百枚も。昭和42年9月のことである。

 相沢さんは一年半後、また大内を訪ねた。トタン屋根が目立ちはじめ、道路を拡張し舗装する計画を知る。慌てた相沢さんは、保存へ向けて動き始めた。必死になって村人たちと話し合い、工事を延期してもらう。また地元の教育委員会や文化庁にうったえた。その結果、指定と保存の動きがおこり、マスコミが取り上げていった。

 相沢さんが三たび大内を訪れたとき村はひどく動揺していた。『あるく みる きく 31号』には、「いずれにせよ村は変わりつつあるのだし、変わらざるを得ない。また保存が村をうるおわせるようにするには、外から人を受け入れざるを得ない。だが、下手をすると建物や村のたたずまいだけでなく、それを支えてきたあらゆる良いもの、共同意識、生活、心情まで内側から根本的に破壊されてしまう。いやそういう例の方がはるかに多いのである。僕には責任があった。」と書かれている。
 そして最後に「さまざまなことを教えてくれた、あの親切な茅手たちや村の人たちに、いったいどうすれば報いることができるであろうか。」と結んである。

 『あるく みる きく 31号』は昭和44年(1966)9月の発刊である。大内宿は、まだ保存へ動き始めたばかりで先が見えていなかった頃である。
 現在では、年間80万人の観光客が訪れる会津を代表する地となった。ここまでなるには、ひと言で語れない幾多の苦難・難問に遭遇したに違いない。相沢さんの情熱と熱意が皆を動かしたのだろう。

 =大内宿=

 『あるく みる きく 31号』を、手にして非常に感銘をを受けた人がいた。地元福島県で教諭をしていた菅野康二(すげの こうじ)さんである。地理学出身である。

 菅野さんは、農業問題を地理的に考えられていて、当初は果樹栽培の調査されていた。お父様が出稼ぎに行かれていたこともあって、しだいに農民の出稼ぎ問題を中心に置いて考えるようになった。教壇に立ちながらも農民の出稼ぎの原点を極めてみたいという思いを馳せておられた時に『ある くみる きく 31号』の「会津茅手見聞録」を目にされる。
 
 大いに刺激を受けた菅野さんは、それ以後“会津茅手”の調査をされはじめた。調査当初は、会津茅手の出稼ぎが中心だった。平成になってから屋根葺き職を継続していく人を育てていく社会的条件は益々悪化し、茅手の育成はほぼ絶望的といわざるを得ない現状になり、技術的な事をできる限り詳細に調べ記録すことに専念された。

 聞き取り調査された茅手さんは300余人である。昨今このような地道な調査研究は不可能になってしまい貴重な記録となった。著書からは菅野さんの凄まじいエネルギーと探求心を感じずにはいられなかった。

『あるく みる きく31号』がなかったら、大内宿は残されていなかったかもしれないし、菅野康二さんの大著は生まれていなかったのかもしれない。運命とも言える不思議な縁あるいは力を感じてならない。

   =菅野康二さんの著書2冊=


 相沢韶男さんは、昭和63年(1988)に日本生活学会より「今和次郎賞」を受賞された。また、菅野康二さんは、小林梅次氏の推薦を得て平成12年(2000)に日本民俗建築学会より「竹内芳太郎賞」を受賞された。このお二人の先達のお陰で、ほんの少しだけ“会津茅手”の事を知ったかぶりができる。心より感謝をしたい。
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埼玉での思い出・・・。

2007年03月23日 | 集落探訪
 学生時代のはじめの頃、埼玉県に住んでいた。出身の広島とは違い広々とした関東平野に驚いたことを思い出す。生来、あちこち行くのが好きだった私は、早速地図を買い周辺を探索してした。いつの日のことだっただろうか?原付バイクで郊外へ出たときに道に迷った。そこは10数軒の民家が集まっていた集落だった。どっちへ行こうかと悩んでいたとき、ふと気づいた。そこは農村集落だったのである。私は不思議な感覚に襲われた。私にとって田舎の風景とは中国山地にある棚田の風景が思い浮かぶが、その集落は違っていた。平地だった。荒壁の土塀が続き集落の北側には屋敷林があり周辺には水田が広がる。「これが関東の田舎か!」と、はじめて気づかされたのである。それまで、このような集落風景は遠めに見ていたに違いないが、集落の中に迷い込んで初めて実感させられた。ある意味カルチャーショックだった。それは西と東の風土の違いを肌で感じ取った瞬間でもあった。
 これがきっかけで、まだ開発が進んでいない埼玉県内の集落を訪ねるようになったのである。大感激した急斜面集落である大滝村栃本集落(現、秩父市)を訪ねるのは、これから数ヶ月後のことだった。
          
             かぶと造りの民家が残る埼玉県の集落


 民俗学祖柳田国男が13歳のときに兵庫県田原村辻川(現、福崎町)から茨城県布川町(現、利根町布川)へ転居して2年間を過ごしている。このときの体験が後に民俗学を志すきっかけとなったといわれている。おそらく西と東の風土の違いを、感受性の強い柳田国男にとっては衝撃的だったことだろう。
 レベルが全く違うが、私も柳田国男と同じように感じたことを後に知り密かに嬉しかった記憶がある。
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笄(こうがい)を数える・・・。

2007年03月17日 | 民家探訪
北陸地方の棟仕舞いに笄棟(こうがいむね)と呼ばれるものがある。それは、屋根面の棟近くへ水平に棒を刺し、その棒に縄や木などを掛けて棟茅を押さえる方法である。
その棒を笄(こうがい)と呼ぶ。江戸時代の花魁(おいらん)が笄を髪の根元に刺していた髪型の笄髷に由来している。

笄棟も地域によって仕様が若干違い、また笄の材質も違う。この笄棟の地域の中に「合掌造り」が存在する。
合掌造りの笄棟は、平棟になっている。そのため、水切りがされていないので棟茅が腐りやすい。毎年棟茅を交換しなければならない。
ある意味、合掌造りの笄棟は原始的な棟仕舞いと云っていいかもしれない。

白川郷では、笄のことを「ミズハリ」と呼んでいる。合掌造りの笄棟を中心に、1本笄から13本笄の屋根を紹介するので見てもらいたい。


      
                     1本笄の屋根

      
                     2本笄の屋根
      
                     3本笄の屋根
      
                     5本笄の屋根
      
                     6本笄の屋根
      
                     7本笄の屋根
      
                     8本笄の屋根
      
                     9本笄の屋根
      
                     10本笄の屋根
      
                     11本笄の屋根
      
                     12本笄の屋根
      
                     13本笄の屋根


「4本笄の屋根」は、見当たらなかった。納屋で存在してないだろうかと探したがなかった。やはり「4」は忌み嫌われているのだろう。どなたか見かけられた人は教えてください。また「14本笄の屋根」もあれば教えてください<(_ _)>

しかし、我ながら自分でも馬鹿じゃないかと思う。笄を数えて何の意味があろうか?このように笄の数を紹介している書籍は、今までお目にかかったことがない。もっと系統的に笄棟を紹介するべきだった。

小生の民家探訪の一端が垣間見れたのではないだろうか・・・。いつもこのようにして、テーマを決めて自己満足の世界に入っているのである。


(補足)福井県にある重要文化財坪川家住宅は洗練された笄棟であるが、昨年葺き替えをして笄はあるものの本来の役目を果たしておらず飾りとなってしまった。誠に残念である。


参考
  『住まいの伝統技術』 建築資料研究社 1995年
   
  他、

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『消え行く日本の民家』

2007年03月16日 | 人物・書籍


久しぶりに毎日グラフの『消え行く日本の民家』を本棚から出してみた。読んだというよりは、眺めたと云ったほうがいいだろう。思わず息を飲み込んでしまうような民家の写真にしばし時間が過ぎた。

この雑誌が発売されたのは1970年である。だから民家の写真は60年代に間違いないだろう。
1970年と云えば、大阪で万国博覧会が開催された年である。万国博覧会は、1964年に開催された東京オリンピックに次ぐ国家プロジェクトであったに違いない。博覧会には6000万人以上が入場したというから、国家挙げてのお祭りといっていいだろう。
世の中はイケイケムードだったにちがいない。農村から若い働き手が次々と都会へ流出していったころでもある。

時期同じくして、この頃は文化庁の指導のもと、各地で民家緊急調査が行われていた。高度経済成長により民家が次々と勢いよく消滅していく現状を危惧してのこのとだった。案の定60年代後半から80年代前半にかけて多くの民家が消滅していった。「最近、民家の消滅速度が速いですね」という人がおられるがその比ではなかったようである。悲しいことだが現在の状況は、限りなくゼロに近づいているので急激に減ったように感じてしまうが消滅する絶対数は少ない。すでに、ほとんど消滅あるいは改築されてしまっている。

この「消え行く日本の民家」は、そうした高度成長期の真っ只中に出版された雑誌である。それまでの民家の本は、ほとんどが専門書の形態を取っていて難しかった。おそらく研究者や建築家が手にするような本ばかりで、一般の人は余程民家に興味がない限り手にしないだろう。
この本の中には、田んぼの中で遊ぶ子供たち、縁側でおばあちゃんの手伝いをしている子供や大勢の村祭りなどが写されている。人々の心豊かな生活が漂ってくる懐かしい光景ばかりだ。このような情景は、今の日本の何処に残っているだろうか・・・。

最近は、田舎暮らしや古民家ブームで民家を取り上げられる機会も増えた。民家が少なくなってきたからなんだろう。でも期待する内容は少ないような・・・。

「消え行く日本の民家」のページをめくりながらそんなことを考えていた。

 参考  毎日グラフ別冊「消え行く日本の民家」 毎日新聞社 1970年
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会津の屋根裏

2007年01月23日 | 民家探訪
福島県会津地方は、今でも茅葺き民家が比較的多くの残るところである。それは同時に、屋根葺き職人が多いところでもあった。
また、南会津の屋根職人は農閑期に関東一円へ出稼ぎへ行かれたことでも良く知られている。今でも神奈川県の鎌倉で、その痕跡をうかがうことが出来る。
その会津でも、防火の為にと云うことで行政の援助を受けて茅葺き屋根は次々とトタン屋根へと替わっていった。

会津茅手(会津屋根屋のこと)のことを良く知らず、私が会津へ行って一番驚いたのは屋根裏だった。通常『エツリ』と呼ばれる屋根材が、竹(割竹が多い)や小枝ではなく数本の茅を束ねられたモノだったからである。
それが下の写真である。懐かしい~。

             

「エツリ」とは、屋根下地の一番外側、すなわ茅葺き側にある材を云う。通常屋根下地は内側から「サス(縦材)」「ヤナカ(横材)」「タルキ(縦材)」「エツリ(横材)」となる。これらの用語は、各地で呼び方が違い注意してもらいたい。会津では「エツリ」を主に「エズリ」と呼ばれていたらしい。

初め見たときには強度的に大丈夫なのかなと云う疑問も湧いた。会津では竹の自生が少なく、屋根下地に竹を使う感覚が無いようだ!中通り・浜通りではタルキなどに竹が使われている。
しかし、よく考えてみると「エツリ」の目的は、葺き材である茅や藁がズレ落ちないストッパー的な役割であり、屋根の強度ではない。
白川郷の合掌造りの葺き替えの様子がよくテレビで放映されているが、屋根下地の外側は「ヨシズ」を覆っている。屋根勾配きつい合掌造りでは、茅がズレ落ちなくするためには「ヨシズ」が極めて有効な手段なのであろう。
小林梅次氏の「日本の草屋根」によると、合掌造りに限らず昔は茅が下に落ちないように縄をスダレ状に編んだものを屋根に覆っていたそうだ。その簡略化したのもが現在「エツリ」として残っているようである。
しかし、私は未だに会津以外で茅を束ねた「エツリ」を見かけたことはなく強烈な印象として残っている。

               

上の写真は、山形県境近くで見た会津の民家である。非常に雪が多い地域である。ここの「エツリ」は、かなり太く茅を束ねており、また間隔も狭い。

               
この写真は同じ民家の北側にあたる屋根裏である。これまた驚かされた!「エツリ」は、細い竹を束ねている。このあたりで手に入る竹だったのだろうか?それとも、遠くから運んできたのだろうか?やっぱり竹は屋根材に最適なのかもしれない。竹が使われていたのは北面のみであった。

こうやって屋根裏ばかり見ていると首が疲れてしまうが大変楽しい旅であった。会津は、またゆっくりと訪ねてみたい地域の一つである。

囲炉裏やカマドの煤で屋根裏は普通真っ黒であり、また光が差さないので暗く様子を確認するのは容易ではない。しかし、こうやって見ることが出来たのは囲炉裏を使わなくなったお陰?であり、これも時代の流れかもしれない。私はカメラのフラッシュを何回か照射して確認をしていた。
煤けた屋根裏好きの私にとっては皮肉な話でもある(笑)


☆「茅を束ねたエツリ」は、茅であったのか?ヨシであったのか?当時私の知識が乏しく確認していない。誠に残念である。しかしヨシは滑りやすいので、おそらく使われていないのではないかと思われる。
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くずや

2006年12月13日 | 民家用語
草葺き民家のことを、昔は「くずや」と呼んでいた。

私が初めて耳にしたのは、1985年埼玉県秩父市で道を尋ねた時である。はじめ「くずや」の意味が分からなかった。

その時は、秩父一帯の方言と思っていた。が意外に各地で使われていて驚いた。

「くずや」の語源については諸説ある。私は個人的に「くずや」とは、稲作や麦作を終えて出た「くず」である藁で作った民家を指していたのだろうと思っている。

お年寄りとお話をしていると、「茅葺き」より「ワラヤ」の方が通じることが多い。

案外、「茅葺き」の語が一般に広まったのは近年のことかもしれない。その昔、平野部の密集地や漁村はわら葺きが多かったようだ。

もう、何年も「くずや」の語を耳にしていない。
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月夜野の民家

2006年09月18日 | 民家探訪
高橋 正幸著の「柳田國男・今和次郎と民家」の中に次の文章がある。

柳田國男は『居住習俗語彙』の序文で「私が炉端の横座かか座といふ語を始め て耳にして、驚きもし且つ覚りもしたのは、明治三十九年のたしか秋、甲州の道 志から津久井へ下る月夜野といふ小さな村であつた。それから囲炉裏の話が出る たびに、又かと言はれるほどよく此名称の由来を説いて居た。それが縁となつて 不思議に火のまはりの作法だけは、詳かに知れ渡つたのである」と、「火のまはり の作法」に関心をもつようになったのが1906年であることを明らかにし、また屋 根の材料の長短について論じた「地方見聞集」(屋根を葺く材料)が発表されたのは 1912年のことであった。
 柳田國男の民俗学の出発を告げる「後狩詞記」および 「遠野物語」の発表が1909、1910年のことであるから、彼の民家についての関心 は民俗学研究当初の頃からと言うことができよう。

とある。
写真は昭和61年(1986)に旧月夜野村の近くで撮影した民家である。柳田国男は、有名な「遠野物語」発表より前の1906年秋に月夜野に来ていたようだ。柳田国男もこの民家を見ただろうか?民家は民俗学の器ともいわれている。

今和次郎の「日本の民家」は1922年刊行。世に知られている内郷村合同調査が1918年である。柳田国男が月夜野に訪ねたのは、それらよりずっと以前ということになる。

月夜野辺りが民家研究の発祥の地ではないかという気がしてきた。



(参考文献)
「柳田國男・今和次郎と民家」高橋 正幸著 『民俗建築』 №109 1996年5月 日本民俗建築学会 収録


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雀(すずめ)が踊る民家

2006年08月16日 | 民家用語
信州松本平を中心に本棟造りの棟端に「スズメオドリ」あるいは「スズメオドシ」と呼ばれる意匠を見かける。私は語感の響きの良さから好んで「雀踊り(スズメオドリ)」と呼んでいる。

堂々たる風格を持つ大きな棟端飾りである「雀踊り」は、松本平を中心に見られ伊那谷を南下するとなくなる。

雀踊りは、家柄や家格を誇る意匠だったのであろう。


本棟造りとは、大きな板葺き切妻造りの妻入り民家で信州南部に見られる民家である。板葺きの石置き屋根なので屋根の勾配は自ずと緩くなる。
その為正方形の広い平面プランを容易にすることが出来る大きな民家である。

本棟造りは、江戸時代に庄屋クラスのみに許されていた造りであった。明治になり街道沿いの旅籠や養蚕農家にも取り入れられていった。


「雀踊り」を数例紹介しよう!

雀踊り1

前のめりになり尋ねる人をにらみつけて威嚇するかのような雀踊りだ!雀オドシと言ってもいいかもしれない!

雀踊り2

尋ねてくる人を遠くから見つめて待っているような雀踊りだ!

雀踊り3

尋ねる人を歓迎してくれてるような雀踊りに見える。

雀踊り4

首を長くして、ご主人の帰りを待っている雀踊り。


勉強不足で「雀踊り」の起源や由来はよく知らない。初めは、各地に聞かれる「カラスオドシ」のように鳥害除けの棟端飾りだったのが装飾性を帯びてきたのかもしれない。
雀踊り1~3を連続して見ていると、雀踊りがラジオ体操をしているように見えてくる。


雀踊り5

諏訪平の越後系の雀踊りと云われている。この民家は本棟造りではない。

雀踊り6

開田高原で見た雀踊り。この辺りにも雀踊りが存在するのだとビックリした。あるいは近年、雀踊りを設けたのだろうか?開田高原で雀踊りが付いていたのは、この一軒と越後系雀踊りが付いてい民家がもう一軒あったのみだった。


「雀踊り」はある意味、瓦屋根に見られる「鬼瓦」のような役割をしていたのかもしれない。
もう一度、信州の雀が踊る民家を見てまわりたい!


※「スズメオドリ」の名称は各地で聞かれるが、その土地によって指し示す部位が違う。各地のスズメオドリと呼ばれる部位を紹介したいところだが、ほとんど失われており画像もあまり持っていない。非常に残念でならない。
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入母屋造りの箱棟

2006年08月13日 | 民家探訪
     

山口県の熊毛地方一帯には、箱棟が入母屋造りになっている寄棟造りの民家が散見する。

意味がお解かりだろうか?

茅葺き屋根は寄棟造りであるが、棟に乗っている箱棟が入母屋造りの形になっているのである。非常に豪華に感じる。通常、箱棟は切妻造りになっている。

このあたりは、かつて板葺きの箱棟が多かった地域である。箱棟を瓦に葺き替えてから入母屋造りになったのだろうか。


もちろん他地方にも、入母屋造りになっている箱棟は存在する!是非探してみてください!



山口県にみられる切妻造りの箱棟の色々。


しかし、棟に瓦屋根が付いてるかといって箱棟とは限らない。見分けるのが困難な場合がある。
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