自分の行動を振りかえって見て、損得からではなく、道義の心から、「しまった」と考えるほどつらいことは、恐らくほかにはないだろうと思う。
— プルト君 (@Plutokun_Bot) 2017年1月8日 - 18:12
そうだ。自分自身そう認めることは、ほんとうにつらい。だから、たいていの人は、なんとか言訳を考えて、自分でもそう認めまいとする。しかし、自分が誤っていた場合にそれを男らしく認め、そのために苦しむということは、それこそ、天地の間で、ただ人間だけが出来ることなんだよ。
— プルト君 (@Plutokun_Bot) 2017年1月8日 - 18:13
人間が、元来、何が正しいかを知り、それに基づいて自分の行動を自分で決定する力を持っているのでなかったら、自分のしてしまったことについて反省し、その誤りを悔いるということは、およそ無意味なことではないか。
— プルト君 (@Plutokun_Bot) 2017年1月8日 - 18:13
僕たちが、悔恨の思いに打たれるというのは、自分はそうではなく行動することも出来たのに、と考えるからだ。それだけの能力が自分にあったのに、と考えるからだ。正しい理性の声に従って行動するだけの力が、もし僕たちにないのだったら、何で悔恨の苦しみなんか味わうことがあろう。
— プルト君 (@Plutokun_Bot) 2017年1月8日 - 18:14
自分の過ちを認めることはつらい。しかし過ちをつらく感じるということの中に、人間の立派さもあるんだ。正しい道義に従って行動する能力を備えたものでなければ、自分の過ちを思って、つらい涙を流したりしないのだ。
— プルト君 (@Plutokun_Bot) 2017年1月8日 - 18:14
過ちは誰にだってある。そして、良心がしびれてしまわない以上、過ちを犯したとうい意識は、僕たちに苦しい思いをさせずにはいない。しかし、お互いに、この苦しい思いの中から、いつも新たな自分を汲み出してゆこうではないか。正しい道に従って歩いてゆく力があるから、こんな苦しみもなめるのだと。
— プルト君 (@Plutokun_Bot) 2017年1月8日 - 18:15
【「象徴」か神聖化か 国民とともにある天皇制を】togetter.com/li/1050100 「人間である生身の天皇が高齢によって象徴天皇の責務に耐えることができないと述べられた「お言葉」に国民は共鳴…天皇を神聖化し、その人間性を軽んじるような在り方は一部の人に都合がよいだけ
— 島薗進 (@Shimazono) 2017年1月8日 - 18:15
賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、をを心は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなり
— 【創価学会版】日蓮大聖人御書bot (@Gosho_bot_2) 2017年1月8日 - 18:19
(四条金吾殿御返事、1151㌻)