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日々是勉強

気軽に我流でワインを楽しんでみようかと。

会津葵

2013-06-08 11:13:32 | 和菓子

福島の方に頂いた面白いお菓子。

会津葵

 

二種のお干菓子を頂くが特に「」がなんとも楽しい。

お店のHPに「初市の十日市に並ぶ起き上がり小法師は会津三縁起の一つで、 家族の数より一つ多く買い求めて神棚に供えます。 縁起菓子は小豆餡と白小豆黄身餡を用い、 石衣で包んで雪の情緒を表現しました。 」とある。 パンフレットにより詳しくあった。

「雪国会津は元日の初音売りで明けます。 続いて十日市に風車やが並びます。 初音、風車、を会津三縁起といい、は家族の数より一つ多く買い求め神棚に供えて無病息災を祈ります。 縁起菓子起上り小法師は小豆餡と白小豆黄身餡を用い、 石衣で包んで雪の情緒を表現しました。」

打ち菓子「舞鶴」も会津の蒲生氏郷公の幼名鶴千代に因んだもので、鶴ヶ城本丸に移築復元された茶室「鱗閣」の茶室開きの記念菓子として使われたよう。

阿波産純和三盆糖に会津産特上の白蕎麦粉を配合し、 紅花より抽出した、 あでやかな本紅を用いた干菓子でございます。 千少庵に系譜を求める会津茶道の微かなる世界をご賞味下さい。」とある。

 蒲生氏郷  ~日野町HPより~

文禄四年(1595)、戦国の世を駆け抜けた一人の武将が40歳という若さで病に倒れ、この世を去りました。蒲生氏郷、その人です。彼は弘治2年(1556)、名門蒲生家の跡取りとして誕生。13歳の時、蒲生家の人質として織田信長のもとに送られました。これが彼の運命を決定づけることになったのです。14歳の氏郷は信長の部下として伊勢大河内城の戦に初参戦。大きな手柄を立てた氏郷に対し、信長は身柄開放と娘の冬姫との婚姻で報いました。
 日野に戻った後もさまざまな戦で自ら先頭に立って闘う強者ぶりを見せる一方、氏郷は信長のもとで学んだ城下町づくりの手法を取り入れ、領内の行政、経済の改革に着手。日野は大きな繁栄の時代を迎えました。そんな彼のもとに、信長絶命の悲報が届いたのは天正10年(1582)のこと。氏郷は信長一族を守るため、日野城に立てこもりました。しかし光秀の反乱は天王山の合戦であっけなく終結。秀吉の傘下に入ることを決めた氏郷は、反乱を企てた北畠氏と伊勢で激突。次々と敵城を攻略し、伊勢を平定しました。この功績により、氏郷は伊勢松が島城主として転封。さらに会津に移り、92万石の大名となりました。
 武道ばかりではなく、和歌をはじめ文化面にも造詣が深く、茶道において利休七哲の一人に数えられるほどの文化人。利休の子である少庵を保護し、千家茶道の再興に尽力したことは有名です。また「レオ」という洗礼名も持つ彼は、イタリア人宣教師を家臣に迎え、ローマヘ使節団を送ろうとしたほどの熱烈なキリスト教信者でもありました。
 400年という歳月をこえ、日野の人々の心に生き続けてきた蒲生氏郷、その魂は今も信楽院で静かにふるさと日野の姿を見守っています。


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