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何を今更

2017年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム

このところ、中国のEV車シフトで、日本の産業界が慌てている。
これは、このブログを始めた10年前から、懸念を訴えてきた。仮にそれを読んでもらったとしても、日本の産業界は自らEVシフトすることはなかっただろう。そして実際、未だに、まだ内燃機関で大丈夫だという声がある。

神戸製鋼や東洋ゴムの粉飾データ、東電の地震対策など、次々と出てくる「ごまかし」は、日本産業界の老化現象だ。混乱を嫌い、冒険を拒否して事なかれに走る。大企業は高度成長遺産の、ぬるま湯から出ようとしない老人のたまり場だ。
少しでも利益が出れば、内部留保に貯め込む。老後を心配して金を使わない老人と同じで、ただ、死ぬ時を待っている。

大企業だけではない。日本全体が若さを失い、硬直している。
「空気を読め」、「顰蹙を買う」が流行語となり、ゴミの分別を素晴らしいことのように思い、車内携帯を禁止し、子供の泣き声に冷たい視線を送る。何かと言えば「ハラスメント」と、他人を抑圧したがり、幼稚園建設の拒否を当然のように考える。
これは、全て老人社会の秩序だ。
人手不足社会では、人海戦術のゴミ分別より、分別技術の開発の方が先だろう。

高度成長期時代は、多少の雑など気にしない「その内何とかなるだろう」の、失敗を恐れない若者社会だった。今の若者は、若者とはどんなものかを知らない。老後のことばかり考えている。

元気には老獪で
若者時代真っ盛りの中国が、EVで、既存の内燃機関社会に挑戦してきた。新しいやり方で大人に挑戦する若者らしい、大胆な挑戦に、日本の老人産業界はタジタジになっている。その反応も、いかにも老人らしい二極に分かれた。
何でも直ぐ若者に迎合する老人と、「若造が何を」と無視する老人だ。どちらも自覚の無いただの老人だ。

長い蓄積を自覚している老人なら、自分を見失わない。
EVには致命的な欠陥がある。充電する電気そのものに大量のエネルギーを必要とすることだ。走る車が排気ガスを出さなくても、火力や原子力で発電したのでは、もっと深刻な廃棄物問題が生ずる。
老成した日本が目指すべきは、燃料電池車の普及であり、EVはその繋ぎとして、若者をあしらっておけば良い。EVに夢中にならせておいて、その間に燃料電池社会を掌握することだ。問題は、日本の産業界の老化度合いだろう。

一方、EVであれ、燃料電池であれ、内燃機関が無くなれば、既存の日本産業界は職を失う。それを恐れる勢力が、パラダイムシフトの足を引っぱる。原発を諦めないのも、こうした既得権集団がいるからだ。
しかし、考えてみよう。彼らは何も恐れることはない。注文を失っても技術を失うわけではない。戦国時代に武具を作っていた職人は、装飾品や仏壇、日用品など、幅広い平和産業で成功した。要は、発想の転換であり、何事も、行き詰まった時こそチャンスなのだ。