魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

日本埋没 2

2008年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム

わいせつ (裸2)
タブーを公開すれば「わいせつ(猥褻)」となる。

ハレの場にケ(褻)を持ち出してはいけない。立て前の世界に本音を出してはいけない。ならいとして見えない物は、見せてはいけない。

たまたま見えなければ、見たくなるのが人間の好奇心だ。
日常的に見えないものは、常に好奇心の対象となり、やがて、特別な意味を持ち、見てはいけないものになる。
寒い国の人間にとっては二の腕でも珍しく、タブーになるが、暑い国の人間にはヘソなど珍しくない。

砂嵐と日差し・寒暖を避けて布をまとう砂漠地帯では顔までタブーになる。
中東では乳房などもってのほかで、以前、中東の街で、ポスターの乳頭に小さなマスクが掛かっていて、それ自体がわいせつで、思わず笑ってしまった。

それ自体がわいせつとは、ありふれたグラビアの乳頭をポイントすることで、それがタブーであることを強調し、それを見たいと渇望している人の目線を、疑似体験するからだ。
つまり、本来、何も感じないものを「特別」の目で見れば、なるほど新鮮な感覚を知ることができる。

現代日本人の「裸」感覚は、疑似体験が真性化したものだ。
古来、日本人が持ち合わせていなかった「裸」に対する「わいせつの目」を、西欧人から体得してしまったのだ。

こう言うと、反論があるだろう。ミニスカートやトップレスは欧米から来たものではないかと。
その通りだ。肌の強調は、彼ら北の民にとって、強調すべき意味のあるものであり、ファッションのアピールポイントとして特別に効果的なものなのだ。欧米人にとって潜在的に、肌の露出はエキゾティシズムであり、進歩・解放の象徴だ。

現代日本人の感覚も、ほとんど欧米化されているが、全く失われているわけではないようだ。
「裸」が基本の日本人は、欧米人と逆に、着ることがアピールになる。十二単は極端な例だが、着物の伝統は重ね着だ。
その変形と言うか、欧米感覚とのコラボレーションが、一頃、流行った若者の、腰パンや見せパンだ*。
欧米に洗脳されている大人の常識からすれば、とんでもないが、
日本の伝統のこころが、現代の婆娑羅に生きている。伝統の洒落をかいま見て、ニタッと嬉しくなる。
*(腰パンは米産でも中南米系だろう。ずらすことで衣服を強調するスタイルは、日本人には受け入れやすく、進化させている)

ここでまた余談だが、
女性は本来「け(褻)」性であり、それゆえに晴れを求めるのではなかろうか。男性と比べ、出産、生理など、嫌でも本音を見つめさせられる。それだけに「晴れ」を求める。
男どもが「口説くのに、飯を食わせてプレゼントせにゃならん」と嘆くのは、財産能力の証明ではなく「晴れ」の提供が求められているのではなかろうか。つまり、ケの実行にはハレとのバランスが必要ということだ。
もっとも、舌先三寸で「ハレ」を演出できる魔術師もいる。

ハレとケは色々むずかしく言われるが、占いでは陽と陰だ。
陰性ほど陽を求め、陽性は陰を求める。
陰は非力で目立たない日常だが、芯は陽より強くしぶとい。
陽は華やかで立派だが、虹のように儚い。
女性は陰性であり、男性は陽性であって、陰性は陽性を求める。
女性をその気にさせるのは「虹」だから
女をその気にさせるのは、
スター(うわさの光源氏)、豪華な××、結婚式・・・
のように、文化による非日常であって、ウソっぽい言葉や夢の演出だ。

男性をその気にさせるのは・・・現実直視だから
男は文化による「秘部」を見たがり、タブーを犯したがる。
と言っても、本来は男は常在戦場、何時でもその気なのだが、近頃そうでもなくなってきていることは、文化としての男が失われつつあることであり、文化そのものの消滅を思わせる。