故あって、1/24を機に断撮した。愛機をガラクタ箱に放り込んだ。届かない、伝わらない、聞こえない・・・そんなモノに何の 「意味」 があるだろうか?と自問自答を繰り返した。全ては時間と共に葬りされば済む記憶を、なぜ残し、言葉を紡ぎ添えるのか。
私にとって 「意義」 があれば良いのだ・・・こんな単純な答えに辿り着くまで3ヶ月を要した。
論考中である 「美とは何か」 そして付随する 「美術とは何か」 の一自助になれば、それもいい。生身の私がここにいる。その事に一点の疑いもない・・・大事なのは、この事だった。
木漏れ陽も、一輪咲も、狂い咲きも全てが美しい。
そして、生身の私は・・・醜いだけの昨日、今日、明日・・・その日が来るのを待ちわびながら、ただ目を見開いて漂うだけだ。
フロイトの系譜、エーリッヒ・フロムが本能について考察している一節を引用する。
動物ではその固有の本能は、努力する必要があるかないかを考えたり、決定したりする必要がないような形態をとって生存のために働くので、そういった意味で生存の 「問題意識」 を持つことがない。これに反して、人間の場合、本能という装置はその本来の能力をほとんど失っている。
(『The heart of man』 鈴木重吉・訳)
サバンナに生き、絶えていく動物の生態を見れば明らかなように、動物の本能は性的欲求と生存欲求に集約される事は自明だ。故に、人にとっての本能や行動目的も、この二つに集約される。寝る、食べる、等を、例に挙げれば、これらの行動については生存欲求に基いている・・・この事に異論を挟む人は少ないだろう。しかし、性的欲求についてはどうだろうか。自らのある行動を指して 「これは私の性的欲求に基いた行為だ」 と認識できる人がどれだけいるだろうか。生存欲求を満たす行動以外は、全て性的欲求に基く行為なのだという逆論を意識してこそ、本能と理性が初めて、自らの意志によって対置できるのではないだろうか。
そして、エーリッヒに補足するならば 「本来の能力をほとんど失っている」 のではない。本能は理性に抑制されただけで、理性の深度、抑制の強度に従い、その行き場が変わるか、もしくは形を変えるかである。大多数の人は 「言語化を果たした感情」 に従い( それは、性的欲求を 知的欲求という言語もしくは感情と偽ることで、自らを、そして社会を納得させているに過ぎないのだが・・・) 解放されるのだろうが、ある種の意識を持つ人は、本能に忠実・・・快感への意志を強烈に持ち続けると認めざるを得ない。
何気ない日常の行動や 「娯楽」 の一環としていた行動に対して、3択の自問自答を繰り返す・・・
(問)その行動は生存欲求ですか?
(答)Yes・・・ならば、その欲求は果たされないと、あなたは死んでしまうのですね ?
(答)No・・・ しかし、その欲求が満たされないと、あなたは死んでしまうのですが ?
(答)どちらでもない・・・あなたは死んでいます。
(1) 人が、誰にも教わらずに表現する感情、並びに行動である 「泣く」 は、人ならば誰もが共通に持つ 「本能」 と同位し、これらは 「欲求」 の下にある。
(2) 「本能」 は 「欲求」 と同位し、「欲求」 は 「快感への意志」 「不快感の拒絶」 と同位である。
(3) 故に 「泣く」 「快感への意志」 から 「話す」 「不快感の拒絶」 へと、感情表現、並びに行動は進化する。
上記(1)〜(3)と思考を進め、先logでは 「言語化を果たした感情」 について、単純な具体例を挙げ、私考を記してみた。
「言語化を果たした感情」 は、快感 (喜び、楽しみ )という報償を得ようと、不快感 (怒り、哀しみ) という代償を払おうと、本能に基く欲求である限り、その行動が止むことはない。 (不快感の解消行動は、それ自体が不快感から逃れるという快感への意志であることに疑いはない。) では、当然のように沸き起こる疑問として 「言語化を果たした感情」 と対立並置されるであろう 「言語化に挫折した感情」 の顛末はいかなるものだろうか。
「本能」 が 「欲求」 と同位であると考えることの妥当性は既に記した。この後 「言語化に挫折した感情」 を考察するには、人が持つ 「本能」 を強烈に意識せねばならない。そして、原始社会ならいざ知らず、近代文明社会において、人が 「本能」 の命ずるままに 「欲求」 することが非常に困難である(ほぼ不可能である)事実認識も必要だろう。
「本能」 「欲求」 には 「理性」 「抑制」が、そして 「言語化を果たした感情 」 には 「言語化に挫折した感情」 が対置される。
原初の 「泣く」 から始まった、人であれば隠し仰せないはずの 「本能」 と 人であるが為の不自由極まりない「理性」 の対立、人であれば留まることを知らない 「欲求」 と、昨今の反原発問題がいい例である 「抑制」 の対話…この両者は平衡することが可能か否か。
2012/03/05 update
先logで記した 「言語化を果たした感情」 について、以下に思考過程を記す。
この世に生まれてきた乳幼児達は、自らの感情を全て 「泣く」 という行為で表現する事から始める。
腹が減ったという空腹感、自らの排泄物で気持ちが悪いという違和感、心や体のどこかが痛いという苦痛感等々・・・「泣く」事で表現する場面は枚挙に暇がない。そして、この 「泣く」 事で表現される感情は、全て 「気持ち良くなりたいという欲求」、それは 「快感への意志」 に他ならない。
空腹感は乳房を咥え吸わされる事で、違和感は排泄物が取り除かれる事で、苦痛感は抱かれる事で、乳幼児達は 「快感」 とか何か?を覚える。(笑う事を覚える時期と重なる事も興味深い。)それぞれの感情は、人が生き延びる故の、生物としての本能が為せる行為であることも自明だが、その本能に従う行為には 「快感が得られる」 という報償が用意されていることを、私達は乳幼児の頃から、少しずつ覚えていくのだ。
さて、成長するにつれ、自らの感情表現は 「泣く」 事から 「話す」 事に変遷する。これは何故だろうか?と考えた。
先に挙げた例で説明するなら、こういうことだろう。
空腹感を、違和感を解消したいのに抱かれる事、苦痛感を解消したいのに乳房を咥えさせられる事・・・今風に言えば湧き出た感情とその応報のミスマッチ・・・求めていないものを一方的に押し付けられる 「不快感」 の現出・・・「泣く」 だけでは、欲求は瞬時に満たされないという事実を何度も経験し、数々の 「欲求〜快感への意志」 は、身振り手振り(首を振る、頷く、地団駄を踏むetc.)を交え、その効果の是非を覚える時期を経て、腹が減れば 「お腹が空いた」 と、尿意、便意をもよおしたら 「オシッコ、ウンチ」 と、体に痛みを感じたら 「頭が痛い」 「お腹が痛い」 と、次第に 「言語化」 されていく。
しかしながら、以上に記した思考過程とその顛末では説明しきれない場面に遭遇した。この幼児の、この瞬間だ。
「泣く」 事しか表現する術を知らない、この幼児が、自らの意志で色づいた枯葉をつまみ上げ、五感の内のニ感(触覚、視覚)を使い 「ただ見ている」 この場面は 「快感への意志」 なのだろうか。もしそうならば、この幼児は自らの 「快感」 を、今後どうやって 「言語化」 するのだろうか。
ここ数日、掲題に記した 「美」 というもの 「美術」 というものについて考えている。勿論、アカデミックには多面的に、多角的にオーソライズされた概念や定義はあるのだろうが、私が考えているのは、もっと街場人が、至近距離で到達できる単純な 「美」 や 「美術」 である。
元々、「美術」という言葉はドイツ語や英語に対しての訳語が語源であり、その定義は音楽、画学、像を作る術、詩学等を美術と云う・・・とされている。(Wikipedia「美術の語源」参照)一例として挙げられている Fine art ファインアートという英語(外来語)は、私にとって馴染みやすい言葉だ。(街場でよく見聞きするPop art ポップアートに対置しているというのがその一因であるが)
語源に従えば、美術者は 「美を作る術」 に長けている人となる。彼等は 「美術」 という手段を用いて、各人各様の 「美」 という目的に、強烈な自我と意識を持って辿り着く訳だから、自ずと 「美」 というものについて、相当なる解釈か私論を構築しているはずと考えても不都合はない。
しかし、その解釈や私論は美術者が創りだした作品を、ただ 「見せられる」 「聞かされる」 行為によってのみ、私達(鑑賞者)に届けられる。
そして、「静態」 である絵画、彫像、印刷物としての詩、録音物としての音楽ならば、私達、鑑賞者自らによって制御する時間の中で、その作品に関わりながら、「この作品が訴える”美”とは何か」 を考えたり、感じたり、又は何も感じないという事、所謂 「言語化を果たした感情」 に誰もが辿りつけるのだが、実演で提示される 「動態」 の音楽や朗読による詩作品は、作品そのものに時間を制御する意志と力が存在しており、この否定し難い事実は 「美」 への思考や、「美」 への感情の成就を果たすが為に必要な 「時間を制御する自由」 を、鑑賞する側の私達から奪い去っている事に他ならず、私達、鑑賞者は瞬時にして 「美」 を判断せねばならない 「術」 について、美術者から作品を通して強要されている事に帰結する。
以上の事を踏まえると、Wikipedia 「美術の語源」 後段に記されている、『ファインアートは視覚芸術に限定された概念となり、詩、音楽、演劇などは 「美術」 よりも上位概念の 「芸術」 が使われている』…との解釈は腑に落ちる。時間の制御を奪われた中で、 目の前に提示された 「芸術」 の美醜を瞬時にして判断できる鑑賞者達は、少なくとも常日頃より 「美」 に囚われているか、飢えているか、欲しているか、目覚めているか等、いずれにせよ 「美術者」 の素養、「美術者」 になるべき素質を持っているはずである・・・つまり、動態の「美」を判断するには、静態の 「美」 に対して独自の私論を持つことが必要不可欠である・・・この事を仮説として考察を試みる事は、荒唐無稽と首傾される程、的外れではないように思える。
過日、私は晩年のルノワールが過ごした居跡を訪れた。そこには静態作品として公開された絵画のレプリカが、その作品の動機となる 動態の「一景」 と共に展示されていて、フレームに収まる 「前」 と 「後」 を私自身の五感で、且つ、私が制御し支配する時間の中で経験する事が出来た。
美とは何か 美術とは何か・・・未だ暗中模索ではあるが、自らの背骨である Rock との関わり合いも含めて、独自の私論に至れる事を願い、本logを序とする。
心乱れて 朝を迎え
見上げた空には 乱雲が立ち込める
儚げな太陽が 眩しさを放つ頃
私は孤独を喜び
想像の扉を閉じて 現実の鍵をかけるのだ
そして
生きてきた子に
生きている子に
生きていく子に
言葉なく嘆き、哀しみ、それでも幸多かれと祈る
Good by Mis.Believe
Welcome Mr.Suffer...



























