蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

井原西鶴  (bon)

2017-08-09 | 日々雑感、散策、旅行

 元禄6年8月10日(1693年9月9日)に51歳で人生を閉じた、井原西鶴は、江戸時代の大坂、
難波に生まれた浮世草子、人形浄瑠璃作者、俳諧師とありました。 大阪生國魂神社(い
くたま神社)に記念像があるそうです。

 井原西鶴といえば、「好色一代男」「好色五人女」「日本永代蔵」「世間胸算用」など
の作品がすぐに出てきますが、かっての入試問題のせいかもしれず、どれも一度も手に
したことはありません。  何も読んでいないにもかかわらずよくも記事アップする・・
などと批判を受けるところですが、お許し下さい。
 ネット検索などで、大体のことが理解できるのですね。 しかし、これだけでは、申し訳
ありませんので、後日、どれかを読んでみたいと思いました。

          井原西鶴像
           (ウイキペディアより)


 西鶴は、15歳ころから俳諧師を志し、大成するのです。 とくに、一昼夜の間に発句を
つくる数を競う矢数俳諧(やかず俳諧)の創始を誇り、次々と記録を達成して行き、その
最高記録は23,500句といわれ、号を「二万翁」とも呼ばれたとあります。

 ついでですが、矢数というのは、もともと京都三十三間堂で行われた矢数(通し矢)の
武技に模して,一昼夜(24時間以内)にできるだけ数多くの矢を射てその数を競うもので、
通し矢の記録は 1662年に尾張藩士が6600本,68年に紀州藩士が7000余本を記録し,翌年
更に通し矢8000余本の新記録を樹立したそうです。この競技に刺激された西鶴は,77年に
大坂生玉本覚寺で1600韻の独吟に成功したのがその始まりであったといいます。 その後
西鶴はあちらこちらで、矢数俳諧をおこなっているのですね。 「西鶴大矢数」として
出版もしているとか。

         生國魂神社(大阪市天王寺区)
           (ウイキペディアより)

 

 1682年(西鶴41歳ころ)「好色一代男」を出版し好評を得るのです。 浮世草子として、
従来の仮名草子とは一線を画するものとして確立されています。本物を手にしたことが
無いので、ネット(ウイキペディア)からの抜き読みでザッと眺めてみますと・・

 井原西鶴の処女作。8巻8冊。大坂版と江戸版が同時刊行され、大坂版の挿絵は蒔絵師
源三郎といわれていますが、西鶴自筆という説もあり、江戸版は菱川師宣筆とあります
から、それは凄いかもしれません。

『一人の男性(世之介)の好色で自由気ままな人生を活写することにより、庶民男性の
一つの理想的な生き方を描きだすことに成功し、大人気を博した。また当時、庶民向け
の草双紙と呼ばれる読み物が多く発行されていたが、本作品は、それらの草双紙の中
でも官能的な色彩が濃く、かつ際だった人物描写、読者に強く訴える娯楽性により、
明らかにそれまでの作品群とは一線を画すハイレベルなものだった。』

『主人公・世之介の人生を、短篇のエピソード群でつないで、総じて一本の長編に表し
ている。源氏物語54帖にならい、作品に描く世之介の人生を7歳から60歳までの54年間で
切り取っている。一つ一つのエピソードを読むだけでも十分に鑑賞しうるが、全てを
通して読むことで、より味わい深い鑑賞が可能となる。』

 その官能性については・・、

『江戸時代文学の最高峰の一つと評されることもある本作品だが、実際に読んでみると
現代の感覚では官能性が非常に高く、有り体に言ってしまえばポルノグラフィである
(本作品の最終エピソードの表題は「床(とこ)の責道具(せめどうぐ)」である)。』

さらに、

『世之介が一生のうちに交わった人数について、「たはふれし女三千七百四十二人。
小人(少年)のもてあそび七百二十五人」と作品中で書かれている。当時は男色(衆道)
が庶民の間でも一般的で、特段珍しい行いではなかった』

最後に、“あらすじ”をそのまま(一部割愛)コピペさせていただきました。

『巻一、巻二は、7歳から20歳の青年期まで14章。わずか7歳で腰元に恋をして性を知り、
従姉、隣の女房、念者、撞木町の遊女、兵庫の湯女、清水坂の私娼、仁王堂の飛子、
後家、人妻、・・・貧しい家の入り婿まで。19歳の時に父から勘当を受けた。

巻三、巻四は、21歳から34歳まで14章。橋本の私娼、京の妾、鞆の髪長、小倉のたた
じやう、下関の稲荷町、大坂の蓮葉女、大原の雑魚寝、・・・江戸の屋敷女中、京の
十日限の手かけ、島原の遊女、死人の爪商など。諸国を放浪して色道修業に励む。

巻五から巻八は、35歳から60歳まで26章。母親から父親の遺産25000両を譲渡され、島原
の吉野、好三笠、藤娘、初音、野秋、・・・新町の夕霧、御舟、和州、吾妻、吉原の
吉田、小紫、高雄など有名な遊女が登場し、いきの世界が描かれる。長崎の丸山を最後に
天和2年神無月末、同行7人、山盛りの宝と責め道具を好色丸に積み込みに、海の彼方に
あるという女だらけの女護島をめざして船出し、それきり消息が絶えた。』

 また、1686年 に著した浮世草子「好色五人女」は、5巻5冊で、当時世間に知られてい
た実話に基づく 5つの独立した物語で構成されており、「お夏清十郎」「樽屋おせん」
「おさん茂兵衛」「八百屋お七」「おまん源五兵衛」とあります。
 なんとなく聞いたことのある名前が出てきています。子供のころ、よく内容も知らな
いのに「お夏清十郎」を聞いたことがあり、映画(林長二郎、田中絹代)を見たような
気がします。「八百屋お七」は、ご存知・・。

 で、この「好色五人女」の第一章
『姿姫路清十郎物語』(すがたひめじ せいじゅう
ろう ものがたり)と、それを1707年 に近松門左衛門が脚色して世話物の人形浄瑠璃に
仕立てあげた『五十年忌歌念仏』(ごじゅうねんき うたねんぶつ)は、登場人物の繊細
な心情にまで迫った物語性の高い秀作であると評価されています。
 お夏と清十郎の二人の墓は、姫路市内の慶雲寺にあり、今も毎年8月9日に「お夏清十
郎慰霊祭」が執り行われているとありました。


 また、近松門左衛門との関連でいえば、1683年に浄瑠璃大夫の宇治加賀のもとを飛び
出して道頓堀に竹本座を櫓揚げした竹本義太夫を潰すために京都から一座を引き連れて
乗り込んだ加賀掾が西鶴に作品を依頼し、一方、義太夫側は当時まだ駆け出しの近松門
左衛門の新作で対抗するといった、浄瑠璃の作品でやりあっていたのでした。

 注)「好色一代男」は、昭和36年に映画化されていました。
      増村保造監督、市川雷蔵、若尾文子、中村玉緒ほか 大映東京








 

 

 

 

 

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