蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

真田丸  (bon)

2016-11-05 | 日々雑感、散策、旅行

 目下人気のNHK大河ドラマ「真田丸」がいろんな波紋を起こしているようです。

 先日(29日)の東京支部同窓会での会長あいさつの中にも、その場所についての解説があった
ばかりですが、先頃手元に届いた会報にも、「真田丸の謎」(千田嘉博氏、奈良大学教授)や
会報別冊の「真田幸村と大坂の陣」(北川 央氏、大阪城天守閣館長)にそれぞれ面白い解説
がなされていました。

三光神社境内の幸村像           天王寺区が作成したジオラマ
  
    (大阪城観光HPより)             (天王寺区HPより)


 歴史的な事柄は、大河ドラマに譲るとして、ここでは、“真田丸の場所”について、すこし
具体的に見て行きたいと思いました。

 私ごとでまことに恐縮ですが、真田山といえば、戦後、私が疎開先から大阪に戻ってきた
場所が、天王寺区上本町2丁目でしたから、子供のころから慣れ親しんだ地名で、真田山
公園、その中に真田山プールがあって、小学生の頃、真夏の暑い盛りに長蛇の列に並んで、
プールに入った記憶があります。  また、三光神社などにも時々行ったりして、大阪城に
通じる抜け穴があるんだとか、そんな話題をかすかに覚えています。
 小学校は、市電を渡ってちょっと行った南区桃谷小学校で、中学は、清掘通りに面した
高津中学、高校が清水谷・・と、真田丸の地図を開くと、通学した学校がすべて入っている
のです。 そんなことで、何やらローカルな気もしながら、しかし、天下の真田丸なので、
ここにちょっぴり取り上げさせていただいた次第です。

 NHKドラマでは、ちょうど明日(11/6)、日曜夜 第44回「築城」がまさしく真田丸を築く
物語が展開されるかと期待しています。

  1614年(慶長19年)10月、真田幸村(信繁)は豊臣秀頼からの招きに応じて、蟄居先の
紀州九度山(和歌山県九度山町)を脱出して、勇躍、大坂城に入りました。 徳川家康は
諸大名に大坂攻めへの出陣を命じており、豊臣氏と徳川方が一触即発状態となっていたのです。

 大坂城は、北には淀川、西には海、東は幾筋もの川があり広大な湿地帯で自然要塞を呈し
ていましたが、南面が平坦な陸地であるため、幸村は、この南惣好構掘(空堀)の外側に
出丸(出城)を構築したのです。これが、「真田丸」なんですね。 しかし、大阪城天守閣
館長北川氏によれば、幸村と相前後して大坂城に入城した後藤又兵衛が、先に準備していた
のに、それを出し抜くように幸村が出丸を築いたので、両者の関係は一時相当険悪になった
と伝えられているそうです。

 そして、この真田丸を舞台に、徳川方の前田利常・井伊直孝・松平忠直・藤堂高虎らの
軍勢が攻め寄せ 激しい攻防戦がおこなわれましたが、幸村はこれらの大軍をものの見事に
手玉にとり、散々な目に遭わせて完勝した とあります。

 下に、地図を載せました。 真田丸は、現在の大阪明星学園付近を中心として、その周り
の寺々を含む一帯がそうであったと考えられています。 冬の陣の終了後、和議の条件に
よって真田丸は破壊されたそうで、ウイキペディアには、夏の陣の終了後に造成された小橋
寺町を境に、その西側が真田山、東側が宰相山と呼ばれるようになったとあります。
 1939年(昭和14年)に開園した真田山公園に、真田山町という町名が1965年(昭和40年)
に付けられますが、ここは、真田丸よりも南に下がったところに位置するようです。

     (google地図を加工しました)
     (私が育った家は、高校と小学校を結ぶ線と上町筋との交点にありました。)

 なお、心眼寺には、真田幸村出丸跡の碑があります。

        (ウイキペディアより)



 

この人も、この近くに生家があったそうです。

 

 

 

 

 

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