蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

応仁の乱  (bon)

2017-05-26 | 日々雑感、散策、旅行

 突然、申し訳ありません。

 これって、“人世 むなしい”で、1467年(応仁元年)に始まって、今年、550年に
あたるんですね。昨年には、中公新書『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(呉座勇一著)
が、瞬く間にヒットしたといいますし、今月初め頃にも宝島社『新説 応仁の乱』の
広告があったり、またその他にも目についていました。

 とにかく、内乱が11年も続いて武士だけではなく、足軽をはじめ町民や百姓までも
入り乱れた、無政府状態の京都の町は、ただ荒廃するばかりだったのでしょうね。
ずいぶん昔に読んだ、PHP文庫『蓮如』(二宮隆雄著)の中でも、そのくだりは次のよう
に描写(部分)されていました。

『応仁の乱がはじまった。 京で乱世を顧みずに、酒色にふけっていた将軍義政のもと、
室町幕府の二大勢力である山名宋全と細川勝元が、五万の兵で戦いを始め、山名方が西軍、
細川方が東軍として、名分無き大乱へと突入していった。~そのため京の街は壊滅的な
破壊が始まった。 戦火は上京の一色義直邸を炎上させた。つづいて細川勝久邸、山名
成清邸が焼かれた。その戦火は寺院にも及んだ。知恩院、三宝院、実相院が相次いで戦火
に焼け落ち、仁和寺、大覚寺などの門跡寺院も赤黒い炎に包まれた。~辻々で異臭が鼻を
ついた。殺されて鎧をはがれた裸の死骸が、折り重なって打ち捨てられ、野犬が腐肉に
喰らいついている。~』

 学校でも習いました(と思います)から、今更ですが、簡単におさらいをしてみました。
本当に“ひどい”、やるせない争いだったのですね。

 ウイキペディアには、「応仁の乱は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明
9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波
氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の
継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。明応2年(1493年)の明応の政変と並ん
で戦国時代移行の原因とされる。十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束し
たが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。」とあります。

 もともと、この下地として、鎌倉幕府末期頃から、名門武家・公家などの旧来の支配
勢力は、その既得権益が侵食されつつあり、室町幕府は成立当初から将軍の権力基盤は
弱く 細川、斯波、畠山などの宿老の影響を強く受けていたし、さらに彼らもまた その
領国の守護代や有力家臣の強い影響を受けているという風に安定していなかったのですね。
おまけに、当時、家督相続の方式が定まっていなかったことも相まってしばしば将軍家、
守護大名家に後継者争いや「お家騒動」を発生させる原因があったのです。
将軍、細川、
山名、畠山らもいざこざが絶えず、恐らく関連氏族も混沌としていたのでしょう。

 そんな時、将軍足利義政は、御年29歳にして、正妻 日野富子や側室との間に後継男子が
なく、将軍職を仏門にいる実弟の足利義視(還俗名)に譲ることにしましたが、義政は
まだ若く、これからも男子が出来る可能性があることから なかなか了承されなかったため、
仮に、今後男子が生まれたとしても、将軍職には就けないとの誓約書まで書き、将軍職
移譲に向けてことが進んだのです。 ところが、1年もすると、男子足利義尚が生まれ、
正妻の日野富子は、自身の子(義尚)を将軍に付けるため、山名宋全に接近するのです。
還俗までした義視の 後見人である細川勝元と山名宋全との間に大きな対立を招くことに
なったのです。

 その後も、将軍足利義政は、側近の伊勢貞親らの進言によって、斯波氏宗家の家督を
突然、斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えたり、さらに、足利義政の側近は、謀反の噂
を流して足利義視の追放、誅殺を図ったりしたため、山名宗全は一色義直や土岐成頼らと
ともに、不満を持つ足利義視と斯波義廉を支持し、足利義視は後見人である細川勝元を
頼ることになったのです。この時は、勝元と宗全は協力して足利義視の無実を訴えると、
足利義政は今度は、伊勢貞親を追放し、側近であった斯波義敏らも都を追われた。そして、
斯波家の家督は元の斯波義廉に戻されたのでした。

 なぜこのようなことになったのかは、計り知れないところですが、いずれにしても毅然
としたところがなく、一本筋が通っていないことから、足利義政の政治力は著しく低下し
ていったのでしょう。このような風潮は、のちの下剋上の片鱗を匂わせているともとれる
のです。

 これで事態は収まるどころか、不満を抱いた山名宗全、斯波義廉の支援を受けて、突如
畠山義就が大軍を率いて上洛したので、将軍義政は、直ちに畠山義就を引き入れますが、
それを許さない細川勝元は、御所を占拠して将軍から畠山義就を追放するよう仕向けるの
ですが、妻富子がこれを山名宗全に漏らしたためこの話はお釈迦になるばかりか、宗全の
立場が強くなり、勝元、宗全は決定的に対立関係へと発展するのでした。

     応仁の乱勃発の地  (京都市上京区、上御霊前神社鳥居前)
         (ウイキペディアより)

 

 1467年1月にはそれぞれの武将の動きを活発になり、兵を挙げたり火を放つなど不穏な
状態となり、勝元も四国他から兵を京都に集結させるなど緊張が高まってきました。3月
に元号が文政から応仁に改元され、細川勝元側は京都周辺の主要な橋を焼き、陣を固め、
一方、山名宗全方は五辻通大宮東に本陣を置いたのです。   

 ここに、1467年5月応仁の乱本戦が始まりました。『応仁記』によれば細川方(東軍)
が16万、山名方(西軍)が11万以上であったと記されています。前半は京都を中心とした
山城一帯が主戦場でしたが、次第に地方へ戦線が拡大していったのです。

 東西両軍の陣容は下の表(部分)に示す通りですが、同じ氏族の中でも敵味方に分かれ
たり、途中で寝返りしたり、戦々恐々の中であったのだろうと推測されます。また、特徴
的なのは、両軍とも兵力不足から、正規の武士身分でない足軽を大量に雇い入れているこ
とです。足軽というのは、盗賊や凶悪人を多く含んだ無法者の集団に近く、市街の放火や
略奪を頻繁に行ったそうで、まあ、むちゃくちゃだったのでしょうね。


 
 
 
    ※◆は西軍から東軍へ寝返った武将、★は東軍から西軍へ寝返った武将、
     ×は応仁の乱終戦までに死去した武将を示す。
 

  幕政の中心人物である勝元と宗全が争ったため、結果的に幕政に関与していた諸大名は、
しかたなく戦わざるを得なくなったというふうに、戦い自体にはさしたる必然性もなく、
戦意がない合戦が長期間続いたことになるのですね。

 当時の、各大名の勢力図がありましたので、ここに引用させていただきました。

       勃発当時の勢力図 (ウイキペディアより)
        
           青:東軍  黄:西軍  黄緑:両軍伯仲

 

 結局このような長引く戦いを通じて、室町幕府の家格秩序は崩壊し、身分秩序が流動化
することになったのです。また、守護の財政は逼迫し、権威と財政を失った守護は、国人
や家臣団に対する支配力を著しく低下させていったのです。 この従来の家格秩序を破る
風潮は下剋上と呼ばれ、戦国時代を象徴する言葉となるのです。 この戦いによって、
日本のこれまでの精神性が変化したとみられ、戦国時代へと続くことになります。ここに
歴史の転換点とする見方が頷けるのですね。 戦国時代には、ご存知の信長や、秀吉・・
その他多くの有名な武将、ヒーローが活躍し、歴史の中でも面白く語られて、ある意味
わかりやすいのですが、この応仁の乱は、どう見てもシャキッとしたところがないわりに、
長期間、壊滅的な戦いが続けられた不幸だけが残ったようにも思えるのですね。

 応仁の乱の終息について、ウイキペディアに次のように記されていました。

『この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いた。しかし惰性
的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま終わった。主だった将が戦死することも
なく、戦後罪に問われる守護もなかった。』と。

 

 

 

 

 

 

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