つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

銀盤に咲いた花一輪。~ カタリナ・ビット。

2018年02月12日 20時58分18秒 | 手すさびにて候。
お隣・韓国において「平昌五輪」が開幕した。
下馬評では、複数の競技で日本選手のメダル獲得が期待できると聞く。
皆、手が届くだけの実力を備えているのだとは思うが、
世界の強豪が集まる一発勝負においてトップ3に残るのは、やはり時の運。
実り多き冬を願うばかりである。

…さて、皆さんも、歴代の冬季五輪で心に残るシーンは、幾つかあるだろう。
僕のそれは、平成6年(1994年)に開催された「リレハンメル大会」。
不定期イラスト連載・第七十ニ弾「カタリナ・ビット」の演技だ。

昭和40年(1965年)「東ドイツ」シュターケン生まれ。
彫が深く「ブルック・シールズ」を連想させる美貌。
ゲルマン女性らしい、大柄で引き締まった抜群のプロポーション。
時に、露出過剰だと眉を顰める意見が出る程、斬新で大胆な衣装。
ジャンプの技術は乏しかったが、恵まれた容姿を十二分に活かし、
観る者を釘づけにして“銀盤の女優”と呼ばれた。

サラエボとカルガリー、冬季オリンピックで2大会連続金メダルを獲得。
世界選手権でも4度の優勝。
堂々のキャリアを積み重ね、昭和63年(1988年)に競技生活を引退。
当時の共産圏では珍しいプロスケーターに転向。
やがて、ベルリンの壁が崩壊し、欧州の風通しが良くなると、
「ビット」への風当たりは強くなっていった。
旧体制の象徴だった過去、
シタージ(秘密警察)との蜜月が槍玉に上がったのだ。

そんな頃、オリンピックにも「プロ容認」の扉が開き、
新たな目標が生まれた。
『統一ドイツ代表として、もう一度、滑りたい。』
猛練習の末、ブランクを克服して、その権利を得たものの
リンクの上の戦いは様変わりしていた。
異なる3回転ジャンプを、複数盛り込む演技構成がスタンダードに。
現役復帰間もない、表現力が身上のスケーターには高い壁。
しかし、彼女は“銀盤の女優”だった。

以前と比べふっくらした豊満な身体を赤いレースの衣装に包んだ「ビット」が、
満場の拍手に迎えられて滑り出す。
選曲は「花はどこへ行った」。
瓦礫の街「サラエボ」への鎮魂を捧げ、反戦と平和を訴えた。
特に後半は、圧巻の出来栄え。
打楽器のリズムに合わせ、軍靴を鳴らし行進する兵士を演じた。
結果は6位入賞だった。

大会前から耳目を集めた「トーニャ・ハーディング」と「ナンシー・ケリガン」の悲喜劇。
優勝を浚った「オクサナ・バイウル」の熱演。
「陳露」の中国初の銅メダル。
周囲の喧騒を他所に「カタリナ・ビット」だけが別世界にいた。
その頭上から見えないピンスポットが当たっている気がした。

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