(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

エッセイ 男の嗜み(たしなみ)(その一)

2017-07-27 | 読書
エッセイ 男の嗜み(たしなみ)

 「嗜み」というような言葉はあまり使われることもないようだ。古語例解辞典(小学館1987年))を開いてみると、はじめに”芸能・教養を日頃から練習・稽古して、ある水準の達していること。それから、日頃から心がけておくこと。心構え、心がけ、とある。これから分かるように若い人にはあてはまらず。むしろ今でいう中高年の人にあてはまる表現である。また、嗜むという動詞では、愛好するという意味もある。

 ”若い時分はさして面白いとも思わなかったある作家の魅力に気づき、大ファンになったのは不惑の頃であったし、ジャズやクラシックが心の奥のほうで心地よく響くようになったのは50歳を超えてからだ。いい地酒がしみじみうまいと思えるようになったのも、この10年ほどである。”(『男の嗜み』(川北義則 2013年12月 PHP)より)
  注)記事の最後に「余滴」として、川北さんのことを紹介しておいた。

 で、「嗜み」という言葉を、もし外国の人に説明しようとしたら、どう表現したらいいか、考え込んでしまった。日本人には、以心伝心でわかり得ても外国の人には、なかなかわかりにくい言葉である。それやこれやで、川北さんの本を引きつつ、男の嗜みというものを考えてみた。一言で表現するとすれば、齢を重ね、いろいろ経験を積むことで、初めて分かる良さや味わいというのがあり、これが「老いて(成熟して)旨し(うまし)ということになるだろう。趣味をたしなみ、味あうには、やはり人間的な成熟がかかせないようだ。ちなみに、「嗜」という字を分解すると、「老いの口に旨い」と読める。


 まず趣味について。と、云ってもピアノを習う、絵画を描く、オフロードをバイクで走るといったことからは逸れて、日常の細々とした些末なことを疎かにせず、それ自体に物事の妙味や味わいを見出して、幸福を感じることである。

 ”人生を幸福にするには、日常の瑣事(さじ)を愛さねばならぬ。雲の光、竹のそよぎ、群雀の声、行人の顔・・・あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ”
                      ~『侏儒の言葉』(芥川龍之介)より

また『散歩学のすすめ』の著者である評論家の松永伍一さんは、散歩についてこう言っている。

 ”散歩とは自分と出会う最上の方法ですから、私はあえて散歩学とか路上哲学と云っています。鳥の声や風の音を聴き、雲を仰いでいると、生かされている喜びを感じる。”

天気のいい日には、私も住んでいる”島”のなかにある周囲5~6キロほどの散歩道を歩いている。今は半夏生の葉が白くなり、また百日紅が咲き出した。ユリノキの新緑は日の光を通してさわやかに輝いている。時にはベンチに寝ころんで青い空に浮かぶ雲を眺めることがある。ふっと口をついて出る句はメモをとる。歩くコースは、必ずしも決まったコースではなく、気分でまわり道をする。海辺では、白いすじの入った小鳥を見かけることもある。ハクセキレイだ。こんな散歩をするのは、やはりある程度年を重ねてからだ。これも、嗜みのひとつかもしれない。

 ”コンサートには自転車で行く”という一節がある。筆者がクラシック好きの友人からこんな質問を受けた。「コンサートの余韻を楽しむために何かしていますか?」、と。
演奏の感動をいかに長持ちさせるかということである。街の雑踏を歩いて駅に向かうと、人混みと喧騒、派手なネオンが待っている。その友人はあれこれ考えたすえ、コンサートには自転車で行く。好きなルートで好きなように帰れる。感動の余韻をそっくりそのまま家に持って帰ることができると云うわけである。私の場合は、、独りで行くことは滅多にない。音楽を愛好する友人などといく。コンサートがはねたら、洒落たカフェやバーの席に座って、音楽談義を交わす。終わったら、すぐ電車で帰るというのでは、余韻はない。

 好奇心! いつまでもボケないためには好奇心が大事だと思う。作家の城山三郎さんに、「生涯一書生」という言葉がある。

 ”生涯現役という言葉は好きじゃない。そういって悪く居座る人もいるからね。そうで はなくて、「生涯一書生」。何でも勉強すれば、また新しいエリアが広がる。次から 次へ勉強してゆけば、新し自分が発見できるし、可能性も広がっていくでしょう。”

それにはテレビを見る、新聞を読む、人と話す。今なら、インターネットで色んな情報がとれる。常に好奇心を持って五感を働かせ、好きな旅や食や音楽、ファッションなどの情報を集めるようにしたい。すると面白いもので、何気なく見ていた雑誌の小さいコラムなどに、今まで知らなかった秘境の温泉宿を見つけたりする。興味を持って好奇心のアンテナを張っていると、そこに情報は寄ってくるのだ。好奇心があれば、人間いくつになっても学べるし、遊べるのである。卑近な例をご紹介しよう。トイレの壁に下げてある、小さなカレンダーをみていたら、この七月のところに、実に美しい青い海とそこを走る大橋があった。山口県下関市と対岸を結ぶ角島大橋である。8月に入ったら新車のSUVが来るので、その車で走って行こうと思っている。そうして、角島の人たちと話をしたら、海や空や自然の美しさを語ってくれるだろうと、今から楽しみにしている。後期高齢者が運転したら、危険だ・・・? いやいや、だから万全の衝突防止装置を搭載した車にしたのである。あはは・・・

          


 今は梅雨時である。いやだ、不快だと言う人も少なくない。しかし、梅雨あればこそ、水をたっぷりと湛えた川や湖があり、美しい樹林があるのだ。そう思えば、梅雨時にもちょとした楽しみを見つけることはできる。ホタルが飛び交い、紫陽花が色鮮やかに染まる。浴衣にベランダで、打ち水をしてみる。日が落ちたら、風鈴の音を聴きながら、線香花火で遊んでみる。それだけで心に涼が得られて、リフレッシュできる。

 最後に歌舞伎の話を。外国暮らしを経験した日本人がかならずといっていいほど、口にする言葉。「日本人は自国の文化を知らない。もっと日本のことを知らないといけない・・・」 歌舞伎は、日本の伝統文化の中でも、その最たるものだ。歌舞伎は音楽、舞台芸術、着物、台詞まわし、物語など、日本の文化が凝縮された最高のエンターテインメントである。ある程度、事前に勉強しておいて、幸四郎や染五郎など好きな役者の舞台を見に行きたい。昨年の夏に、京都の花街の一つである上七軒で遊んだおりに、初めて隈取をつけてみたが、顔にカラフルな線を描く「隈取」は、歌舞伎の象徴であり、実際につけてみると面白い。また、歌舞伎座で買って、おみやげにすると、きっと喜ばれるだろう。



 この著者の本の中には、なぜか読書のことが出てこない。これは、あんまりだと言うわけで、一章を設けて語ることにした。

読書の楽しみを語るとなれば、まずはギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの私記』を取り上げなければならない。この人は、イングランドのデヴォンシャー州の片田舎に隠棲して、四季の移り変わりを楽しみ、ひたすら読書にふけるのを無上の楽しみにしている。その文章のなかに、こんな一節がある。

 ”文章の一節を朗読したくなる時、誰かそばにいてそれを聞いてくれたら、どんなに楽しいだろうと思うことが時々ある。まったく、切実にそう思うのだが、さて、しかし琴線のふれあうような理解をどんな場合にも期待できる人間が、果たしてひとりでもこの世にあるだろうか。いや、おおよそのところでいい。鑑賞の点で私とほぼ意見の一致する人があるであろうか。理解力のこのような一致はまことに稀有なことだと思う。全生涯を通じてわれわれはそれに憧れている。”

 もしこいうことがあったら、それは人間として成熟し、老いてうまし(嗜み)の心境に達したと言えるのではないか。

しかし、私は、なかなか、このような隠栖の境地には至らない。むしろ、読書を通じて、新たな好奇心に掻き立てられる。たとえば、『自立へ向かうアジア』(世界の歴史 27中公文庫)を読むと、戦前の日本が中国の自尊心を踏みにじり、傷つけるようなことをしてきたのかがよく分かる。このことを踏まえておかないと、対中国外交は戦略的になりたたない。『世界史を創ったビジネスモデル』(野口悠紀雄 新潮社)では、ローマ帝国の盛衰の歴史に学ぶことが、現状の日本では欠かせないことがあると痛感する。シーザーのあとをついだアウグストゥスはローマ帝国の制度的な基礎を築いたのだが、その根源は異国に対する寛容な政策であり、また巨大な官僚制度のない自由な経済体制であった。今の日本は移民に対して不寛容であり、また統制経済である。
 
最近、NewsPicks といネット上の情報源にアクセスしている。これは広い意味での経済情報(政治をふくむ)に特化したニュース共有サイトである。有料ではあるが、一つ一つの情報に専門家がコメントを書き込んでおり、読むに値する。最近の記事のひとつに中国IT企業の現状について知る手がかりを書いた記事があった。それによると、『最強の未公開企業 ファーウエイ』という著者の紹介があった。中国のIT企業は、今やアメリカの後追いやモノマネではなく、積極的な開発投資で独自の発展を遂げつつある。ファーウエイはスマホの巨大メーカーとして知られるが、本来は先端技術開発に積極的な通信機器メーカーである。2015年の国際特許出願件数で世界の首位を走っている。日本にいると、このような動きを知る手がかりがなかなかまい。やはり英語の原書を読まねばならない。

 話はかわる。ごく最近手にしたミステリーの本、『検事の本懐』(柚月裕子 宝島社)について。これは、己の信義をつらぬく若手検事の活躍を描く人間ドラマである。その中で、「罪を押す」という一節がある。万引き犯を送検するかどかで、上層部ともめる検事。彼は取り調べの原点に立ち返り、真相を探る。時計店で時計を万引きした男に、なにか違和感を感じた検事は、犯人と目される男の内面をも読み取り、真相を明らかにする。その結果、不起訴、釈放となった。上司の筒井は、取り調べを担当した検事の左方について、こう感じた。

 ”人間性に年齢は関係ない。その人間が持つ懐の深さは、生きてきた時間の長さではなく、その中で培われた価値観や倫理観によるものだと思う。若くても懐が深く、底がみえないやつもいれば、年をくっていても、底が透けて見えるやつもいる。”
          


このミステリーを読んでいた、この箇所に来たときは、静かな感動を覚えた。まだ若い(と思われる)新進の女性作家が、よくここまでの人間ドラマを書きあげたなあ、と。
そして、このようなことに感動を覚える私自身にも、若い頃には味わえない「嗜み」ができてきたのだとを感じたのである。そう、この場合は、齢を重ね、いろいろ経験を積むことで初めてわかる良さ、味わいを表現して「嗜み」というのであろう。

あれこれ読書について、書いてきたが、何もむずかしい本を読むだけがいいとは思わない。たまには、長田弘や石垣りんや茨木のり子などの詩集をひもとくのも悪くない。

 辻邦生の本を味あうようになったのは、50歳代に入ってからのことだ。それに、堀田善衞の著作もそうだ。なかなか若いときには、味わえなかったのが年を重ねてから、その説くところや思想に共鳴を覚えるようになった。


 遊びの章では、いろいろ書いてあるが、うっかり引用すると誤解を招きかねないので一一言記すのみにする。

 ”年を重ねるごとにカッコよくなる男というのは、たいてい若いときから遊び上手で趣味も豊かだ。仕事は男の中身をつくるが、遊びは男の器を大きくする。仕事だけで遊びや趣味を知らない男は、教科書と同じで、正しいけれど堅苦しくて面白みに欠ける”

 この本のタイトルは、『男の嗜み』なので、女性の立場は、どうのこうととは書いていない。男だけの勝手な放言のような気もする。


(食と酒)

 品のよい酒飲みという一文がある。

 ”私は、洋食系のときはシャンパンやワインも飲むが、そう酒に強い方ではない。不思議と、なぜかシェリー酒には強い。和食の場合は日本酒が中心となるが、せいぜい  一、二合くらいだ。このように自分の酔い加減を知ったうえで、①自分がそう見られて いるかを常に意識する。②聞き上手になる。③必要以上に相手に踏み込まない。”

 さて、私自身ははどうかと振り返ってみる。余り酒に強い方ではない、雰囲気を楽しむという方である。回りとの関係でいうと、しずかにしみじみと飲みたい。だから放歌高吟は、好きではない。男とか女に限らずであるが、状況もわきまえず、自分のことばかり 話をする人間がいる。そういうひとは、幸せな人生を送ることにならないのではないか 、と同情してしまう。それから、やたらプラーベートなことに踏み込んでくるひともい る。ほっといてくれと、いいたくなる。だから、こちらからも踏み込まない。

 寿司屋の作法について。居酒屋ではないので、つまみと酒はほどほどにして、早めに握 ってもらう。鮨がでたら、酒はそこまでにしてお茶をもらう。寿司はすぐ食べる。乾か さない。ぐだぐだ長話もルールに反する。これらの作法は、天ぷらを食べに行くときも そうだと思う。親方が、丁寧に準備してネタをあげてくれたら、すぐ食べることだ。
 天ぷらやの作法について、作家の池波正太郎さんが、こういう名言を残している。

  ”天ぷら屋に行くときは腹をすかして行って、親の敵にでもあったように揚げるそばからかぶりつくようにして食べていかなきゃ、天ぷら屋のおやじは喜ばないんだよ   
  ”

 ここで少し脱線をすることにする。お許しいただきたい。筆者も、たまには一見の客と なって、未知の酒場にくりだすのも悪くない・・・”、と云う。「あまから手帖」などの雑誌をみていると、太田和彦さんという人が書いている居酒屋探訪の記事を目にすることがある。文章に味があり、品もある。この人は資生堂の宣伝室 デザイナーを経て、デザイン事務所を設立した。東北芸術工科大学の先生もしていた。 その本業のかたわら日本各地の居酒屋を訪ねあるいている。著作もすくなくない。読んでいるうちに、すっかりファンになってしまった。

 さる年、東北大震災の跡地をドライブして回った時も、終着地の気仙沼で<福よし>という居酒屋を訪ねた。主人の村上健一さんは、翌2012年の8月、先頭をきって、店を再建し港地区にに初めての灯りを灯した男である。魚介のうまかったこと、地元の酒「男山純米大吟醸」のうまかったこと、おやじのきっぷの良さに魅せられことは、今も忘れれられない。ここは、太田さんのおすすめであった。


                    
     
           (下はキチジの焼き魚)

 その太田和彦さんが、こういうことを思いついた。

  ”東京に住み、そこで働き、生活してきた。とくに不満はないが、ある年齢になった ころから別の場所に住んでみたきなった。・・・東京とは違う文化を感じるのは関西と 沖縄だ。そこに住んで、異なる言葉、人情、味に浸りたい。しかし一生住む程ではない 。その土地の人になりたいのではなく、しばらく住んでみたいのである。一、二年でい い・・・とは云うもののその一、二年はなかなか実現できない。と、云うわけでせめて 一週間、仕事も家庭も捨て、単身でひとつの町に住んでみようと考えた。スケールは小 さいがのが情けないが、まず実行。一週間、好きなところに引っ越して毎夜酒を飲もう 。ささやかな夢の実現だ。行く先は京都に決めた”

 その結果は『ひとり飲む京都』という本になって、結実した。夏と冬の二つの季節ごと に一週間、京都に滞在してレポートにまとめた。いやいや、これはなかな か読み応え があり、味わい深い。 今、じつは私も同様のことを考えているのだ。多分、秋になると思 うが、京都に連泊して、飲み歩き、エッセイに仕立てようかと思っている。何のため? それは、好奇心があるからとしか言いようがない。まあ、アホに近いかも。何時という ことは、ここでは明示しない。もし、いついつよ書いたら、飲み友だちから、すぐお誘 いがかかっってきて、ゆっくり酒食をたのしむということにならないからだ。

 と云うようなことを書いていて、なんだかつまらなくなってきた。小さいなあ。それか ら、読書の楽しみっていっても、ギッシングが書いた「ヘンリーライクロフトの私記」 にあるように片田舎に隠棲して古典を読みふける・・・それは自己満足に過ぎないなあ と 。坊主が、庵にこもって自己修養につとめ、修行しても、それは社会のためには何 の役にも立たないように。

 それに本をたくさん読んでいれば、教養が身につき、思索する力が得られると思うよう だが、そうではない。 ただ本を読んでいればいい、というわけではない。読んだ上 で自分なりの思索を巡らしてみることが大事だ。だから、ヘンリー・ライクロフトや孤独を好んだアメリカの作家・・・メイ・サートンのような生活・人生は私には似合わない。ただ、彼女のいう、”「今が人生で最良のときです。年をとることはすばらしい」(『70才の日記』)には共感を覚えるが・・・。

 えっ? 急にどうしたのかって? それは、この文を書きながら、ちょっと休憩をと、ネット上の記事を読んだからなのである。それは「フェイスブック」の創始者にしてCEOのマーク・ザッカーバーグ氏が、この5月にハーバード大学の卒業式で行ったスピーチである。弱冠33才の若者が「目的」を持って取り組むことの重要性を説いたのである。篠突く雨の中、大勢の聴衆を前にして、”誰もが目的感を人生の中で持てる世界を創り出すこと。目的こそが本当の幸福をつくる、と。そして今の世代の課題として格差の問題/気候変動の問題/病気についてのヘルスデータと遺伝子のデータを集めること/オンラインで投票できる民主主義・・・。視聴していて胸が熱くなってきた。この熱く語る姿勢には共感を覚える。読書の世界に閉じこもっている場合ではない・・・と! ぜひ一度聞いて欲しい。

          


         


(続く)(その二)では、旅について、お洒落について、そして生き方について語ります。アップは一両日中です。。









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