(新)緑陰漫筆

草野ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
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読書『町人学者』ー浅田常三郎評伝〜および理研のこと

読書メモ『町人学者ー浅田常三郎評伝』(増田美香子編 毎日新聞社 2008年4月)、および理研のことなど

 井深大とともに町工場であった東通工を世界のソニーに育て上げた盛田昭夫が大阪大学(通称阪大)物理学科卒業の技術屋であったことを知る人は、意外に少ないのではないか。盛田は、ソニーの営業面なかんずく資金調達で大活躍をしたが、創業当初は始めた事業が軌道に乗らず経営不振にあえいでいた。その頃盛田は井深大とともに恩師浅田のもとをたずねている。”もう、ダメです”と報告した盛田に対し、浅田は十万円の資金援助を申し出た。代りに、盛田は、ソニーの前身である東京通信工業のボロ株を残して帰った。のちにこの「ボロ株」は、けたはずれの価値を持つことになる。

 盛田は、愛知一中から旧姓の八高(のちの名古屋帝大)に進学した。盛田は高校3年の時に進路相談で、阪大の浅田常三郎の研究室を訪れた。そこで盛田は

 ”私はその散らかった研究室に足を踏み入れ、教授と顔をあわせたとたん、彼を好きになった。生き生きした目をした背の低い太った人で、、鼻にかかった大阪弁でよくしゃべった。冗談をいいあうのが大好きで、教授という立場にありながら、すこしも偉ぶった態度をとらなかった・・”

以後、盛田は阪大理学部物理学科で、浅田の教えをうけることになる。

  〜それ、なんでだんねん〜

 浅田は、”物理学を象牙の塔に押し込めず”、物理学の応用展開に努め、戦後、エネルギー効率の高い蛍光灯の開発、金属チタン精錬法の開発、人工降雨・融雪、ベータトロンの開発やそれを利用した非破壊検査技術の研究など産業界に貢献する多くの業績を残した。この本は、浅田を心から敬愛する門下生たちが、まとめあげた浅田常三郎の評伝である。浅田の興味深い人物像が巧みに描き出されている。

ところでこの本のタイトルは「町人学者」である。町人学者といえば江戸時代に両替商升屋の番頭として活躍し、かたわら天文学・地理学・歴史、経済学・医学などの広い分野において、独創的な意見を発表しのちに「夢の代(しろ)」という著書を発表した山片蟠桃のことを思い浮かべる。浅田は、その逆である。帝国大学の物理学者でありがながら、産業技術への関心が深くその物理学の知識を応用展開して戦後の産業発展に尽力をした。

 大分前置きが長くなってしまった。浅田は、堺市で育ち難関の三高から東京帝大理学部物理学科に入学した。時に大正10年(1912年)。この頃世界の物理学は、量子論と「相対性理論を双曲に大きく変貌しつつあった。実験物理で抜群の成績を誇った浅田は、長岡半太郎の研究室に配属された。原子物理で知られた長岡は、明治36年に「土星形有核原子模型」の仮説を発表し、原子核の存在を予見していた。東大物理部長の長岡は、新設された理化学研究所の研究員になった。当時の研究員の名前を列挙すれば、池田菊苗(オリザニン)・鈴木梅太郎(ビタミンA)・本多光太郎(磁性材料)大河内正敏(三代目理研所長)、喜多源逸(工業化学)など俊秀が綺羅星の如くならぶ。この理研時代と長岡の薫陶が、後年の浅田に大きな影響を及ぼしたことは、想像に難くない。理研については、すこし古くなるが『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋 宮田親平 1983年7月)という名著が残されている。

さて東大で長岡研究室に入った浅田は、講義を本郷の理学部で受けつつ、実験を理研で行った。浅田の勉強法は、 ”限られた時間と労力で効果的な勉強を読書で得るには乱読すべきではななく、良い本を熟読すべき”、という。1930年に大阪大学が創設され、長岡半太郎が総長となった。浅田も、それに伴って阪大の物理学科の教授となった。その大阪弁での講義は当初から異色をはなっていた。みな超然とした学者像を思い描いていたが、童顔で教壇にたった浅田のイメージがあまりに違うので、学生たちは驚いた。

 ”一銭銅貨をおきましてな、かかとで踏んでキリーッと舞まいねん”

二枚の銅貨に挟まれたルビーはこなごなに砕かれていた。模造品だったのである。天然ルビーで同じように実験してみせ、ルビーの結晶の丈夫さを示してみせた。肩肘はらない講義が浅田の真骨頂であった。

 「物理が化学を、化学が物理をやっても一向にかまいません」
 「あまり文献を読みあさると、独創力が鈍る。なんでもやってみることだ」

これは理研での大河内所長の教えである。そのとおり浅田は分野にこだわることなく、次々に実験に取り組み、新しい取り組みを展開した。光通信につながってゆく光線電話、戦時中の焼夷弾の消夏法、、原子爆弾が投下されたあとの現地調査、また終戦直後には、はやく立ち直らねばと理学部の機能回復に奔走した。焼け跡から部品を拾いあつめ、ベータトロン(電子加速器)を完成させた。この装置は、高エネルギーのエックス線を発生させるので、いろいろな透過写真の撮影に使われた。原子力用高圧容器の全面放射線検査も容易にできるようになった。その後も日本最初の金属チタン精錬法を企業と共同開発、日本初の人工降雨実験を大阪生駒山山上で行うなど、「社会の役にたちたい」という思いから、いろんな実験に取り組み、また企業の技術相談にも力を貸した。書き出せばきりがないが、要は実用物理学の展開である。

 ”浅田の口癖がある。”なんでだんねん” 議論や説明の中で、ふとした疑問が生じると、「それはなぜですか?」と研究者にでも学生にでも間髪をいれず問いかけた。そこには物理の根源的な問いかけが含まれていることが多く、新しい発見につながることもしばしばだった”
ー余談になるが理研に遅れて参加した寺田寅彦も口癖も同様であった。(「科学者たちの自由な楽園」より)ー ”彼は温顔をかたむけ、ソフトな関西のことばで語りかけた。「ねえ君、不思議とは思いませんか・・・”

 社会に役にたつ実学をめざした浅田は、その親しみやすい庶民的な人柄もあいまって多くの学生たちに慕われた。1966年、浅田の上京にあわせ、門下生たちによる浅田を囲む会が催された。幹事は盛田昭夫だった。浅田が亡くなった今も、東京浅田会は続いている。

          〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 浅田は後年関西のさる企業に請われ、基礎研究所の設立に関わった。若い頃、その研究所ともつながる中央研究所に席をおいたものの一人として懐かしい思い出もある。この本は、その頃の先輩の一人であり、また著者の一人でもある岡田健氏からご紹介いただいた。本ブログ上でお礼を申し上げることをお許しください。


 








 








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長岡半太郎オリザニン鈴木梅太郎本多光太郎理化学研究所毎日新聞社エネルギー効率非破壊検査東京通信工業

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コメント

  • 貴重な人柄
  • (龍峰)
  • 2009-02-22 21:05:57
  • 浅田基礎研究所という名前しか知らない小生には、物理学者としてユニークな浅田教授の偉さをあらためて知りました。昨今の日本には少なくなった貴重なキャラクターのように感じます。これも偏差値の負の部分でしょうか。

  • お礼
  • (ゆらぎ)
  • 2009-02-23 15:20:45
  • 龍峰様
     お目通しいただき、ありがとうございます。なかなかユニークな方でしたね。こんな人は、もうあまりおられないような気がします。