六花の舞。

「六花の舞」、Ⅰ・Ⅱともに完結しました。最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございましたm(_ _)m

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ダイヤモンド・エッジ<第二部>-【55】-

2017年03月15日 | 六花の舞Ⅱ.


 あ、今回久しぶりに本文が少し短めです♪(^^)

 なので、これまでの言い訳事項含め、ちょっと書きたかったことについて色々。。。



 >>300点越の秘訣(2)PCS

 多くの若者が、ジャンプの成功の可否ばかり気にして、それで自己最高得点が出たとか出ないとか言っています。しかし自分の最高得点を伸ばしていこうと考えるなら、気にするべきはPCSです。これこそ、そのプログラムの評価そのものであり、スケーターの実力を反映する数字だからです。

 もちろん誰もがPCSをなんとかして伸ばそうとしているのですが、正しい方向性でPCSにつながる演技をしている選手は少はないな、と感じています。よくある誤解は、「演技力を磨いて、PCSを伸ばそう」と考え、陸上でのダンスやバレエを習うパターンです。でもこれはポイントがズレているでしょう。

 ルールをしっかり勉強すれば簡単にわかることです。スケートにおける演技面の評価は、5つの項目からなります。「スケーティング技術」、「つなぎ」、「演技」、「振付・構成」、「音楽の解釈」(2016年改正前)です。つまり演技面とは、立ち止まって腰を振ったり、感情的な様子で演技をしたり、顔の表情で熱演することではありません。あくまでも、この5項目なのです。これを勘違いしていては永久にPCSは上がりません。

(「チーム・ブライアン~300点伝説」ブライアン・オーサー、[監修]樋口豊、[構成・翻訳]野口美惠さん/講談社より)



 >>フィギュアスケーターといえば、全員バレエの素養があると思われがちだが、実はそうではない。たとえば次のプログラムが「ドンキホーテ」だから、○○バレエ団の人にちょっと手ほどきを受けた、という程度のバレエトレーニングでプログラムを完成させる選手も、決して少なくない。

 そのためスケーターがバレエ音楽を使ったプログラムを滑ると、その道のプロから見ると「なんちゃってバレエ」となり、見られたものではないという声もきく。あくまでスポーツであり、舞台芸術と同列に見てはいけないものなのだ。

(「パーフェクトプログラム~日本フィギュアスケート史上最大の挑戦~」田村明子さん著/新潮社より)


 なんとも今更な基礎知識ですけども(^^;)、PCS(5コンポーネンツ)は、「スケーティングスキル(SS)」、「つなぎのフットワークと動作(TR=トランジション)、「パフォーマンス/エクセキュージョン(PE)」、「振り付け・構成(CH)」、「音楽の解釈(IN=インタープリテーション)」の五項目に分かれています。

 それで、どういうのがそれぞれジャッジ目線で見て「いい演技」として評価されるのかっていうのを、ちょっと本から抜き書きしたかったんですけど、長くなるので(汗)、わたしが書きたかったことについてのみ書こうと思います(すみません^^;)

 ここでオーサーコーチのおっしゃってる、PCSを上げようとして陸上でのダンスやバレエを習う……っていうのはようするに、田村明子さんの書かれている「その時だけちょっと習う」とか、そうしたことを指してるんだろうなって思うんですよね。

 まあわたし、バレエについてもまるっきり詳しくないんですけど(見るのが好きなだけ)、チェンくん見てて、バレエがフィギュアスケートに及ぼす影響ってすごく大きいんだなってあらためて思ったというか。。。

 一応、理論としては同じスピード・同じ踏み切りの仕方で素早く軸を作って回転すればジャンプは成功となる……のかもしれません。

 でも、練習ででも何度も何度も繰り返しジャンプを跳んでるうちに、その選手にとってのクセが蓄積していくって言いますよね。

 コーチはそれを横で見てて、「だんだんこうなって来てるぞ」とか「今の失敗は○□だったのが原因だ」とかって教えてくれて、選手のほうでは修正していくのかな……と思います(想像☆)

 なんていうか、チェンくんってそのあたりがなんだか凄いなって思ったというか(^^;)

 見た印象としては、跳んだ時に常に同一というか、一応理論としては「同じスピード・同じ踏み切りの仕方」なんて言っても、一回一回同じようでいて違うジャンプを跳ぶといった側面もあるでしょうし、早々毎回同じようには……と、素人的にはそう思うのです。

 チェンくんのあのバランス感覚の良さっていうのは、バレエで養った影響というのもかなり大きいのではないでしょうか。

 ええと、何か悪いジャンプの例として上げるみたいでわたしも心苦しいんですけど(汗)、四大陸で見たアレーヌ・シャルトランちゃんのジャンプを見てて……もっと軸がスッと真っ直ぐ伸びていきさえすれば成功する――みたいに見えて仕方なかったんですよね。たぶんジャンプの修正中とか、そうしたことがあったのかなって思うんですけど、チェンくんはこの踏み切って軸を作るまでの0.01秒にも満たないところが常に同一といった見た目の印象でした(もちろん、スローの解析にかけたらどうなのかとか、わからないんですけどね、素人だから^^;)


 >>――チェン選手にとって4回転を跳べる秘訣は何だと思いますか?

 僕の場合は、瞬発力だと思います。筋肉はもちろんジムで鍛えていますし、4回転に必要な身体は作っています。そこに加えてまだ若いので身のこなしが速いんです。ジャンプの踏み切りで、膝と足首と上半身を一気に反応させて、バランス良くまとめることが秘訣です。とにかく迅速な身体の反応というのが、4回転の場合は重要です。ミスするときは、たいてい、反応が遅れた時です。

 ――筋肉で4回転を跳ぶというよりは、身体の反応の速さが重要ということですね。

 そうです。幸いなことに、身体の反応はもともと速かったみたいです。あと身体が細いことで、空中での回転速度は速くなりますから、そういう体型の有利さもあるかもしれません。羽生選手やハビエル・フェルナンデス選手も、やはり身体が締まっていますよね。

(キャノン・ワールドスケートウェブさんのインタビュー記事より)


 チェンくんもキャノンさんのインタビューの中で、瞬発力と反応の速さということを言っていましたが、女子にしてただひとり四回転サルコウの公式記録を持つ安藤美姫選手は、この反射能力とバネの力が抜きん出ていたということでした。



 >>フィギュアスケートは高い運動能力と、人前で見せたい自分を演出する能力という2つの違った才能が要求されるスポーツだ。

 安藤の黄金のような運動能力は、一目瞭然だった。長年、日本スケート連盟専属のトレーナーをしている加藤修氏はこう説明する。

「ジャンプの天才というのは、もともとバネが強いんです。加えて安藤選手の場合は、反応の速さに特徴があります。普通の女子が弱い部分です」

 4回転のようなジャンプを跳ぶには、滞空時間を少しでも長くするのと同時に、回転を速くしなくてはならない。テイクオフ時に瞬時に体を締めて、軸を作る。安藤はその反応が速いからこそ、女子で唯一の記録を作ることができたのだ。

(「パーフェクトプログラム~日本フィギュアスケート史上最大の挑戦~」田村明子さん著/新潮社より)


 まあ、安藤選手は中野友加里さんの本の中で「バレエの練習大っきらい」っておっしゃってたと思うのでなんなんですけど(汗)、バレエって、回転するにしても何をするにしても、左右両方やるっていいますよね(※これも素人知識です^^;)

 普段わたしたちが生活してる分には、手が右利きか左利きかっていうのはある程度意識するにしても――普段あんまり利き足っていうのは意識しないですよね。でもやっぱり、右手利きの人は利き足が右足で、サッカーとかやると特にわかりますけど、左足でシュートするっていうのはすごく難しい。

 それと同じで、バレエも右足を使った回転のほうが力強くしっかりと出来る。ところが左足で同じようにするのは難しいので、ここは練習あるのみとなるわけですよね。これは真央ちゃんの本に書いてあったことなんですけど、お母さまの匡子さんは真央ちゃんに左右の体のバランスを重視して練習するようにさせていたとのことでした。これはたぶん、匡子さんがご自身でもバレエをなさっていたこととも関係してるんじゃないかな……と、勝手ながら想像します。



 >>日本スケート連盟の専属トレーナー、加藤修氏は言う。

 真央の選手としての特性の一つに、体のバランスの良さが挙げられる。そしてそのバランスの良さは幼いころから積み重ねた体へのケアのたまものであると。

「真央のお母さんは、まだ真央が小さいころから、体のバランスを重視して練習をさせていました。ジャンプも左回転だけでなく右回転を練習させるなどして、左右の筋肉を均等に鍛えていました。体のバランスが良いと、けがをしにくくもなります。真央が試合に出続けられているのは、お母さんのおかげでもあると思います」

(「浅田真央~そして、その瞬間へ~」吉田順さん著/学研より)


 ……何を言いたかったかというと、フィギュアスケートってあらためて複合的な要素が色々組み合わさったすごくハードなスポーツなんだなっていうことでした。

 そして、右と左と左右両方鍛えることが前提のバレエって、バレエを習うっていうと、何かこう「表現の力を上げるため」っていうイメージですけど(もちろんそれもあるにしても)、むしろ基礎の部分を小さい頃から叩き込まれてるかどうかでもその後選手として色々なことが変わってくるのかな……なんて、チェンくんのことを見ていて思った次第です(^^;)

 ああ、そうそう。他の言い訳事項はですね、蘭のSPの演技構成点がミカエルから色々教えてもらった割に、むしろグランプリファイナルの時以上に下がってるって話です(笑)

 いえ、これは最初から自分でわかっててそうつけました。これはもちろんフィクションの小説なんですけど――結局、蘭の振付の表現が変わっても、気づいたのはジェフリー・レイノルズっていうジャッジの人ひとりだけだった。他のジャッジの方々はむしろ「前以上に表現が不快になった」とすら感じた人もいたという、蘭の得点がむしろ下がったのはそのせいです(^^;)

 でも蘭自身は表現に不安があればこそ、ジャンプもスピンも他の要素はすべて一切落せないと思って試合に臨んで、それがうまくいった……ということなんですよね。だから、もしまったく同じエレメンツをこなすのであれば、オリンピックシーズンはもっとわかりやすく盛り上がるべきところで盛り上がる、緩急のあるプログラムを選ぶべき……っていうことなんだと思います。

 もっと他にも色々言い訳事項たくさんあるんですけど(汗)、とりあえずはこんなところで♪(^^)

 それではまた~!!



     ダイヤモンド・エッジ<第二部>-【55】-

 蘭は自分の演技が終わったあと、インタビューや囲み取材を受けたのち、由紀とのぞみがモニターを見ているところまでやって来て、最終滑走だったキャシーの演技だけ見た。そして、金愛榮をも越える形でキャシーがアメリカの女王として一位になるのを見て(流石だな)と感じる。

 蘭とトップであるキャシーの間にある得点差はほんの0.22ポイント……フリーの演技さえノーミスか、それに近い形でまとめられれば、金愛榮もキャシーのことも越えて金メダルを掴むことが出来る。蘭はそう信じていたため、心に動揺はなかったものの、それでもショートであと二点も得点を稼いでいれば勝てた――というのは、経験上あるだけに最後どうなるかはわからないと、そう思いもする。

「明日、あたしたちはあんたよりひとつ前の第三滑走グループだけど、蘭、あんたは最終滑走グループでがんばりなよ」

 蘭と由紀に挟まれた形で真ん中に座り、足を組んでいたのぞみは、ヤンキーの姉御のような威風堂々たる態度でそう言った。人間、やはり何事にも臨界点というものがある。時に、緊張しすぎてすっかり神経が馬鹿になってしまい、その後一気に弛緩するあまり――もはやテレビ映りがどうの、そんなことさえどうでもいいという境界が、人間にはどうもあるらしかった。

「でも、第三グループからの逆転っていうことだってあるでしょ。なんにしてものぞみは、今回何か越えたみたいだっていうのは、今見てて思うけど……」

 そう言って蘭は笑った。あとは荷物を片付けて、マスコミにお愛想を振りまきつつ選手村へ戻るだけだと思うとほっとする。

「そりゃーそうよ。日本でテレビ見てる人たちはともかくとして、フィギュアスケート選手全体ってことを考えればね、わたしになんてだーれも注目してないようなもんなのに、いちいち「こう思われるかも」なんて、ちみっちゃく考えてるのが急に馬鹿らしくなっちゃって……なんにしてもやるだけのことはやったし、それで七位なんだしって感じよ。わたし的にはこれだけでも天文学的数字の素晴らしい成績なんだもの」

「わたしも……良かったです。初めてのオリンピックでここまで滑ることが出来て……」

 じんわり瞳に涙の浮かんでいる由紀に対して、「まだ泣くのは早いわよ。だって、フリーがあるんだから」と言いながら、のぞみがティッシュを渡す。

「きっともうわたし、メイクも落ちかけてぐちゃぐちゃだろうけど、今とても幸せです。夢が半分叶いました。残り半分についてはフリーの出来次第ってことですけど……」

「由紀ったらもう!そんな可愛く泣かないの。ほら、そろそろ恭一郎たち見つけて帰ろう。あと、由紀は対してメイク崩れてないよ。だからそんなに心配しなくて大丈夫。わたしは元が悪いからメイクが崩れようがどうだろうが関係ないけど」

「確かにね」

 のぞみがそう突っ込んで、蘭がそんな彼女の髪の毛を引っ張っていると――砂かけババアこと、星丘静夜がやってくる。

「まあまあ、うちのジャパンチームのお嬢さんたちは仲がいいこと!」

 静夜はいつになく上機嫌で、満面笑顔だった。

「灰島さん、いい演技だったわよ。わたしはもう少し点数が伸びてもいいような気がしたけど……なんにしても、フリーでもがんばってね。日本人の金メダルはあなたにかかっているようなものだから」

「でも、光先輩が先に金メダル取ってくれてるから、少し楽かもしれません。男子のほうでメダルがないから、女子がんばってくれっていうよりは……」

「そうね。あの子のことは小さい頃から知ってるけど、品行方正で内気でねえ。でも氷室選手を見てるとつくづく普段の生き方とかそうしたこともメダルに関係あるんじゃないかしらなんて思うわね。他の選手を彼と比べてどうこうっていうことじゃなく」

 もちろん、この理論でいくと、アイズナーは生き方が悪かったから飛行機事故に遭い、圭は運悪く足に炎症をこさえたということになってしまうだろう。けれど、あくまでもこれは内輪の話として、蘭たちには静夜の言いたいことが了承されるのだった。

「じゃあのぞみ、またあとでね」

「うん。またあとで部屋に遊びに行く」

 由紀は星丘コーチとのぞみに礼儀正しくお辞儀すると、蘭のあとについて恭一郎やエミリオが立ち話しているところまで行った。彼らのそばにはアランとエリカ・バーミンガムの姿もある。

「蘭!おつかれ~」

 右手をエリカに差し出されると、蘭は彼女と手のひらを打ち合わせた。また、エリカはよく相手を知らなかったものの、由紀に対しても同じようにした。オリンピックの競技仲間として。

「さてと、親父どももくっちゃべってばっかりいないで、そろそろ帰るか」

 そう言うと、恭一郎はあらためて「ふたりともいい演技だったぞ!」と、蘭と由紀ふたりの肩を叩いて寄こす。

「ありがと、アラン!めっちゃ気が利く……」

「いいえ、どういたしまして」

 由紀は滑走順が早かったため、すでに自分の荷物を片付けていたが、蘭のものについては彼がすでにまとめてくれていた。

「もしかしてこれ、オリンピックサービス?」

「さてね。まあ、そういうことにしておこうか」

 六人は大体のところそのまま選手や関係者専用の出入口へ向かい、待機していたバスへ乗りこんだ。

 前のほうに並んで座っていたマリアとリュドミラに向かって「おつかれ~」と手を振り、来た時と同じように後ろのほうに蘭は席を取った。

「あーあ。ほんと疲れた~&お腹すいた~!!」

 蘭はほとんど倒れこむようにして後部席へ横たわり、アランと恭一郎とはそのひとつ前の座席にふたり並んで座っている。

 由紀は蘭の邪魔にならないように、少し離れて腰かけていた。

「ホテルへ戻ったら、なんでも好きなものを食え……と言いたいが、まあまだフリーが残ってるからな。フリーが終わったらあらためてまた何かうまいもん食わせてやるから」

「美味しいクロアチア料理の店があるから、みんなで一度そこに行こう」

「ほんと!?」

 蘭はがばりと体を起こすと、少し疲れが取れたとでもいうように、肩を回しながら背もたれによりかかる。

「光や剛先輩とか礼央とも、もうそこに行った?」

「そうだね。男子の試合のほうが終わってから一回行ったかな」

「そっか~。光のごはん通信に書いてなかったけど、たぶんそんなこともどうでもいいってくらい嬉しかったんだろうなあ……よし、わたしも頑張ろっと!」

「明日ある一日の中休みを有効利用しろよ。それが気分転換になるっていうんなら、外に出かけたって全然構わんからな」

 由紀の声が全然しないので、恭一郎が首を回してみると、彼女はどこか内省的な顔つきでじっとしている様子だった。

「わたし、公式練習とドローと記者会見が済んだら、選手村に戻ってきて、あとはたぶんどこも行かないよ。なるべく体を休ませてリラックスして過ごせるようにするっていうそれだけ。あとはまあ、卓球でしゃちほこばってるとかいう光のこと見て終わりかな」

「なんだその、卓球でしゃちほこばるっていうのは?」

 アランは理由を知っているのか、恭一郎の隣でくすりと笑っている。

「なんか、光ってスケートの他に唯一自慢できるスポーツが卓球なんだって。他の国の選手がみんな光に勝てないもんだから、最近はもうすっかりしゃちほこばってるらしいよ」

「ほほう。なるほどな。じゃあまあそのうち、久しぶりに光とひとつ卓球でもしてみるか。何しろあいつに卓球を教えたのはこの俺だからな」

「えーっ。そうだったの!?」

「ああ。あれはいつだったかな……あいつがまだ十二、三歳だった頃、ひどい試合をして負けたことがあってな。こっぴどく叱ってやったら次の日からリンクに来なくなった。そこで、温泉なんぞに連れだして、一緒に卓球をしたわけだ。それで特に何がどうということもなかったが、スケートの練習にはまたやって来るようになった。俺もすっかり忘れていたが、もしかしたらその後も俺に叱られるたびに卓球して気晴らししてたのかもしれんな」

「あー、それはわたしも直接聞いてないや。でもそれでいったら光、そのせいで相当うまくなったっていうことじゃない?」

「卓球といえば、剛も相当うまいはずだよ。昔は光とずっと互角にやりあってたくらいだから」

「へえ。じゃあ今日か明日、早速ふたりに試合でもしてもらおうかな」

 蘭がそんなふうにふたりと話す間、由紀はひとりぼんやりと窓外のザグレブの街並みを眺めていた。

 女子のショートプログラムは、午後の一時半からはじまり、終わったのが大体六時頃である。そして今はもう七時をとっくに過ぎている……陽はすっかり暮れ、街は暗い中を灯火に照らされて、どこかぽっかりと浮かび上がって見えるような印象だった。

 演技が終わった途端、「ワァッ!!」という歓声が聴こえて、由紀は驚いていた。演技の間はステップシークエンスの時の拍手以外、音楽しか由紀の耳には届いていなかった。けれど、演技が終わるのと同時に、歓声が耳をつんざくかのようだった。

(きっと、今日のショートプログラムのことは、一生忘れない……)

 もちろん、明日一日休みを挟んで、フリースケーティングがある。この時にも、今日と同じような達成感を味わうために、万全の姿勢で臨まなくてはと、由紀は今から気持ちが引き締まるものを感じた。

「……どうした?」

 ふと振り返ってみると、すぐ隣に館神コーチがいたため、由紀は驚くあまりびくっとしていた。

「明後日のフリースケーティングが今から心配か?」

「は、はい。なんだか、あんなに緊張してたのに、終わってみるとあっという間だなと思って……でも、フリーはショートよりも長いから……」

 由紀は疲れのピークが来つつあったこともあり、自分でも何を言っているのかだんだんわからなくなってくる。

「そうか。今日は本当にいい演技だったぞ。フリーも同じようにしっかりやれ」

「……はいっ!!」

 話している言葉自体は当たり前というのか、普通のことでも――館神コーチが口にする言葉には常に重みと説得力がある。それはおそらく、普段からずっと選手のことを見てきて心の繋がり……もっと言うなら絆があるからなのだろう。由紀にしても、最初に会った時には反射的に「怖い」と感じる人だったし、今も練習中にジロリと睨まれると「何を言われるんだろう」と思い胸がドキドキすることに変わりはない。

 けれど、リンクを離れたところでは優しいというのか、心の温かいところもある人だとわかってから……由紀は全人格的に館神恭一郎というコーチのことを信頼するようになっていたといえる。

「あ、あの、コーチ……」

「なんだ?」

 アランと蘭が何か話して笑いあっているのを見て――こちらの会話は聞かれていないと思い、由紀はこの時思いきって言った。

「これまで本当に指導していただいて、ありがとうございます。わたし、自分が特別強化チームに入るまでは、まさかオリンピックに出場できるだなんて、思ってもみませんでした。わたしに選手として見るべきところがあったとは決して思わないのですが、一ノ瀬コーチがわたしを見てくださったそのお陰で……」

「まあ、そんな話をするのはフリーが無事に終わってからにしろと言たいところだがな。確かに、綾子とおまえの波長がコーチと選手として合っていたから、俺もおまえの才能に気づくことが出来たんだと思う。感謝するなら綾子に会った時にするんだな。あとの大部分はおまえ自身の力だ。俺はそこに少しばかり圧力をかけて引き上げたに過ぎない」

「でも、コーチ。わたしはやっぱり……」

 自分の言った言葉を否定されたような気がして、由紀は下を向くとコートの木のボタンをいじった。

「わたしはなんだ?」

「館神コーチのその、上に引き上げる力がとても強かったから、今こうしてこのバスに乗っているのだと思っています。だから……」

(何かお返しがしたいんです)と言いかけて、由紀は喉の奥に何かが詰まったように黙りこんだ。こんな恥かしいこと、とても口に出しては言えない。

「お返しならそのうちしてもらうさ。まあ、まずは明後日のフリーでは銅メダルでも目指すつもりで滑ろ。実際、オリンピックでは何が起きるかわからんからな。ショートで六位くらいの出だしだった選手が、他の選手が総崩れでメダルを取ったことだってある。それは由紀、おまえにだって起きる可能性のあることだとは思わんか?」

(そんな……流石にそれは無理です)と由紀は思うものの、でも不思議だ。館神コーチにそう言われると、本当に出来るような気がしてくる。

「さあ、まずはホテルへ戻ったら腹ごしらえするぞ。それから反省会だ」

「……はいっ!!」

 バスが選手村の前の駐車スペースに停車すると、選手やオリンピック関係者らが次々と降りていく。由紀や蘭たちは一番後ろの席にいたため、他の人々が全員降りてから、どこかのろのろした動作で最後にバスから降りた。

「貸せ、由紀。おまえは小さいからな。キャリーケースを引きずってるところを見てるだけでも、なんだか気の毒だから持ってやる」

「ひどいです、コーチっ。人のこと、リリパットか何かみたいに……」

「ははは」と笑って、アランと蘭に続き、恭一郎は由紀のキャリーケースを引いてバスを降りていった。そして由紀も肩にかけたスポーツバッグを大事そうに抱え、恭一郎のあとについていく。

(でも確かに、百四十五センチしかないわたしと、身長が百八十センチもあるコーチとじゃ、不釣合いすぎるものね……その上歳も二十歳以上離れてるし……)

 由紀は恭一郎の広い背中を眺めながらそんなことを考え、と同時にまたある瞬間に思考を切り替えた。

(そうよ。まずはフリーで出来るだけいい演技をして、館神コーチに喜んでもらおう。それがきっとコーチに対する一番の恩返しになることだものね。親孝行ならぬコーチ孝行みたいな……)

 このあと、蘭と由紀が一度部屋に戻ってから恭一郎たちの部屋へ行ってみると、剛と光と礼央が顔を揃えていて、テーブルの上にはたくさんのご馳走が並んでいた。

「わー、こういうの助かるっ。もちろんべつに食堂に行ったっていいんだけど……なんにしても早く食べよう、由紀。気の利く先輩を持つとこういう時ほんと助かるねえ」

 小さなテーブルに乗り切らないものは机の上に並べてある。皿の上のものはシーフードと肉料理が中心ではあったが、他にサラダや豆料理やスパニッシュオムレツ、果物類が並び、蘭はオレンジジュースを飲むと、「生き返る~っ!!」などと思わず叫んでいた。

「蘭、おまえさ、仕事帰りのサラリーマンじゃねえんだから」

 そう言って剛はくすくす笑っていた。自分たちはもうとっくに試合のほうが終わっているため、このくらいのことをするのは男として当然だとしか彼らも思っていない。

「いい演技だったよ、蘭も由紀も。あと石原さんの『トスカ』も良かったと思う。ステップシークエンスのところとか、感動した人、きっと多かったんじゃないかな。もうちょっと演技構成点で得点が伸びてもよかったんじゃないかなって思う。それは蘭の演技を見てても思ったことだけど……」

「それ、あとでのぞみの奴に言ってやろっと。ザグレブオリンピック金メダリストの光さまがそうおっしゃってたって」

「何言ってんだよ、蘭。そんなこといちいち言わなくていいって。ほら、高見沢さん。こっちのイチジクも美味しいよ」

 そう言って光は、由紀から離れたところにあった干しイチジクを取り、彼女の皿の上に乗せてやる。

「それ、わたしにもちょうだい」

「うん」

 光が蘭の皿の上にも干しイチジクを置くと、由紀以外の全員がどこかにやにやして光と蘭のことを眺めやる。

「先輩。俺にも干しイチジクちょうだい」

「ほら、こっちのドライマンゴーとドライメロンも食べてみるといいよ。結構美味しいから」

 そのあと、蘭と由紀もドライメロンを欲しがったため、光は彼女たちの皿にもそれぞれいくつか投下してやる。

「俺、ドライメロンなんか初めて食ったなー。結構いける」

「ドライフルーツって、栄養がぎゅっと凝縮されてるから体にいいんだってさ。如月さんの受け売りだけど」

「そうそう!ドライマンゴーがビタミンAを含んでて、イチジクは食物繊維が豊富なんだったかな」

 蘭はそう言いながら、シーフードサンドイッチを食べ、オムレツの横についているチーズを口の中に放りこんだ。由紀のほうでは白身魚とオリーブオイルのかかったトマトサラダを交互に食べている。

「あの健康博士はなんでも、また妊娠したらしいな。今三か月だそうだ」

「ええーっ!!」

 突然の不意打ちに、その場にいた全員が驚く。そんな中で、恭一郎だけがひとり笑っていた。

「だから、本当はザグレブまで試合を見に来たかったらしいが、リョウの奴がリンクに長時間いるのはよくないとかなんとか言って、来させなかったらしい。長女の愛のほうはな、三歳になったらスケートをはじめさせると言ってた」

「そうなんだ……うわー、びっくり。如月さんとあの天才の娘っていうだけでも遺伝的にすごい選手になりそう。その上三歳からスケートをはじめたとあっちゃねえ」

 蘭が驚いたように言って、親指についたドレッシングをなめる。そこへ、恭一郎がロブスターの切り分けたのを皿に置いてくれたため、早速フォークで美味しくいただいた。

「いや、如月の奴は最初、娘をスケートの選手にする気はなかったらしい。それでも、自分の両親が頻繁にスケート場へ行くのを見て、自分からやりたいと言い出したら、少しやらせてみるつもりではいたらしいがな……なんでも、リョウがあんまり熱心に金愛榮を指導するのを見て、もし愛があとになってからスケートを本格的にやりだすとしたら、親としてなるべく早く才能を伸ばしてやる義務があると思ったとかでな。だがまあ、基本的には是が非でもやらせたいと言ったようなことではないらしい」

「そうなんだ。でも如月さんの選択は正しいって思うよ。わたしがスケートをはじめたのは七つの時だけど……もっと早くはじめてたら、それだけ才能が伸びるのも速かったんじゃないかって思うもの」

「う~ん。それはどうかな」

 アランがシーフードスパゲティを食べる途中で口を挟む。もし蘭と由紀にスパゲティを勧めたとしたら、首を振って拒んだことだろう。というのも、パスタの主成分は炭水貨物だから。

「だって、あんまり小さい頃から強制的にやらされると、子供のほうで嫌になるかもしれないからね。もし三歳からはじめるんだとしたら、まずはスケートを楽しむことや好きになることが一番大切で、将来この子は絶対オリンピックの選手にするんだ!みたいな感じだと、むしろうまくいかないんじゃないかな」

「まあ、如月もそのあたりについてはわかっているだろう。リョウにしても自分の娘のことは教えたくないらしいからな。色々細かいことにまで口出しして娘から嫌われたくないんだそうだ」

 ここで、テーブルの椅子やベッドの上に座っていた全員が声を合わせたように笑う。

「確かになあ。愛栄を教えてる時の鬼っぷりときたら、館神コーチの比じゃないぜ。あんなの、愛榮だからあいつについていくんであって、他の連中だったら絶対途中で嫌になっちまうだろうな。小早川亮はスケーターとしては天才かもしれないけど、コーチの才能はないと思うよ」

「そのことは本人もわかってるらしいぞ。だから、金愛榮が現役を引退したら、他の選手を教えたりする気は一切ないらしい」

「へええ。でもなんかもったいないね。金愛榮の次に娘さんのことでも如月さんと一緒に教えたらいいのに。如月さんの美しいスケーティング技術と、小早川亮の天才的なジャンプを兼ね備えてるなんて――その頃には女子はきっと四回転サルコウまで跳ぶのが普通になってるかもしれないよ」

「さて、それはどうかな。ところで、おまえと光はどうするつもりなんだ?あと、剛のところも……」

 最初、蘭と光は恭一郎が何を言いたいのか理解できずに顔を見合わせた。それからワンテンポ遅れてハッと気づき、結局のところふたりとも何も言わなかった。

「う~ん。俺のところはどうかなあ」

 剛は礼央と並んでベッドの上に座り、礼央から中国キノコとそこそこ仲良くなったというような話を聞かされていたのだった。

「モモのことはともかく、俺は次に生まれてくるのが男だったら、教える気ありますよ。つか、館神コーチんとこに預けて、ビシバシしごいて欲しい感じ。モモのことはまあ、美香に任せるにしても、もちろん少しくらいはやらせようとは思ってて……で、本人にその気があるようだったらやっぱり、館神コーチんとこに預けてと」

「俺に全部丸投げする気か。というより、その頃俺いくつだ?」

 恭一郎の意に反して、ここでも全員がどっと笑いだす。

「大丈夫だよ、キョウイチ」と、アラン。「キョウイチなら絶対、七十過ぎても矍鑠として子供を指導してるだろうから。斎藤コーチがちょうどそうだったみたいにね」

「そうだよ」と、蘭。「第一、ライアン・キャンベルっていういい例があるじゃん。最後に自分の元に生徒がひとりもいなくなるまで――現役でコーチ続けたらいいんだよ。っていうか、それが恭一郎にとって一番のボケ防止法だよね。むしろリンクサイドを離れた途端、認知症か何かになりそう」

「もしそうなったら、わたしがお世話します」

 恭一郎が皿にのせてくれた手長エビを食べながら、突然真面目に由紀がそう言った。みんなの視線が一気に集中すると、由紀はハッとするのと同時に顔を赤くした。自分が食べているエビと同じ色にみるみる頬が染まっていく。

「ははは。館神コーチの介護をしてもいいっていう弟子がまたひとり増えましたな。そっかー、由紀たんもかあ。これでさらにローテーションが組みやすくなったな。如月と俺と美香と光と一ノ瀬さんと、それに由紀か。良かったっスね、コーチ。コーチの老後は薔薇色ですよ」

「えーっ、何ソレ。絶対俺がいない時に話したことだよね?」

「あー、礼央はあの時なんでいなかったんだっけ?まあとにかく随分前、如月が日本に来た時にコーチの家でバーベキューパーティしてさ、その時に出た話なんだよ。というのもな、如月の奴、館神コーチにボケ防止のためにイチョウの葉エキスのサプリメント飲めだのなんだの言ったりして。その繋がりでなんか、もしコーチがボケたらみんなで交替で世話でもするかあって話になったのな。かつてこっぴどく叱られた相手のオムツ替えたりするのは、さぞ楽しかろうよって話」

 ここでみながみな、またどっと笑いだす。

「でもまあ確かに、恭一郎には長生きしてもらわないとね。如月さんじゃないけど、日本のフィギュアスケート界の未来のためにも……」

「まったく、如月といいおまえらといい、人のことを一体なんだと思ってる。勝手に人を老人にしたり化石みたいに扱ったり……それより光、おまえこそ現役を引退したらコーチになるんだろ。笑っていられるのも今のうちだけだぞ」

 夕食のほうはとっくに済ませていたものの、蘭がいると自然食欲の増す光はこの時、シュークリームをひとつ食べていた。

「あ、そーいや光さ、館神コーチがボケてとうとう引退したら、館神FSCの後は光が継ぐんだろ?」

「だから、そんなのはないも同然の話だって。俺が思うにコーチは七十いくつか、あるいは八十になってもコーチでいるだろうから、えっと俺、その頃一体いくつかな……」

 指折り数えはじめた光のことを見て、みんなまたどっと笑いだす。

「そうだぞ、光。おまえと蘭でうちのスケートクラブを継いで日本のフィギュアスケート界を盛り立てていってくれ。その頃にはまあ、氷室フィギュアスケートクラブっていうふうに、名前も変えてくれていいから。オリンピックで銀メダル止まりだった俺より、金メダルを取ったおまえの名前がクラブの頭についてたほうが、生徒がよりたくさん集まってくるようになるだろう」

「そんな……仮にコーチがボケて監督業を続けられなくなっても、やっぱり名前はそのままですよ。第一俺も、自分がコーチなんて、本当に向いてるかどうかなんてまだわからないし」

「まったく。おまえらはなんでそう俺のことをボケさせたがるんだ?」

 ――とても楽しい夜だった。

 蘭と由紀にしてもまだフリースケーティングが残っているため、頭のどこか、あるいは心の片隅では常にそのことが離れていかないとはいえ、それでも食事時にはこの顔ぶれが常に集まるため、ちょうどいい気分転換になるのだった。

「あーあ。これでまだフリーが残ってなかったとしたら、あのままずっと話し続けてられたのにね」

 自分たちの部屋のほうに戻ってくると、蘭はばふっ!とベッドに倒れこんで、そんなふうに言った。

「そうですね。でもフリーが終わったらきっと……コーチともドゥブロブニクに行けるし、その時百パーセント楽しめるように、後悔のない演技をしなくっちゃ」

「そうだね」

 蘭はもう半ば眠かったため、洗面所のほうまでいって顔を洗ったりするのが面倒くさかった。そして(ドバイオリンピックの時は部屋にバスルームとトイレがついてて良かったな)と、あらためてそう感じる。

「あ、あの……蘭先輩」

「うん、なあに?」

 半ば目を閉じつつ、蘭はぼんやり返事した。

「館神コーチって、ご結婚なさらないんですか?そりゃあわたし、コーチにもしものことがあったりしたら、心をこめてお世話したいとは思いますけど……なんだかもったいないなあ、なんて」

 もちろん実際は、実は隠れた恋人がいるなんて聞かされたりしたら、由紀にしてもショックだ。けれど、話として聞く限りそうしたこともないようなので、由紀としては仮にコーチが五十くらいになったとしても彼が独り身なら――(自分にもチャンスは残っているかしら?)と、そんなふうに思うのだった。

「どうかなあ。しようと思えばこれまでだって出来ただろうし、今もお見合いでもすれば一発じゃない?でも恭一郎はフィギュアスケートと結婚してるようなもんだから、自分の現実の結婚相手がその先の女房との関係を邪魔するだけだってわかってるんだと思う。なんにしてもあの歳になっちゃうと、色んなことが面倒くさいみたいよ?ほら、自分よりも若い女性なんかに趣味合わせたりとか、そんな器用なことの出来る人じゃないし……何より、恭一郎にとって一番大切なスケートのことを理解しないようだったら、存在自体を即座に抹殺して終わりそう」

「ああ、なるほど……」

(その点、わたしなら大丈夫だわ)などと、由紀は心の中で少し顔を上向きに上げた。(だって、わたしのほうでなんでも館神コーチの好みに合わせたらいいだけだもの)

「まあ結局のところね、恭一郎は結婚してもしなくてもどっちでもいいのかなって思う。だって、恭一郎からスケートの教えを受けた生徒が日本各地に散らばってて、館神コーチのためならなんでもするっていう信者みたいな人がいっぱいいるんだもの。血は繋がってなくても、恭一郎はそういうスケートの息子や娘をいっぱい持ってるから、十分幸せなんじゃないかな。第一、恭一郎がなんかの病気でぶっ倒れたりしたら、わたしと光で絶対面倒見るし……実際何も問題ないんじゃない?」

「そ、そうですよね」

 ありえない妄想とわかっていても、それでも由紀はほんの少しばかり考えてしまう。館神コーチとふたりで暮らして、彼のためにごはんを作って、スケートの話をして幸せに暮らすという、まずもって実現しそうにない夢を……。

「さーてっとぉ!!」

 蘭は気合を入れて起き上がると、タオルや歯ブラシを手にして、洗面所まで行くことにした。由紀と一緒に洗面所のほうへ行ってみると、カーリングやスキーの選手などが、英語で何かしゃべりながらそこにたむろしている。

 蘭と由紀が並んで歯を磨いたりして、そのあとそばのトイレへ行き立ち去ろうとすると――「ショートプログラム見たわよ。フリーもがんばって!!」とどこかノリのいい声がかかる。見ると、そこにいた五~六人の選手たちがジャンプしたり「ホッホウ!!」と奇声を発したりしながら、こちらに手を振っていた。

 すかさず蘭と由紀も「Thank you!!」と言って、笑顔で手を振り返す。

「なんかいいですよね、オリンピックって……」

「うん。あと残ってるのはフィギュアの女子シングルだけだもんね。彼女たちはもう競技も終わってるから、伸び伸びした精神状態だろうけど……種目は違っても、目指してるものや、これまで犠牲にしてきたこと、努力を積み重ねてきたことは一緒だもの。お互い気持ちがわかるだけに、ああいうのってほんと嬉しい」

「わたしも……みんな<これ>を越えてきた同志なんだって思ったら、涙が出てきちゃう感じ」

「もう、由紀は泣き虫なんだから!」

 そのあとふたりは、なんでもないような話を寝ながらしているうちに眠ってしまった。もちろん、蘭にはわからなかったろう。時々由紀が何気なく恭一郎のプライヴェートなことを聞いてくるのは何故なのか、自分よりも二十歳以上も年上の男に彼女が一過性の気持ちでなく恋い焦がれていることなどは……。



 >>続く。




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