老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

桜の樹の下には!

2017-04-18 23:17:55 | 安倍内閣
梶井基次郎という作家がいた。1901(明34)~1931(昭7)の夭折の作家である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B6%E4%BA%95%E5%9F%BA%E6%AC%A1%E9%83%8E

大学時代、「桜の樹の下に」を読んで、衝撃を受けた。わたしは、それまで一度もこんな発想をした事がなかった。何という感性なのだろう、と呆然とした記憶が残っている。

「桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。」・・・

就職で京都に住んだ時、丸山公園の夜桜を一人で見た時、はじめて彼の感性が理解できたような気がした。当時の丸山公園は、まだ観光客も少なく、ライトアップもされてなかった。夜空の中、公園の街灯の薄暗い明りに照らしだされた「しだれ桜」の姿の何となまめかしく妖艶だった事。あの妖しいまでの美しさは、間違いなく、「死の影」を感じさせるものだった。

今では誰も言わなくなったが、昔、美人の類型の一つに、腺病質の女の人がいた。まだ、結核が不治の病だったころ、ほっそりとして、色が白く、長い黒髪をした、今にも命が消え入りそうな女の人が一つの美しさの典型だった時代があった。

よくよく考えて見ると、その今にも消えて無くなりそうな美しさの背後には、病気による死の恐怖が貼りついていた。

題名を失念したが、三島由紀夫の短編小説に「花火」を書いたものがある。「花火」の美しさを、パッと咲いてパッと散るその儚さに求めた小説だった。後に、宮尾登美子作、夏目雅子の主演映画『鬼龍院花子の生涯』の中で、花子の義理の父親鬼龍院政五郎(仲代達矢)が、何度も「俺は花火が好きだ。パッと咲いてパッと散る。まっこと男の生き様のようだ」とつぶやく。この台詞。おそらく、三島の小説から取ったのではないかと想像している。

「桜の美しさ」「花火の美しさ」、いずれも一瞬の美にかける。その盛りの短さ、儚さに人々は酔いしれる。昔から、日本人は、そのような美しさが好きだった。

「万朶の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く 大和男子と生まれなば 散兵戦の花と散れ」

軍歌「歩兵の本領」の一節。この歌は1911年(明44年)に作られている。この当時から、一瞬の輝きにかける美しさ、儚さを「大和心」と呼んでいたのだろう。

三島由紀夫が、晩年、死を追い求めるような「生き急ぎ」の人生を送ったのも、この一瞬の輝き、一瞬の美しさが忘れられなかったのだろう。

ところが、梶井基次郎の「桜の樹の下には、屍体が埋まっている」の感性は、三島の感性とも、どこか微妙に違う。

梶井は「桜の樹の下へ」で屍体を以下のように描写する。

「馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐乱して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を衆めて、その液体を吸っている。」

梶井は、何を語りたいのか。

おそらく彼は、「桜の樹」は、その下に埋まっている「屍体」から栄養分を吸い上げることによって生き、その美しさを手にしている事を語りたかった。「生」は「死」の上に成り立っているという残酷な真実を語りたかった。この残酷な真実は、人の世の様々な場面で見られる。

たとえば、ボクシングというスポーツがある。勝敗という苛烈な現実を最も視覚的に見せてくれるスポーツ。KOで勝負がついた場合、勝者はマットの上で観客の拍手に応え、敗者はマットの上で這いつくばり、惨めな姿をさらさなければならない。昔、アリスが「チャンピオン」https://www.youtube.com/watch?v=DJ3Di182m_Yという歌を書いていたが、敗者の惨めさを見事に描いていた。勝者の栄光も敗者の惨めさがあればある程、光り輝く。

梶井は、「生」の輝きは、「死」の惨めさがあるからこそ輝いている、と言っている。梶井のこの感性は、彼が若くして当時、「不治の病」とされた「結核患者」だった事と無縁ではないはず。

日常坐臥、「死」とともに生きていた梶井の感性は、腺病質ではあったが、まだ健康だった三島の感性と微妙に食い違ったのであろう。結局、三島は、「一瞬の美」こそ「日本的美」だというきわめて俗な日本的感性に退行せざるを得なかった。彼の「生き急ぎ」は、この日本的感性の残酷さを超越出来なかった証のような気がする。

何故、このような話を書きたくなったかと言うと、安倍夫妻主催の「桜を見る会」のあまりの俗物さ加減にあきれ果てたからである。二言目には、「日本の美しさを取り戻す」などと、のたまう御仁だが、三島の「美学」はもとより、梶井基次郎の妖しいまでに官能的な「桜の美学」などとは、あまりに無縁な所業に、日本や日本人の劣化の象徴をみるのは私だけではないだろう。

評論家小林秀雄がいうように「全ては意匠」だという事なのだろう。あまりにも現代的「軽さ」ではある。

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Unknown (Unknown)
2017-04-21 13:10:26
日本人は桜の表面的な美しさを眺め、即物的な情緒に浸っても、一歩引いて、先人がどのような思いで桜を眺めたかを知ろうとしない。
同じことは、アメリカ人が英語を喋って、それを理解するのは10%の日本人でしかないが、理解してもその言葉の裏までは理解できない。だからジョークを言ってもポカーンとした顔をしている。ましてトランプがポーカーフェースで北朝鮮を攻撃するかもしれないと仄めかしただけで、日本中のメディアが上を下への大騒ぎである。
トランプ政権が朝鮮半島近海に派遣した、としていた原子力空母「カール・ビンソン」が朝鮮半島から約5600キロも離れたインド洋沖をノンビリ航行していたという。金正恩も思わずズッコケである。

今の日本は平家一門の栄華と同じで淀みに浮かぶ泡沫ではなかろうか。日本はアメリカの一つの州になることも、中国の属国となることもできない。

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