花の公園・俳句 ing

日本は素晴しい花の国。美しい花々と公園、四季折々の風景を記録したいと思います。我流の俳句は06年3月12日からです。

イスラームは邪教か

2017年07月14日 19時30分09秒 | 本、ポリシー、写真のアップ  
またまたイスラム本です。

「コーランには本当は何が書かれていたか」 カーラ・パワー著、秋山淑子訳、文芸春秋2015年。
著者カーラはアメリカ人無宗教者、彼女がクルアーンについて学んだのはムハンマド・アクラム・ナルディー師、イギリス在住のウラマーです。

アクラム師はクルアーンを深く読み込み、個々の啓示を当時の状況に即して解釈するという、すばらしい原典忠実主義のウラマーです。そうすることで、イスラームの弱点といわれる女性軽視や、多神教信者への極端なジハードなどはクルアーンの理解不足による誤りだとしますので、まったく原理主義ではありません。またイスラームには7世紀の部族社会の慣習が少なからず入り込んでしまっているが、それはマホメットの受けた啓示とは別のものだとさえ主張する、むしろ極めてリベラルなムスリムです。
しかし、なかなか徹底することは難しい。たとえば男が4人までの妻を持つことが出来ること。それは夫が戦死した未亡人の生活保障のためだと一般には説明されますが、アクラム師は、当時の部族社会では妻は何人でもよかったものを4人に制限するという意味もあった、とします。それは当時としては画期的かもしれませんが、現代ではもはや受け入れがたい啓示でしょう。しかしクルアーンは絶対ですから、「公平な取り扱い!」といった解釈にいろいろと理屈を捏ねなければならないことになります。

イスラームは心や精神の問題だけでなく、社会生活のすべて、政治活動のすべてを含む、一切の人生と社会全体を統制しようとします。「人は神の奴隷」ですから、一般的な自由はありません。食べ物一つであっても、ウラマーにお伺いを立てなければなりません。気に入らなければ、別のウラマーに聞いてもいい、というのは面白いですが。
そうした、人を奴隷として扱う神をいただくのは部族社会の支配者にとって好都合であり、アラブの王侯にも同様でしょう。しかし千数百年前の部族社会の因習をイスラームの真理として抱え込んでいては、現代の人びとには受け入れられません。因習を徹底的に打破するには、西洋で言う「宗教改革」が必要ではないかと思います。しかし、原典に忠実なウラマー、アクラム師にもそれは不可能のようです。

師のようにクルアーンをその文脈の中で解釈せよというなら、ウラマーごとに別の解釈ができていくことになります。「神の奴隷」 といいながら、奴隷のはずのウラマーが神の言葉をそれぞれに解釈し、それを述べ伝える。イスラームの真理はいったいどこにあるのでしょう。何が真理なのでしょう。本当に近年のジハードが間違っているなら、イスラーム世界を挙げて非難の大合唱になるはずですが、実行者たちは地獄に落ちる、などというファトワはまだ聞いたことがありません。
解釈でごまかさずに、現代に通じ、世界に通ずる新しい預言書、新クルアーンを作った方がいいではないですか? しかしそれは最後の預言者マホメットを侮辱しクルアーンを蔑ろにすることになり、イスラーム世界で最悪の大罪です。すぐに死刑のファトワが山のように発せられることになるでしょう。イスラームは改革を原理的に一切認めない頑迷な宗教で、完全な時代遅れです。そうでないというなら、死刑をも恐れずそのように行動し発言すべきです。それができるのですか? 
イスラーム人口が増えているというのは、ムスリムは多産で、その子は自動的にイスラームとなり、改宗は死罪という厳罰主義があるからです。これではカルト同様です。

現代の私にとって、イエス・キリストの言葉のほうがずっと分かりやすい。実行は難しいが、聖なる言葉というのはこういうことだと感じます。
   「汝の敵をも愛せよ」
   「狭き門より入れ」
   「自ら罪なきと思うものはこの女を打て」。
ひとりの人間として生きたイエスの、人が生きていくことへの共感がその言葉にはあります。
また、政治権力を持たなかったイエスは、
   「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」
という、分かりやすい政教分離の指針を示しました。
   
政治上の最高権力者になったマホメットの預言は、イエスの言葉とかなりの隔たりがあります。言葉通りに受け取れないことがありますが、何よりも、人間を「神の奴隷」とする考え方が私には受け入れがたい。
仏教では、とくに浄土真宗では、阿弥陀如来という仏様は衆生を救済するという本願を立てたので、私たち一般の庶民はその本願にすがることで救われるといいます。衆生を救済することこそが仏様の 「本来の念願」 なのです。仏の心の、なんと広大無辺であることか。それだからこそ親鸞上人の悪人正機も生まれたのです。イエスも人々の救いのために、悔い改めよ、とのべ伝えたのです。
イスラームでは救済はアラーの本願ではありません。衆生はあくまで 「神の奴隷」 であり、救済は語られません。どのようにアラーの言いつけを守るかが重要であり、精一杯守ったとしても、救われるかどうかは 「インシャラー」、神の思し召しのままです。
なにしろ、啓示の最初が 「読め!」 という命令で始まるのです。なんと傲慢な教えではありませんか。それでいて、啓示の意味を、奴隷であるたくさんのウラマーが斟酌し、それぞれに解釈を施すのです。また奴隷の身ながら、信徒がそれぞれに学ぶのだそうです。目覚めた信徒が奴隷の身分を超えようとしたらどうでしょう? きっとイスラ―ムでは実際に処罰されることになるでしょう。しばしば死刑もあるでしょう。 イスラームの人たちにはそれが当然なのでしょうが、私にはとても理解も納得もできるものではありません。
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