聞く人

本とロックとともに育ってきた、京都出身東京在住37歳です。

スティーブジョブズのスピーチ 出張先のホテルで迎える朝と間宮中尉のこと

2012-01-16 07:32:49 | Weblog

職種転換してから、
出張に出ることが増えました。
9月以降は、1週間のうち3日〜4日、出張が続くことも多かった。
先週も5日間、北海道に出張にいっていました。

出張先のホテルで朝目を覚ますと、
そこから緊張が始まっている。
今日、これから初めて会う、参加者たち。
その人たちを前に、自分に、いいコースが出来るだろうか。
部屋の中には私1人で、
家具は全て自分のものではない、表情のないホテルの家具たち。
部屋は毎日掃除され、昨日の夜から自分が出したものやごみ以外、
猥雑物はほとんどない。

だから、部屋の中は、緊張と孤独が、ほぼ隙間なく充満している。
その中で、コーヒーを入れる。
最後の準備を始める。
最後の準備が終わったあと、
お風呂に入る。
他の仕事をする。

大きな山場のコースの日の朝はよく、
部屋を出る前にYouTubeで、
スティーブジョブズのスタンフォード大学でのスピーチを聴きます。

9月以降、お守りのように何度も聴いた。
聴くことで、私の孤独と緊張は和らぎ、勇気が湧いた。

私はずっと飢えていて、
いつものどが渇いて仕方なかった。
時に、この世界から零れ落ちるんじゃないかと不安に思った。
暗闇が訪れる時期があり、
闇が明けないのではないかと感じて打ちひしがれた。

30代半ばを前にして、青春が終わり、
私はようやく、
この世界から途中で零れ落ちることはないかもしれない、
と感じられるようになった。

それでも暗闇は都度、
私を訪れる。
大きな闇もあれば、小さな闇もある。
そして、私は今も、飢えたままで、時々とてものどが渇く。
ずっと、hugryで、Thurstyであり続けることが、
時に辛かった。

ジョブズは、受身ではなく積極的に、
Stay Hungry、
と聴き手に求める。

聴き手の私は、
許される。
飢えて、乾き続けていることを、
積極的に肯定されることで、
私は、その瞬間、孤独ではなくなる。

ずっと飢えていて、時々ものすごく喉が渇いて、
自分の感覚や衝動に左右され、
ときにそれを尊重したりしながら、
生き延びてきてたどり着いた、
このホテルの部屋に、
そして、これから向かうクラスで初めて会う参加者たちに、
愛情を持つことが出来るような気がする。

私は部屋をでて、
1人でクラスに向かう。
緊張は続くけれど、
静けさが自分を満たす。
クラスの朝は、参加者と私の緊張で満ちている。
でも、私はこの人たちを励まし、愛情を持つことができそうだ、と感じる。

私のほうから、好きになるよ。
だからここでは、リラックスしていいんだよ。
厳しいことも言うよ。
でも私は、あなたの今までを、好きだよ。

参加者ひとりひとりに、
できるだけそう思いたい。そしてその思いを、伝えたい。
そしてその人それぞれが、
よりその人らしくなり、
日常に帰っていってほしい。

私が、コースを通じてしたいことは、
そういうことのようだと、数ヶ月経って感じました。

何度も訪れる暗闇と孤独の中で、
ジョブズさんや、旅人君や、村上春樹さんや、
付き合っていた人や、大事な人や、
小説や、音楽から、
私は希望の光を受け取った。

希望の光が差し込むとき、
その光は暗闇の中ではとてもまぶしくて、
目が痛くなった。
それでも光は圧倒的に私に差し込み、
私の奥を温めた。
そしてしばらくすると、
また私は歩き始める。

私は37歳まで、そのように生き延びてきました。
外から差し込む光に助けられ、
慰撫され。

村上春樹さんの小説、
ねじまき鳥クロニクルに出てくる間宮中尉は、
戦争中、ノモンハンの砂漠で、井戸の中に放り込まれ、
暗闇の中で数日を過ごす。
暗闇の中ですごす数日のうち、1日1回、ほんの短い時間、
そとから太陽の光が差し込む。
その圧倒的な光を経験したあと、
間宮中尉は助け出され、戦争を生き延び、
日本に帰り、長く生き残る。

間宮中尉はいう。
「私はあの井戸の底の、一日のうちに十秒か十五秒だけ差し込んでくる強烈な光の中で、
生命の核のようなものをすっかり焼きつくしてしまったような気がするのです。」

差し込む光は、
ときに生命の核を焼き尽くすのかもしれない。

今まで、私に訪れる暗闇のあと、
差し込む光は、
私の奥を温めてくれた。
その光はでも、
いやおうなく訪れ、
私の奥に届き、
私の側に選択する余地がないという意味では、
間宮中尉を焼き尽くした光と同じかもしれない。

ただ、
今までのところ、
私は生命の核を焼き尽くさずに、生き延びてきている。

だから今は、
私があなたを、好きになりたい。
1日2日の短い時間でも、
私があなたの美しいところを知り、
それをあなたに、できるだけ正確に伝えたい。
そしてあなたがあなたの頭と手を使って学ぶことを、
促したい。

そう思える日があります。

そしてその先に、
参加者と私に、
新しい風景が訪れることがある。

私たちはそれを観て、
そしてそれぞれの日常に戻る。

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さよならということ 河瀬直美さんのもがりの森

2011-10-03 06:00:06 | Weblog
さよなら

さよならという言葉を、
小学校を卒業するまで、
毎日口にした。

「さよおなら」

京都弁で、何度も口にした。
教室を出るときは、「先生、さよおなら」
友達と帰り道の途中で別れるときは、
「○○ちゃん、さよおなら」

友達とは、
家にランドセルをおいたら、
数十分後にまたどちらかの家で遊ぶこともあったから、
ほんの数十分後に会うまでのさようなら。
学校の先生は、明日また学校で会うから、
翌日学校で会うまでのさようなら。

数十分後に友達の家に遊びにいくと、
私たちは玄関口でこういった。
「○○ちゃん、遊びましょ」

「さよおなら」とおなじように、
私たちは京都弁で、歌うような抑揚をつけてその言葉をいう。
遊ぶ約束をもともとしているのに、
まっさらな状態で、今から誘うように、
私たちは必ず、その言葉で家を訪問した。

そのあと中学に入り、
さよならという言葉の代わりに、
私たちはバイバイ、というようになった。

それでもその後、
私はさよなら、ということがあった。
24歳のとき、
おじいちゃんが死んだとき。
この世界に肉体を伴って生きていたおじいちゃんが死んだとき、
そしてそのあとおじいちゃんの体を火葬に送り出すとき、
私は、さよなら、といった。

そのあと、
14年生きてきて、
私がさよならをいうとき、
そこにはまたあう日がくる可能性があることを、
含んでいることを知った。

夢の中で、
記憶の中で、
私はおじいちゃんに何度も会った。

おじいちゃんは、
夢の中で話しかけてくれることもあったし、
私が、この世界で、辛いことがあったとき、
「おじいちゃん、しんどいわ」
と心の中で呼びかけることもあった。

心のなかで呼びかけるだけで、
私はこの世界にいることができた。

さよならは、
私にとり、
深く関わった、あるいは関わっている人と、
短い時間、あるいは長い時間、別れることだ。
そしてその別れには、
再会の可能性が宿っている。

さよなら原発

という集会が、
9月の連休、外苑でありました。
6万人の人が集まったといい、
それを知らせる地方新聞の空からの写真で、
ものすごい数の人たちが集まった様子に息を呑んだ。

私はその日、
集会を知らず、
微熱の体でコンビニに買い物にいった。

いつもは人が少ない千駄ヶ谷の街を、
静かに、たくさんの人が外苑方向に向かっていく。
夫婦、親子、子ども連れのファミリー。
カップル。

「今日はサッカーだな」とか、
「アイドルのコンサートだな」とか、
歩くひとをみていると、だいたいイベント内容がわかるのだけれど、
その日は分からなかった。
そしていつものイベントより、とてもたくさんの人たちが、
長い時間、静かに、外苑方向に向かいつづけていた。

静かに動く、あんなにもたくさんの人たち。
あの人たちが、さよなら原発、という集まりに向かっていたことを、
私はそのあと、妹に知らされて知った。

さよなら原発

というその言葉を、
私はあの集会の日のあと、
考えていました。

原発は、私たちにとり、
遠いけれど近いものだった。
私たちは、あそこから出たものを含んだ電気で、
今までの数十年を生きてきた。
私たちは、原発とともにあった。
さよならと、自分たちの意思をこめて私たちはいう。
そこには、
いままで近く接してきたことへのある意味では感謝と、
できれば離れたい意思がある。

さよならと意思表示しながら、
私たちはこれからもほぼ永遠に、
原発とともに生きていく。

外に出てきてしまった放射能と、
たくさんの原発のごみと、
私のこの人生より長い時間、
私たちは生きていく。

さよならをしても、
何度も私たちは原発にあう。
それでも、さよならをしたい。

河瀬直美監督の、「もがりの森」という映画を昨日みた。
そして、私の37年の人生が、
祖父が死んだ24歳から、
7回忌の31歳、
14回忌の38歳で、
静かだけれど大きな変化を経ていることを知った。

32歳の頃、
私は、青春が終わったと感じた。
ようやく、この世界で生きていけると感じた。
それは、青春の終わりでもあり、
同時に、私にとっては、喪がいったんあけた時でもあったのだと、
昨日知りました。

私はずっと、喪のなかにいて、
喪の中で暮らしていた。
祖父を失い、深く関わった人と別れ、
そのあとの7年を喪の中で暮らしていたことを、
さらに7年後の昨日、もがりの森をみて知った。

喪の中にいるときも、
喪からあけつつあるときも、
そのあとも、
私はそれを、うまく知ることができなかった。

大江健三郎さんの本を人生で読み続ける中で、
私にとり、生きることは、
この世界への自分なりの定義づけを更新しつづけることだと感じてきました。

昨日、喪があけるということを、
初めて実感しました。

そして、さよならという言葉の意味を、
あらためて感じました。

私はこのあとも、
さよならをいうだろう。
いろんな場面でいうだろう。
そのように生きて死んでいくことを、
それで大丈夫だよと、祖父に見守られているように感じました。
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想像するということ 美容院でのできごと 村上春樹さん

2011-04-05 18:57:56 | Weblog

地震のあと、行くのをのばしのばしにしていた美容院に、
先週行きました。

翌日からコンサルタントとしてたくさんの人の前に立たないといけなくて、
見栄えをパリッとさせるという職業的要請から、
白髪を染める必要があったから。

だけど、
私は本当はカラーリングが嫌いで、
自分の白髪はすきでも嫌いでもないから、
仕事のために嫌いなカラーリングをするのがとてもいやだった。

いやだからできる限り先延ばしにしていた美容院で、
白髪をそめてもらっているときに、
目の前に何冊か持ってきてくださった雑誌の表紙を眺めました。

普段手に取らない女性向けのファッション雑誌の中に、
村上春樹さんのインタビューを含んだヴォーグがあった。

手に取り読んだ、ドイツ人インタビュアーによるインタビュー記事は、
私にそれまでになかったものを与えてくれました。

村上春樹さんは、そのインタビューのなかで語っていた。

物語をつむぐとき、
自分はそこにあるものは何にでも、
(たとえばテレビ、プレイヤー、)
共感しようとする。

なぜそのようなことをするかというと、
共感することで、
自分は勇気をもらえるからだ、と。


多くのものと共感すればするほど、
勇気をもらうこともできるのか!
読んでいた私は、
この世界と直結したように感じ、おしりが熱くなりました。

そして、
この私は、どこまで遠くのものに共感できるだろう、
と考えた。

共感するためには、
私の場合、それをできる限りリアルに想像することが必要で、
そしてそのとき、私にとって一番遠いものは、
放射能だった。

放射能を、
私はどうしても自分の中に取り入れたくない。
できる限り取り入れたくない。
だけど東日本に生きる私たちは、
それを日々取り入れながら生きていくしかない。

どうしても自分が受け入れたくないその放射能を、
美容院の席で私は想像しました。

そして、想像した放射能に、
私は息を飲んだ。

私が想像した放射能は、
とても孤独だった。

世界に広がり、
産み出した人間に嫌がられ、
その産み出した人間の目には見えない。
あたりは真っ暗で、
近くに放射能はたくさんあるけれど、
自分としては一人で、
その、小さいけれど圧倒的な他者との距離を、
埋めることはできない。
どれだけ嫌がられても、
それでも漂うことをとめられないし、
産み出した人間よりもとてもとても長い時間、
存在し続けなくてはいけない。
産み出した人間が消えていったずっと後まで。

こんなに圧倒的な孤独が、
この世界にあるだなんて、
私は今までの人生では知りませんでした。

私はこの地震の前の世界では、
想像する力を、
意図的に使うことはあまりありませんでした。
想像すればするほど、
その対象と自身が同化し、
同化することが、
ときに私を苦しめるからです。

汚される海を想像することで自分自身が穢れ、
地下鉄サリン事件で傷ついた人たちを想像することで自分自身の口から血があふれ、
鼻の奥の血が熱くなる。
JR尼崎線の事故を想像するとき、私はその電車の中にいて、
電車と建物に挟まれて、すりつぶされる。

想像し一体化し、時に圧倒的な暴力を受けたあと私は、
こちら側の世界で立っているのが困難になる。

けれど、
想像力は、私がコントロールして止められるものではなく、
ときに勝手に激しく働き、
私自身を危うくした。

だから私は、
自分自身の想像力を、時には恐れていました。

けれど、
想像することを抑えようとしても、
私には時々それを止められない。

その、制御できない、私には危険も伴う想像力が、
私に、ときに勇気を与えてくれるのなら。

村上春樹さんのインタビューを読んで、
そう感じて、
たぶん初めて、私は意図的に、想像しにくい遠くのものをターゲットに、
想像をしてみました。

放射能を想像した私はその瞬間、
美容院の鏡の前で椅子に座っていて、
同時に放射能そのものだった。
私はその、あまりの孤独に息を呑んだ。
息を呑む私は、こちら側の私だった。

そうして放射能を想像したあと、
しばらく、口がうまく回らなくなりました。
美容師さんと話すことができなくなり、
また、インタビューを読み直した。

何度も何度も読み直した。

本当に深く想像し、深く共感することは、
私を、事前に予測できないくらい遠くに連れて行く。
私を、事前に予測できないくらい深く傷つける。
私に息をのませ、
私の口を回らなくする。

そして、
おそらく、私をときに温め、ときに照らす。

美容院の椅子に座る私が、
放射能を想像する前と後で、
どれくらい変化したのかは私にはわからない。

ただ、放射能を想像し、
その孤独に圧倒された体験を持つ人間として、
私はそこにいる。

そのことが、
私にとり、また、この世界にとり、
どのような意味を持つのかも、
私にはまだわからない。
意味など、おそらくないのだろう。

けれど、
想像することを止められないのであれば、
意図して想像してみてもいい。

そしてそのあと、
この世界に帰ってこられればいい。

帰ってきたとき、
想像する前の私とは変わってしまったとしても、
想像し、体験し、変わったあとの私として生き残っていければいい。

こちらに降りかかってくることを、
私たちは選ぶことができない。

地震や、原発事故や、電車の事故や、
正義のために誰かを殺さないといけないと信じることや、
たくさんの人を無差別に殺すことや、
誰かを愛することを、
私たちはときに、避けたくても避けられないのかもしれない。

それは圧倒的に押し寄せ、
私たちはそれにさらされる。

この世界がそもそもそうなのだから、
私が想像することにより、私になにかが降りかかってくることを、
もう私は避けなくてもいいのではないか、
そう感じました。








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読んでほしいもの

2011-04-02 05:47:45 | Weblog

東京にいる私が、
できるだけ長く、できるだけ具体的に、
あの場所のことを想像したい。
そして日々を生きたいと希望して、
今日まできました。

ほぼ日で糸井さんが紹介してくださったこの方のブログを
読ませてもらえたことに感謝します。


http://blog.goo.ne.jp/flower-wing

んでもらえたら嬉しいです。

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あなたが笑い出すような、大きな夢がいいでしょう

2011-03-28 02:32:32 | Weblog

18日くらいの新聞に、
原子力の科学者が複数名、意見を述べていらっしゃった。

その中のひとり、
京大出身の、JOCの臨海事故のときに原子力委員会で現場の陣頭指揮をとった方が、
おっしゃっていた。

私たちが、良いと思って進めてきた原子力発電により、
このようなことになったことを、申し訳なく思う。
と。

東日本に生きる私たちは、
自然な状態より多めの放射能を体に取り入れながら、
生きています。

明日はもっと多くなるかもしれないとも思う。

それでも、
私たちはその日常をいったん引き受けて、、
この先の長いだろう年月を生きていく。
そこで、
泣いたり笑ったり、
ときには子どもを産んだりしながら生きていく。

それは、
旅人君の歌をきいた、地震後1週間目の私にとっては、
笑い出すほど大きな夢に思えた。

また、東日本で、
泣いたり笑ったりできるだなんて、
笑い出すほど大きな夢に思えた。

だけどその、
笑い出すほど大きな夢を、
私は見たいと思った。

新聞に発言されていた原子力の老科学者は、
そのような大きな夢は、
もう見ることができないかもしれない。
彼にこの世界で残された時間は、そう長くないかもしれない。
だからこそ、本当に感じたことを、報道にのせられたのかもしれない。

だけれども、
今の私には、
30代の、東京に住む、私には、
大きな夢を、見る時間と体力があるようだ。

大きな夢を見る時間と体力がある人が、
大きな夢を、
見る力を出せたなら。

人生の最後に、
自分の人生をかけてしてきたことを、
申し訳なく思う老科学者の分まで、
地震が連れてきたこの地震のあとの世界で、
今までとは別の、大きな夢を、見ることができたなら。

暗闇の中にいる人には、
小さな光がさすということが、
笑い出すほど大きな夢だ。
ほらと似ているほど、大きな夢だ。

あなたが笑い出すような、大きな夢を、私もみたい。

地震のあと1週間がたち、
地震後初めて音楽を聴いたとき、
そう感じました。

そしてあるいはあの80代の老科学者もまた、
大きな夢を、
あらたに、
抱かれているのかもしれない。
いままでとは別の形で。
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生き残るということ 七尾旅人くんがしてくれたこと

2011-03-26 11:04:36 | Weblog

3月11日の地震のとき、
九段会館の3階のシャンデリアのガラスは、
シャラシャラと鳴りながら、
とても大きく揺れました。

セミナーの司会者は冷静に、
シャンデリアの下から離れるよう、そして机の下に避難するよう、
アナウンスをしてくださった。

テーブルの上のコップが倒れ、
たくさんの水がテーブルクロスに大きな染みを描いてこぼれていた。

セミナーは中止になり、
九段会館からの避難指示があり、
私たちは階段で下におりました。

仙台が震源地とそのときは携帯のネットで見て、
東京がこれなら、仙台は、と思うと、
胸がつぶれた。

そとには救急車がきていて、
心臓マッサージを受けている人がいた。
私たちはまだほとんど何もわかっていなくて、
「確かに揺れはひどかったけれど、なぜ、命を失おうとされているのか」
わからなくて、それが怖かった。

止まっている電車が動き始めるのを、
私たちはまった。

待っているときの街の様子は、
私にはときに辛かった。
東北では、たぶん大変なことになっている。
阪神大震災のときにみたいに、
大変なことになっている。

たくさんのひとが、
亡くなっている、あるいは激しく傷ついている。
そう、想像する私の周りで、
今の九段下や市ヶ谷の、この電車が止まっていて、余震があるかもしれないという状況に、
冷静に対応する人が殆どのなか、
だけどたぶん、仙台のひどさを、私たちはわからない。
ただ、私には、予感だけがある。

私は九段下から市谷にぬけ、四谷でカフェに入りました。
そこで、九段会館の1階で天井が落ち、
お亡くなりになった方が出たことを知った。

私は、生き残ったんだと、そう感じました。

地震の前、2時頃、卒業式で集まった彼女らは、
はかまに振袖で、とても華やかだった。
彼女らを、この世界に送り出すために、
集まっていた人たち。

涙がでたけれど、
それは、お亡くなりになった方を思っての涙とか、
そういうものではたぶんなく、
激しい心の震えでした。
そしてカフェの、私の周りでは、ネットでニュースをみて、
「九段会館で天井が落ちたんだって」とか、
話す人たちがいる。
私はこの、周囲の人たちとの断絶感を、
この後抱えて生きていかなくてはいけないんだろうと、
そう想像するとこのあとの日々が怖くなった。

地震のあと、1時間半くらいがたち、
会社から集団ごとで歩いて帰る人たちがだんだん街に満ちてきた。
非日常に、少し浮かれたような人たちもいた。

人が、亡くなっているよ。
東北ではきっととても、とてもひどいことになっているよ。
阪神大震災のとき以上に違いないよ。

だから、はしゃぐのはやめてよ。

そう思いながら、
ひとり、歩いた。

明治記念館のかわらはずいぶん落ちていて、
東京体育館の上の夕日はきれいだった。

あたりが暗くなる前に、
千駄ヶ谷のうちに着いた。

そのあとたくさんビールを飲んで、
眠りました。
次の日も、たくさんビールを飲んで、
そして、ありものを食べた。
お友達にいただいたクッキーや、
インスタントの食べ物。

いつもはあまり食べない、インスタントや甘いものに、
助けてもらった。

食べて飲んで眠る。
食べて飲んで眠る。

時々、ラジオを聴く。

2日間、それしかできなかった。

食べて飲んで眠り続けたあと、
日曜日、お友達のおうちでの送別会に行きました。
2日間、お料理なんかはできなかった。
日曜日の送別会で、お料理をすることになっていたけれど、
できるかどうか、お昼までわからなかった。

だけど、送別の気持ちが自分の中からでてきて、
私は、出し巻き卵や、かまぼこを重箱にきれいにならべ、
青菜のナムルをつくり、
お料理をするための調味料を持ち、お友達のおうちに行くことができました。

お友達のおうちでは、
地震でかなり乱れていただろう家をきれいに掃除してくださっていて、
そして私がお願いしていた食材を、
主催者ご夫婦で買ってくださっていた。

私はそれを使わせていただいて、
かす汁のおなべをつくることができた。

お客様たちがこられて、
美味しいものをつくってこられたり、もってこられたりした。

広島に行く、送別される男の子は言った。
「広島に行ったら、また、こんな風に温かいひとたちとすごせたら。
こんな人たちの中に、自分がいれることは奇跡なんやけど。」

その男の子の中にある、希望の光が嬉しくて、まぶしくて、
鼻の奥が痛くなった。

たくさん飲んで、
家に帰り、
月曜日、会社に行きました。
その週と翌週の私の仕事は、すべてキャンセルになりました。

火曜日に、
東京の空気にいつもよりたくさん放射能が含まれていることを知り、
怖くて、苦しくて、泣き出しそうだった。

地震のあと、
ようやく料理が作れるところまできたのに、
放射能。

怖くて苦しくて、いつでも泣きたかった。
そして、仕事はキャンセルになっていて、
私は、なにかを落ち着いてできる状況ではなくなってしまった。

私はネットで飛行機を予約して、
連休京都にに帰りました。

関西は、外国みたいにのどかだった。

京都に帰った次の日に、
お墓参りにいった。
お墓参りのあと、
家でたくさんのご飯をつくった。
妹に、お弁当としてつめてあげた。

夜は、おば夫婦に、美味しい串やさんに連れて行ってもらった。
私はずっと、地震のことや、放射能のこと、
東京で、買占めがすごくて、
人はたくさんの弱さや悪を持ってて、
私もとても弱くて、悪もあって、
どんどん東京からも人が逃げていること、
だから、きれいな報道でまとめてほしくないと言った。

東日本全体が、
もう、世界から見たらだめに見えるだろうだから、
日本がこの後復興できるのか、わからないと私は言った。

おじちゃんやおばちゃんは、
ずっと、話を聴いてくれた。
「そやけど、日本は復興するで。絶対に」
と、おっちゃんはいった。

「ほんま?今は私はそう思えへんけど、
おっちゃんが、そう確信してくれてるってことが、
嬉しい」
と、私は言った。

その日の夜明け、
旅人君の、帰り道を、聴きました。

地震後、普段はとても好きな音楽が聴けなくなり、本を読むこともできなかった。
次に音楽を自分から聴けるのはいつだろうと思ってた。

日曜が始まりだすときに、
私は地震後に作られたという旅人君の音楽を、
聴くことができた。

旅人君の帰り道を聴いて、
地震後初めて、うわーんと声をあげて泣きました。
たくさんたくさん涙が出て
くりかえし繰り返し、聴きました。

何度も聴いて、
朝が来た。

京都の家族の朝ごはんをつくり、
京都の家族のお昼ごはんをつくり、
夜、妹と、ソウルフラワーユニオンのライブに行った。
旅人君が出ることを、その日の朝の旅人くんのHPで知ったから。
大阪にいくまでの道、
京都駅の伊勢丹とかでみんながあまりに普通に買い物をしているのに
勝手に耐えられなくなって、
ずっと、旅人君の帰り道を聴きながら、移動した。
ライブで、旅人君は、
帰り道や、いくつかの曲を歌ってくれた。

ソウルフラワーの中川さんは、
自分で思っていることを、自分の言葉で話された。
会場には、いろんな人がいた。
そして、歌って、力をもらった。

歌や詩は、
それまで出せなかった感情や、
ちからを、
私にくれた。

家に帰り、
旅人君の曲を教えてくれた友達に、
ありがとうとメールをした。

音楽がトミーを癒してくれたんだね。

そう、友達はメールをくれた。

メールをもらって初めてきづいた。
私はそれまで、
激しく深く、傷ついていたんだ。

体験した、地震の激しい揺れ自体に。
そして、その後の続く余震に。
九段会館の外で見た、心臓マッサージを受ける人の姿に。
そのあと、そのかたがなくなったということに。
東京の街で、はしゃいでいた人がいた、あの夕方の風景に。
そのあとも、買占めが起こることに。
私も不安になって、たくさん野菜を買ったことに。
東北での、あまりにも辛いだろう痛みに。
放射能に。
放射能が怖くて、
東京を逃げ出したくなった自分に。
京都の伊勢丹のデパ地下で、ものすごい人たちが食べ物を買う風景に。

私はそのことを、
身近な人や、音楽や、友人の言葉を通じて、
知りました。

罹災されたかたがた、
なくなった方々、
そして、東日本にて放射能を恐れながら生きている私たち、
その世界を見ている人たち、
それぞれが、
日本が大きく深く、傷つけられた。

地震により、
放射能により、
そして、そのあとに続く、人間の持つ弱さや悪を見せられることにより。
自分の弱さや悪を、見なくてはいけないことにより。

そして、
私たちはこれからも、
放射能により、
人間の持つ弱さや悪により、
自身の持つ弱さや悪により、
傷つき続けていくのだろう。

そうやって傷つけられていく日々を、
いったん私たちは受け入れ、
そして私たちは生き残っていく。

生き残っていくために、
私たちは笑う。
私たちは、弱さや悪を抱え持ち、
それを見ながら、
だけれど、できるだけ強くなりたい、できるだけ愛したいと願う。

できる人が、
できることをして、
権力と権限のあるひとたちをそしりたくなるときはときにはそしり、
だけど、
自分の弱さや悪もそしる力をもてたなら。
そして、そしるところから次のところにいけたなら。

地震の前とあとで、
私たちは、違う世界を生きていく。
違う世界を生きのびる実験を、
私たちはする。
一生をかけて。

今までと違う生きのび方で、
私たちは生きる。

そのときに必要なのは、
闇の中にさす、かすかな光だ。

そのかすかな光は、
ときに消えそうになる。
かすかな光は、
ときに見えなくなる。

その光を、ぬくもりを、
そのとき感じられる人が、
そのとき感じられない人に、
伝えてあげることができるなら。

私の闇に、
旅人くんのうたは、
触れられる光をくれた。

その光に、触れることができるようになったのは、
私を見守る人たちの言葉やまなざしのおかげだった。

光をみる力をもらい、
光に触れることができたあと、
今の私にできるのは、
この日々の中で、
生き残り、
できれば、愛することだ。

そして、
闇の中にいる人のことを、
想像することだ。

この地震を、
私たちは異なった場所で、
異なった形で体験した。

異なった体験をしたということが、
また私たちをときに苦しめる。
その断絶を、つなぐのは、
想像力だ。

できる限り、想像してほしい。
あの場所で、激しく損なわれた人たちのことを。
そして、いまもあの中にいて、
あの近くにいて、
本当に激しく損なわれ続けている人たちのことを。
その周りに広がる風景を。
そこに、明け方、半月が浮かぶことを。
できる限り、長く、想像し続けたい。

この、日々の中で。
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雨夜の星 七尾旅人 くん

2010-10-31 04:37:01 | Weblog
千駄ヶ谷に、真夏の暑い日に引越してから、
三ヶ月がたちました。
あんなに暑かった日々は去り、
季節はほぼ冬になった。

神社や公園の緑と闇の懐に抱かれたようなこのうちで、
私は晴れた日の夜は、いそいそとベランダにでて、
寝椅子に寝転がり、空をみます。

オリオン座が綺麗に見えて、時間をかけてゆっくりと空を移動するのがみえる。

曇りの日には、星は、みえない。

雨夜の星(うよのほし)という言葉に、最近久しぶりに触れました。
雨の夜の空に星は見えないから、それくらい稀であることを言うんだけれど、私はその言葉に触れ、希望を感じた。
雨の夜の空にも、その雨雲の上に必ず星はたくさん、いつもと変わらずある。

地上から見えなくても、そこにあり続けている。
私はそれを知っている。知覚的にも、体験的にも。

飛行機の窓からみたこともある。

そして、あんなにも長く、苦しかったことも多かった怒濤疾風の青春を通過したあと、
今年、千駄ヶ谷のうちで、星をみることができた。

そのとき、
旅人くんが歌うように、
心配いらないと、星をごらんと、綺麗だよと、
私も大切にしたい人に言えるかもしれないと感じた。

そう感じられた夜までの私の長い道のりを、愛おしく思う。

そして、雨夜の空にも星があることを感じられるようになったのは、
いくつかの奇跡的な幸運があったことを想う。

怒濤疾風のとき、この世界に繋いでくれた男の子がいたこと。
亡くなったおじいちゃんやどんとに見守られているように感じられたこと。
旅人くんの歌を、このタイミングで深く聴くようになったこと。

いくつかの恩寵に恵まれて、
私は雨夜に、その上にある星を想う。
そして、

北の空に,羅針盤になる北極星が見えない

という50代の男の子たちに、
私はその場では言葉にはしないけれど、

星は見えなくてもたぶんそこに、あるいはどこかに、ある。
だから一緒に探そうか。
暗闇のなか探していたひとたちに光は差すかもしれない。差さないかもしれない。
もし、光が差したなら、そこには温もりが生まれる。
そして、そのひとが、ときに他の誰かの星になる。

そう、感じる。
そう感じながら、私はその人たちに真剣に向かう。
その幸せを、感じる。

50代の男の子たちは、初めて会った年下の女の子の私のなかに、
長い暗闇のときを通過したことを感じとってらっしゃったのかもしれない。
無意識的に。

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数え切れないほどの木と数え切れないほどの鳥と数え切れないほどの雨ふりに満ちた世界

2010-06-06 07:59:57 | Weblog
最近、どんどん日の出が早くなり、
もう私の目覚めは夜明けに間に合わなくなってしまった。
朝目を覚ますと、
4時過ぎだというのにこの世界はすっかり明るくなっていて、
もう鳥たちは目覚めきっている。

西荻に、初夏が来ました。

私は、
何度も読み返してきた「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」をまた読み返す。
上巻の最後、17歳の若い娘が、
もっと小さな女の子だったころ、入院していた病院でのある日の夕方のことを話す。

小さな女の子は、病院の窓の外のくすの木と、その木にやってくる鳥たちを毎日みていた。
鳥たちは、雨が降りそうになると木から去り、
雨がやむとまた木にやってきた。

その日の夕方は、雨が降ったりやんだりしていた。
鳥たちは、それにあわせて、木にやってきたりどこかに飛んでいったりを繰りかえした。

「そのとき私はこう思ったの。世界って、なんて不思議なものだろうってね。
世界には何百億、何千億っていう数のくすの木がはえていて、
そこに日が照ったり雨がふったりして、
それにつれて何百億、何千億という数のいろんな鳥がそこにとまったりそこから飛び立ったりしているのね。
その光景を想像していると、私はなんだかとても悲しいような気持ちになったわ」

「どうして」

「たぶん世界が数え切れないほどの木と数え切れないほどの鳥と数え切れないほどの雨ふりに満ちているからよ。
それなのに私はたった一本のくすの木とたったひとつの雨ふりさえ理解することができないような気がしたの。永遠にね。
たった一本のくすのきとたった一つの雨降りさえ理解できないまま、年をとって死んでいくんじゃないかってね。そう思うと、私はどうしようもなく淋しくなって、1人で泣いたの。泣きながら、誰かにしっかりと抱きしめて欲しいと思ったの」

私にも、
夕方が来るたびに、
あるいは一日中夕方が続くような日々が数ヶ月続く中で、
泣き出す寸前の鼻の奥の痛みを体の中に抱えて、
この世界のどこに身をおいていいのか、
わからないときがあった。
そして、
私には、
しっかりと抱きしめてくれる一組の腕があった。

誰かにしっかりと抱きしめて欲しいと願うときに、
本当につよくしっかりと抱きしめられることで、
私はなんとかこの世界につなぎとめられた。

ハードボイルド・ワンダーランドの中の女の子は、
その夕方家族が亡くなったことをあとから知らされる。
その日の夕方のことを、若い娘は続けて語る。

「よく覚えていないわ。そのときは何も感じなかったんじゃないかっていう気がするの。
覚えているのは、私がその秋の雨降りの夕暮れに誰にも抱きしめてもらえなかったということだけ。
それはまるで―私にとっての世界の終わりのようなものだったのよ。
暗くてつらくてさびしくてたまらなく誰かに抱きしめて欲しいときに、まわりに誰も自分を抱きしめてくれる人がいないというのがどういうことなのか、あなたにはわかる?」

私には、わかる。
その私は、
しっかりと抱きしめられた記憶を持つ。


昨日、友人夫妻の家に遊びにいきました。
生まれて4ヶ月の小さな男の子は、
夕方になると、
すこしせつなそうに泣いた。

どれだけ小さくても、
この世界のせつなさを、
男の子は知っているのかもしれない。

そして、
雨降りの前に木から飛び立つ鳥が、
私たちに雨が降ることを教えてくれるように、
ちいさな男の子は、
私たちに、この世界に夕方になると特に満ちてくるせつなさを、
教えてくれるのかもしれない。

その小さな男の子を、
しっかりと抱きしめる腕が、
その家には二組あった。

この世界は、
たくさんのくすの木と、雨降りと、鳥と、
切なさと、深い安堵と、
興奮と静けさと、
さまざまなもので満ちている。

そしてこの世界は、
たまらなく誰かに抱きしめて欲しい瞬間にある(おそらくはたくさんの)人を、
含んでいる。

そのときそこに、
できれば抱きしめる腕があって欲しい。
昨日の、小さな男の子を抱きしめる二組の腕のように。

でもそこに、
うまい具合に抱きしめる腕がないことがある。
(抱きしめる腕は遠くにあったり、
 亡くなったり、
 その腕自体が抱きしめられることを望んでいて抱きしめる力がなかったり)

その腕がないときがある、この世界を、
私たちは生きていく。
生きていくことができるのは、
強く抱きしめられた、遠い記憶があるからかもしれない。

遠く、強く、温かく、やわらかい記憶は、
私たちの取り出せるところより深くにしみこみ、
いつか私たち自身がその記憶を忘れたとしても、
それでも私たちの奥に去らずにある。
ずっと、そこにある。

だから、
たぶん大丈夫。
小さな男の子が大きくなり、
この世界が今とはとても変わっていたとしても、
私たちがたくさんの記憶を取り出せなくなっていたとしても、
だからたぶん大丈夫。

昨日の帰り道、
夕暮れが来る前、
駅まで一緒にあるく、小さな男の子の母である友人の横顔は、
小さな女の子のようでした。

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耕された鉄の庭 取り出された臓器 この世界に降る雨 魔法の料理のこと

2010-05-23 05:41:03 | Weblog
最近、眠れるときはできるだけ早く眠ってしまう。
そして朝、夜明けの少し前の4時頃、目が覚める。
昔から、
私にリズムが戻ってきたとき、
私の体はそのように目覚めてきました。

ここのところ、
毎日、
とても濃く永い夢を見ます。
目覚めたとき、
私の鼻腔にはまだにおいがのこっていて、
私がみた臓器みたいなものや、皮膚の上にあったしみや、
シーツのしわのかたさ、
手の痺れはありありと私の体に残っている。
その感覚は、数日経ってもまだ、しっかりと私の中にある。
この世界で起こったことと同様に、
あるいはそれ以上に深く。

そのように目覚め、
しばらくすると夜が明け始めます。

この世界はまだたくさん起きていないから、
そこにある音はあまり多くなく、大きくなく、
だから、耳を澄ましても私の耳は壊れない。

安心してこの世界に耳を澄ますことができる、
安全で幸福な時間。

私は、
西荻窪から遠く離れた場所で半年かけて耕された、友達夫妻の鉄の庭のことを想像します。
そして、また別の遠く離れた場所で、おとつい手術で取り出されたという臓器と、
臓器を取り出された女の人のことを想像します。
臓器を取り出されたあとの、
おなかの中の暗がりを、
そして臓器を取り出されたあとふさがれまだ溶け合いきらないだろう傷跡と、
臓器を取り出されたあとの女の人と、
その女の人を見守り、無事を祈る、周囲の人たちの姿を。

今日は雨降りの予報だと昨日、古くからの友達が知らせてくれた。
だからか、
私に、
かつて鉄の庭だった、まだ見たことがない庭に静かに雨がしみこんでいく風景が
浮かびます。
雨がしみこみ、土から立ち上がるにおいが鼻の奥に広がる。

臓器を取り出された女の人の病院の窓の外にも静かに雨が降る。

まだ眠っているだろう古くからの友達の、
とてもたくさん日があたるアパートの、
その窓の外にも屋根にも、
静かに雨が降る。
雨に包まれて、
友達は、
よく眠っている。

私はベランダへの扉を開ける。
そしてベランダの外に出る。

裏の家の1階から、ご飯を炊くにおいが静かに、圧倒的にあがってくる。
いつもの鳥が、
少し遠くの左手の大きな木と、少し右手の大きな木から、
互いに呼応するように鳴きあう。

ベランダに出てみると、予報では降るといわれていた雨が、
今朝の西荻にはまだ降っていませんでした。

部屋に戻り、
バンプオブチキンの「魔法の料理」という歌の歌詞を見たくなる。
まだ小さな男の子に、大人になった僕が語りかけるうた。
私は聴き取り書き付けた歌詞の断片を見る。



君の願いはちゃんとかなうよ
こわくてもみてほしい

これからなくす宝物が
くれたものが今宝物

楽しみにして でも覚悟して

言えなかった思いは、育てないままうたにする





大切な宝物が、
ときに
この世界から、私から、失われる。
でも、その宝物が、この世界に、私に、
たしかにくれたものがある。

なくした宝物がくれたものが、そのあと宝物になる。
そのような宝物を含んだこの世界に、
静かに雨が降る。

雨はまだ降っていないのだけれど、
静かに降る雨に包まれてこの世界に含まれている気持ちがした朝でした。
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近藤良平 トリプルビル 去らない孤独と差し込む光のこと

2010-03-20 11:27:18 | Weblog
2月7日、
近藤良平さん演出のダンス公演、トリプルビルを観ました。

1ヶ月以上経っても、
そのときもらった光が私を去らない。

3部構成のその公演は、
「ふふ、」と笑えるようなかわいらしさや、
男の子たちのやんちゃな感じや、
ちょっとクールな感じや、
いろんなトーンが混じりあっていました。

そして最後、
近藤さんは1人で踊った。
光の中を、徐々に高まる美しい音楽の中を、
1人で激しく。

高まり爆音に近づく音楽の中で、
光に包まれて激しく踊る近藤さんは、
同時にとても静かだった。

感情が爆発して涙がとまらなくなっていた、観ている私も、
とてもとても静かだった。

この人が、こうして、ここにいる。
30歳前後のころ、そしてそれよりも前、
そしておそらく今も、
喜びと、同時に時に激しい孤独を抱えて生きてきただろう人が、
他の人たちと一緒につくったダンスのあと、
音楽と光に包まれて、
ここにいる。

爆音と光と観ている私たちの前で、
一人で激しく踊る近藤さんは、圧倒的に1人だ。
でも、同時にこの人は、
爆音と、光と、観ている私たちに包まれている。
近藤さんは、踊る人として、この世界に含まれている。

この世界に含まれている近藤さんを観る人として、
私もまた、その時間、この世界に含まれていました。

このような時間が訪れる可能性があるのなら、
私の未来に希望はある。
体の内側から温められるような、
その舞台は私への光だった。

大家族の中でいろんな人の愛情を受けて、
京都で25年間育った。
私を深く愛した祖父がこの世界を去り、
そのあとまた、もう1人の祖父が、祖母が、
この世界を去った。

そして、深いやり取りをした人も、
失った。

京都を出、
新しい土地や仲間と出会い、
持てあまる愛情や体力をぶつけ合うような時間をすごしたあと、
東京にきてもうすぐ8年が経ちます。

仕事では、組織変更があり、
新しい仲間とともに、
新しいビルでまた日々は続く。

日々の中でこれからも、
何かを失い、何かを得、
文句をいったり、食べ過ぎたり飲みすぎたり、
消耗したりするだろう。
誰かを時には恨みがちにもなるだろう。
そんなとき、別の人から愛情を受けて、
こころ温まったりもするだろう。

ただ、どれだけいろんな人に愛されたとしても、
愛したとしても、
家族ができたとしても、増えたとしても、
1人の人として抱え持つ孤独は、
私の中を絶対に去らない。
時に遠ざかるように見えても、
私の中から孤独がきれいさっぱり出て行ってしまうことはない。

そうならば、孤独が去らないということを引き受けて、
孤独をよく観て、孤独に耳を澄まして生きていく。
その覚悟が決まるための、35年間でした。

去らない孤独を抱えて、できればよく観て生きていくということは、
時にはとても、つらいだろう。
そのつらさのあまり、自分では抑えきれない衝動も、
また今までのようにおとづれるときもあるだろう。

それでもこの先の未来のどこかで、
孤独を抱え持つ私ゆえに、それを包む何か、誰かがあり、
包んでくれたものごと、この世界に含まれるという瞬間があるかもしれないのなら、
それは、希望だ。

近藤さんの舞台は、
私にとり、希望として差し込む光そのものでした。





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ロックという生き方

2009-09-26 12:40:53 | Weblog
本当に久しぶりにブログを書きます。

体が震えたり、
言葉に置き換えておきたい何かが起こったとき、
深い海にもぐるみたいにして書いてきたブログを、
1年近く書いていませんでした。

その間も日常は続き、
新しい人とであったり、
仕事に少し関連する学校に通ったり、
たくさんお料理を作ったり、
泣いたり笑ったりしました。

青春はいったん終わったように感じたけれど、
遠くから、
太鼓の音が近づいてくる夜も何度もあった。

ほんとうにたくさんのビールと、
たくさんの本と、
食べ物と、
この半年で習慣として定着したように感じられるジョギングとヨガと、
私に関わるひとたちと、
そしてロックが、
今日まで、私を送り届けてくれました。

そして、今年の夏も、
妹と、2つのロックフェスに行きました。
ライジングサンと音魂。

ずっと、
ロックに出会ってから、
ロックという生き方にあこがれて、
そうしてこの20年以上を生きてきました。

ロックを鳴らすひとも、
聴く私たちも、
20年の歳月を経た。

その間に、
私たちはたくさんのものを失い、
(どんと、清志郎、河合集雄さん、おじいちゃん、おばあちゃん、
長く付き合ったひと、10代、20代、使い慣れた靴、お皿、、、)
いくつかのものを得た。
(東京の部屋、新しい仕事、新たに学ぶということ、友人、新しくこの世界に来た甥たち、ブログを書くということ)

ロックを鳴らす人たちもまた、
たくさんのものを失い、
いくつかのものを得た。

10年間聴き続けたドラゴンアッシュの降谷くんは、
すごいディスの嵐を受け、
尊敬する先輩を失い、
家族を得、父になった。

それぞれがこの20年、そしてこの10年、
サバイブしてきた。

そして、
降谷君は今もこの世界にいて、
時に同じフェスに集い(ライジングサン)、
時にTVを通じて、
年月を通過した人として、
私の目の前に現れる。

見る私、聴く私は、
はじめ、通過した年月を意識していない。

それでも、
野外で曲が重なるにつれ、
そしてその降谷くんの祈るように歌を届ける姿や、
佐野元春の質問に真剣に答える姿をみているにつれ、
いつの間にか私は、
その通過した年月を感じずにはいられない。

この世界から零れ落ちそうになった夜を、
そして絶対に消え去らない孤独を、
私たちはその通過した年月分、
それぞれの中に持っている。

たくさんそんな夜を持っている人として、
その上で、
届けたいと祈ることができ、
シェアできると信じることができる。

私たちは11年前のあのフェスと繋がっている、
でもあの時と同じではない私たちだ。

そして、
音楽に、人に、できることもあると、
今、信じている。

私たちの中を年月が通過してもなお、
もしくは年月が通過したからこそさらに激しく。

そのことが、
体が震えるほどの力を私にくれます。

ロックという生き方に激しく憧れ、
でも私の日常はちいさな逃げや言い訳も多く、
ロックでないこともたくさんしてきた。

ただ、ここまで生きのびられたのは、
ロックという生き方に14歳のときに激しく憧れ、
そしてそのあとも憧れ続けたこと、
それ抜きにはない。

降谷くんにとっての音楽もたぶん同じなんだろう。
そんな気持ちがします。



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最後のニュース 筑紫さんと井上陽水

2008-11-16 10:32:34 | Weblog
11月11日、筑紫哲也さんの追悼特集番組がありました。
たまたまその日は仕事が終わるのが遅くなく、
家に帰って料理を作りながらテレビをつけると、
追悼番組の最後のほうで、
病院の屋上と思われるところで撮られた、
筑紫さんの人生の最後の時期のコメントが流れていた。

筑紫さんは静かに、
語り続けていました。

今までこれだけ長く話してようやく、
これから僕は本当のことを語ります。
本当のことを話すには、
時間が必要です。

こうしてTVを離れてTVを見る側の人間になると、
本当のことを話すには、
TVという媒体はあまりにも短すぎるのではないかと思いました。

TVは、今の日本を、
衰退に向かう国のように伝えます。
衰退に向かう、いわばガンにかかったからだのように報道します。
そして、そのガンがどのような現象を伴っているのか、
現象について詳しく伝えます。

ガンと戦うことには、
相当のエネルギーが割かれます。
健康なときに前に進むために使われたエネルギーが、
ガンと戦うことに大きく割かれる。
だから私たちは、その現象にどうしても目をやってしまう。

ただ、私たちが見るべきは、
あるいはTVが伝えるべきは、
ガンの先にあるものだ。
私たちは、
その先について語るべきだ。

筑紫さんは静かに語りました。

そしてTVはCMに入った。

本当に好きな歌、最後のニュース。
私は、
「CMのあと、井上陽水さんが歌います」というナレーションを聞き、
料理をする手をとめ、
その歌は、最後のニュースだろうと感じながら、
CMが終わるのを緊張しながら待った。

CMが終わり、
井上陽水は歌い始めた。
その歌は、
高校生のとき発売された井上陽水のCDを、
友達に借りてダビングしたテープで何度も聞いたものとも、
晴れた日のフジロックで、メインステージに向かうとき姿よりも歌声が先に聞こえてきたあのときの最後のニュースとも違った。

最後のニュースを歌いはじめた井上陽水は、
体全体で泣いていた。
涙は流さずに。
歌と体に、
筑紫さんへのさようならの気持ちがあふれこぼれだし、
そこで井上陽水はとてもひとりだった。

歌と歌の合間に、
サングラスの上のおでこの筋肉が、
上がり、また下がる。

歌と歌の間に、
何度も口をあけ、そして閉めた。

気持ちが溢れ出すことに、
なんとか耐えようとするように。

井上陽水は最後のニュースを最後まで歌いきられました。

一言も話さずに、
彼は体と歌全体で、
彼と筑紫さんのこと、
筑紫さんへの思いを、
そしておそらくはそれをスタジオで見ていたTVマンたちの筑紫さんへの思いを、
TVを観ていた日本の人たちの筑紫さんへの思いを、
それを聞いていた人と共有した。

今週、
そのあとの日々は、
とてもよく晴れた日がきて、
その日に仕事でトラブルがあり、
その対応と、もともとの予定の仕事に追われた数日でした。

仕事の合間、
移動する電車の中で、
思いが遠くまで進みます。

筑紫さんの、この世界では最後の、本当のことを話す姿と、
井上陽水の歌だけを歌う姿。

私は、
もし生きているとしたら、
どのような60代になれるだろう。

この日常の先にそれはある。

この日常の、
間断ない選択の先に、
それはある。

たとえば、このクレームにどのように対応するのか、
私がどこまでの責任を感じ、
組織に働きかけ、
どこまでの対応をするのか。

時々は、
間違うこともあるだろう。
誰かのせいにしたり、
逃げたくなったりして小さく逃げたり、
そのように、
間断なく迫られる日常の選択の中で、
私は自分にとっての誤りを犯すだろう。

今まで、
時々そのようにして、
ごまかしたり、傷つけたりしたように。

34歳になり、
青春は去りました。
もう、気を失うまで毎晩飲んだりする必要はなく、
私はいったん、この世界になんとか生き残った。

そしてこの日常を、
自分にとっての誤りも犯しながら、
生きています。

自分にとって誤りと感じることがあるのは、
たぶん、
私が、希望のようなものをを持っているからだと思います。

私は60代までもし生き延びることができれば、
そこでしたいことがある。

できることならそこで、
私は、
自分の感じてきたことを、
自分の言葉で語りたい。

それがもし、自分以外の誰か1人の耳に届き、
その存在自体を力づけることがあればと、
夢想します。

それはどんな言葉で、
どんな方法で、
そして誰の耳に届くのか
(家族なのか、また違う人なのか)
わからない。

その希望が、
叶えられるかどうかもわからない。

ただ、
私はそれを希望しつつ、
この日常を生きて生きたい。

青春は去ったけれど、
その強い希望にある意味では私は支配され、
そしてその強い希望は時に、
私に、
自分のとった行動が、希望と照らし合わせると誤りであったことをつきつける。

そして、
青春は去ったけれど、
時々激しく魂が震え、
それに伴う眠れない夜が来る。

震えをなんとか凌いで、
水面に顔を出し続けようとする、力の源のひとつはやはり、
その、
希望だと感じました。
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満ちてくる月 この世界の小さな男の子、女の子

2008-09-14 12:31:12 | Weblog
2週間続けて、
週末は京都に帰っていました。

祖母の3回忌とお墓参り。
バンドのくるり主催の世界音楽博覧会。

音楽博覧会は、
妹の友達二人と一緒にゆったりと楽しみました。
妹の友達たちは、
それぞれ、
とてもその人らしい体の動かし方や、
話し方や、
食べ方をしていた。

そういう人を、
半日程度の長い時間、
ゆっくり見れることはそんなにないから、
そのしぐさや話し方を見ていると、
冷たくておいしい水を飲んでいるみたいな気持ちになりました。

音楽博覧会の最後、
くるりの岸田君と、細野晴臣さんが、
「風をあつめて」を歌いました。

まだ細身のお月様が出始めた時間、
風がふいて、岸田君は幸せそうだった。
青年だった岸田君は、
大人の男の顔をしているように感じた。
その顔を、
好きだと思った。

次の日の日曜に、
秋が来た。

秋が来たあと、
東京に帰ってきてからの1週間は、
仕事が怒涛の日々でした。

毎夜、お月様がどんどん満ちていきました。
くたくたになって帰り道、
上を見上げると毎日、おいしそうな月が少しづつ満ちていきます。

満ちてくる月を、
友達からのメールに教えられ、
また、ほかの友達にメールでお知らせした。

満ちていくお月様に、
見守られ、毎晩家に辿り着きました。

今朝は3週間ぶりくらいに自宅で迎える休日の朝で、
なんだかとても静かな気持ちだった。

そしてこの2週間に見たりあったりした、
たくさんの、
いろんな年齢の、でも今もよく見ると小さな男の子、女の子たちのことを、
思い返しました。

60歳の男の子の細野晴臣さん。
32歳くらいの岸田さん。
36歳の、結婚している女の子。
52歳の、負けず嫌いの女の子。

小さな男の子、女の子が、
できれば怖い夢をみませんようにと、
そうおもいました。



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赤塚不二夫さんへの弔辞 震える声

2008-08-18 06:51:35 | Weblog

先週は、お盆の週で、
お客様もお休みのところが多く、いつものばたばたした流れとは違う時間の流れでした。

朝、
お弁当を作ったり、
酢の物を作ったり、
そういう余裕があり、
夜、
後輩の女の子とご飯を食べに行ったりしました。

後輩の女の子も、ちょうど数日前に、夫婦で、
映画 ぐるりのこと。
を観た直後で、二人でぐるりのこと。の話もしました。

ゆったり、のんびり、自分に還っていくような1週間の中で、
久しぶりに心に引っかかることがありました。
1年以上にわたる、私に対しての一方的な思い込みが、
まだ続いている。
ほっておけばいいと、
ずっと思っていたけれど、
人生での事故みたいに、これは続くのかな、と思うと、
なんだか暗澹たる気持ちになりました。

朝、目が覚めた直後にも、そのことを思い出したりもした。

暗く暗く落ち込みそうになったとき、
私はタモリの、赤塚不二夫さんへの弔辞を思い、
それを思うことで力をもらおうとした。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、
受け入れることです。
それによって人間は重苦しい陰の世界から開放され、軽やかになり、
また時間は前後関係を断ち放たれて、
そのときその場が異様に明るく感じられます。
この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。
すなわち『これでいいのだ』と。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

すべての出来事、存在をあるがままに受け入れる。
赤塚不二夫のその姿により、
タモリはおそらく、何度も絶望から解放されただろう。
水平的につらなっている日常の時間軸ではなく、
垂直的に、光につがるような点に立っただろう。
そこは本当にまぶしく、永遠につながるような瞬間だっただろう。

その光を得た後の、日常的な時間は、
もしかすると時には味気なかっただろう。
それでもその、異様に明るく感じられた瞬間を、
タモリは愛しただろう。
そしてその異様な明るさのなかに含まれたことに、
深く感謝しただろう。
タモリにとって赤塚不二夫は、父であり、兄であり、弟であるとともに、
自分を照らし先導してくれる人だっただろう。

先週、kuraさんという方がコメントをくださったことを契機に、
その方のブログをよみ、
その中で紹介されていた、ランディ・パウシュという方の、「最後の授業」を読みました。

私が受けたのは、
祖父の人生最後の授業だった。

国語教師として人生の大半を過ごした祖父は、
祖父であり、また私を遠くから先導してくれる人だった。

亡くなっていく4月から5月初旬にかけて、
私と祖父はほぼ毎日、1時間くらいの対話をした。
祖父は、自分が死ぬということを自覚してからは特に、
シンプルに、話したいことを話すようになった。

病室に、私と祖父が二人になる。
私たちは、一方があとしばらくするとこの世界を去っていくということを、
受け入れてはじめている。
そのうえで、
聞きたいことを聞き、伝えたいことを伝えている。

理想というものが、ある人をとても遠くまで連れて行ってくれるということ。
この世界の美しさ。
それを切り取らざるを得ない衝動と、切り取る技術のない悲しみ。
だからこそ、切り取ることに成功した美しい音楽を、小説を、
私たちは愛してきたということ。
そしてそのような音楽が、小説が、今後の私を助けてくれるだろうということ。

愛した人から、同じくらいには愛されていないかもしれないという不安。
この世界に残す人たちが、ちゃんと安心して生きていけるかどうか思い遣る悲しみ。
そして、自分の手では自分の人生を断ってはいけないというルールの共有化。

病室の中の私たちは、
その瞬間私たちの間以外には何もなく、
ただ、目の前の対話に集中した。
私たちは、静かに、夢中で話をした。
そして、祖父は、毎日、どんどん変化をし広がっていた。
「昨日は思い悩んでいたことが、
今日はこっちの扉があいた、
今日はこっちの扉があいた、て、
毎日ひろがっていくんや。
どこまで扉がひらいていくんやろう、って思うわ」
と、祖父は本当に深い慶びをたたえて言った。
私はその言葉と、その表情を信じた。
そして祖父の目に映るこの世界の変化を、
近くから想像した。

私は祖父のその変化を見させてもらうのに、
間に合った、と思った。
24歳で、
これは祖父の、私に対しての最後の授業なんだと思った。

大学院と家との合間に、病院に通う道が、
私にはふかぶかと嬉しかった。

祖父もまた、私が訪れるのを楽しみにしてくれていたといいます。

そして、
祖父は最後には自分のこどもたちと妻を周りによび、
「これが死んでいくということだから、よく観るように」
と話したという。

最後まで、
祖父は教師として死んでいった。
そうありたいという祖父の理想を貫いた。
私はその祖父の、
私への最後の授業を、そのときできる精一杯で受けとった。

タモリが弔辞でいう赤塚不二夫さんのように、また、なくなる直前の祖父のように、
すべての出来事をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることは、
今の私にはできない。

日常、人の嫉妬や、孤独の悲しみに右往左往しています。

ただ、そのような人がいたことを体で覚え、
そして時には、
他にもそのような人がいたことを、
それに支えられ生きてきた人の震える声を聞くことで、
私も遠くのその場所のことを思う。
そして、力をもらいます。
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草原で一緒に風に吹かれる瞬間のこと

2008-08-09 06:56:48 | Weblog
昨日の東京は本当に暑くて、
2件目のお客様のところにたどり着いた時には、
しばらく熱を冷まして体と心を落ち着けないことには、何も考えられない感じでした。

アイスコーヒーで体と頭の熱をある程度冷ましたあと、
同僚である先輩たちとお客様のところに入ります。
そして、先輩たちとお客様との会話を聞いていて、
心に残った言葉がありました。

この世界の中で起こる何かの現象を、
(例えばオリンピックを)
同じように見ていても、
その見ている人により、
現象の意味が変わる。

その会社に直接つながりのない文脈で起こるこの世界の日常の出来事や現象を、
自分自身の目で眺め、意味を見出すことができたとき、
既存のビジネス領域とその現象の間に橋がかかり、
そこに新しいビジネスの芽が生まれる。
そのような橋を架けられる人を、生み出したい。

お客様と同僚である先輩たちのその会話を聞いたとき、

宇宙の星と星くらい、
遠く、そして間は暗く、
普段はそこに見えていることを忘れているくらいの二つの間に、
大きな虹が一瞬で結ぶ思いがしました。

そして、
ハードワークで疲れているお客様たちと、さっきまで暑さでどろどろでしわくちゃだった私たち5人のいる小さな会議室が、
その瞬間、草原の中で、
私たちはそこでさわやかな同じ風に、一緒に吹かれたような気がしました。

人を育成するということに関係する、この仕事について6年が経ちました。
混乱したり、悲しんだり、自分の力の伸びなさに打ちひしがれたり、
ほとんどはどたばたとしていた6年でした。

その中で、
時々、
仕事の場で、
お客様と一緒に美しい風に吹かれるような瞬間がある。

美しい風に同時に吹かれている私たちは、
その瞬間、
力を発揮している人の、あるいは安心している人の姿を一緒に思い描いている。

そのあと私たちは、
それを形にするために、
こつこつとした作業に入る。
地道で汗をかく、トラバーユを積み重ねる。

そのような仕事に、
そのような瞬間に、
この6年のなかで時に立ちあえたことに、
感謝しています。

そしてそのような6年を通じて、
私はこの世界にある程度定着することができたように感じます。
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