六川亨のフットボール覚書

フットボールジャーナリスト、六川亨がディープなサッカーファンに贈る、取材の裏側、覚えておきたい話など

アジア大会総括1 オシムをどう評価するか

2007年08月07日 13時02分39秒 | Weblog
 07年アジア杯3位決定戦から10日あまり。現地ハノイ滞在中に読み始めたオシム監督著の「日本人よ!」をようやく読み終えた(同時進行でミステリの「サイゴンの悪夢」をハノイで読み始めつつ、第1から全巻読んでいるグイン・サーガの外伝「鏡の国の戦士」が帰国後に発行されたため、こちらにも浮気してしまった)。

「日本人よ!」では、オシム監督が就任当時から、1年後のハノイでも言い続けていた「日本サッカー」の「日本人化」と、彼にとっての課題は10年南アフリカW杯の出場権獲得であること、そのためには選手の若返りが必要なこと、そして中村俊や高原ら海外組をシーズン中は招集しないほうが両者にとってメリットがあることなどが改めて語られていた。

 すでにライブドアに書いたブログでも紹介したように、オシム監督の基本はブレていない。多少は饒舌になった印象もある。もしかしたら、それはメディアとの距離を縮めようとしたかもしれないし、通訳とのコミュニケーションの重要性を認識したからかもしれない(多分、後者だろう)。いずれにせよ、ハノイでは、これまで繰り返し述べてきた自身の哲学を変えることなく、「日本サッカー」の「日本人化」に全力を傾けていた。酷暑の中でも練習を休むことは無く(写真のミ・ディン・スタジアムの隣が練習場に当てられていた)、それはインドネシアに移動しても続いた。

 大会である以上、勝利にこだわるのは監督・選手として当然のことだろう。と同時に、今大会を絶好のキャンプとして、選手間の意思疎通、とりわけ海外組と国内組みの融合に利用したのがオシム監督の狙いだったようだ。前任のジーコ監督は、徹底したリアリストだったと思う。いつも結果(勝利)を求める姿勢は、時としてロスタイムの決勝点や相手自殺点という奇跡的なゴールとなって、日本をW杯へと導いた。選手や監督には「運」も必要なのだろう。

 そして、その対極にあるのがオシム監督のような気がする。アジア杯では結果と内容と日本サッカーの将来という3兎を追ったのではないか(伊野波や水野の招集を考えると、これから始まる五輪予選における主力選手の経験アップという4兎を追ったのかもしれない)。オプティミスト(楽観論者)でもペシミスト(悲観論者)でもない代わり、ロマンチストのような気がする。しかしながら現実は、どの試合も優勢に進めながら、オーストラリア戦では相手の息の根を止めることができず、サウジ戦ではリードを奪えないまま敗れ、韓国戦ではPK戦に沈んだ。オシム監督に、ジーコ監督のような、ほんのちょっとの運があれば流れも変わっていたかもしれない。

 ここらあたり、市原の監督時代のオシム采配を思い出してしまう。内容で圧倒しながら決定機を決めきれず、相手にリードを許す。後半は反撃に転じるものの選手交代が後手に回り、効果を発揮できずに敗れ去るというパターンだ。当時は、市原の選手の質に限界があるのかと思っていた。そこで代表ではどうなるのかと、興味を持って選手交代に注目していた。残念ながら今大会では、羽生や山岸といった市原の選手が起用されたことが多かったので、僕自身、この件については結論を出すに至っていない。ここらあたりも、今後のオシム・ジャパンの楽しみといえよう。

 と言ったところで結論に移ろう。オシム・ジャパンの敗退から10日あまりが過ぎ、新聞紙上では、試合内容で優勢に立ち、パス回しでも圧倒したが、決定力不足が原因で4位に甘んじたという論評が目立った。確かにそれは事実だ。でも、それは、今回のオシム・ジャパンの「過程」を短絡的に評価した結果に過ぎないのではないだろうか。ジーコ・ジャパンと比較したらどうなのか。W杯ベスト16のトルシエ・ジャパンと比較して日本サッカーは進歩しているのか、それとも退歩しているのか。それこそ、歴代ジャパン(過去の日本サッカー)と比較して現在位置の確認をしないと、オシム・ジャパンを正当に評価することはできないと思う(といったところで、これから日産スタジアムにマリノス対バルサ戦を取材に行くので、続きはまた今度。なるべく早く書きます)。


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アジア杯 対ベトナム戦「進歩の余地がある」オシム・チルドレン

2007年07月30日 16時51分26秒 | Weblog
 アジア杯グループB最終戦、日本は開始6分にアクシデントのようなゴールで先制点を献上した。その2分後である。ベンチから大熊コーチがテクニカルエリアに出て、大声で指示を出す。リードされた日本は、いつもの細かくパスを刻むポゼッションサッカーから、ミドルパスをサイドのスペースに出して相手ゴールに迫るスタイルが目立つようになる。そして11分、ミドルパスを受けた中村俊が個人技で突破して巻の同点ゴールを演出した。

 その後の日本はいつものスタイルに戻り、前半に1点、後半に2点を追加してベトナムに完勝。グループBの首位通過を決めた。

 試合後の会見で、前線へと早めにつないだことを聞かれたオシム監督は、まず「それはボールの問題ではなく、ミスの問題だ」と記者団を煙に巻く。そして立ち上がりの両チームの状況を解説しつつ、最後に「ベトナムの戦術を選手たちは理解して、平常心で戦うことが出来た。選手は自分たちで戦うことが出来た」と質問の回答を締めくくった。

 実は前日練習で、これまでの2戦では立ち上がり慎重だったベトナムが、日本戦では逆に開始早々攻めて出てくることも想定し、オシム監督は警戒するよう指示していたことを、選手自身が明らかにしていた。3回に1回はロングパスを出して空中戦に持ち込み、体力の消耗を狙うことも。にもかかわらず、オシム監督は試合後の会見で一言もそのことに触れなかった。

 これが元監督のトルシエ氏なら、得意げに自身のゲームプランを滔々と披露したことだろう。トルシエ監督はいつも自分がチームの中心であり、選手に主従関係を強要する個性の持ち主だった。そんなトルシエ監督のパーソナリティと対極にあるのがオシム監督かもしれない。時にはミスした選手を酷評することもあるが、それはミスをミスと認識させるためで、トルシエ監督やジーコ監督のようにチームから排除するようなことはしない。

 そんなオシム監督が、会見の終盤に「日本は進歩の余地がたくさんある。もちろん今も進歩しているが、それらは後になって分かることも含まれているかもしれない」と、珍しく日本を誉めながらも、意味深長なコメントを残した。

 3年前のアジア杯は、苦しみながらもチームが一団となってタイトルを死守した。ジーコ・ジャパンの絶頂期だったと思っている。そして今大会、「進歩の余地がある」と言うことは、オシム流に解釈すると「それだけ未熟」と言うことにもなる。いったいどこまでオシム・チルドレンは進歩するのか。「後になって分かること」とは、10年W杯本大会を意味しているのかもしれないが、もしかしたら今大会が終わっても「分かること」があるのかもしれない。そのお楽しみは、決勝トーナメント以降にとっておこう。
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アジア杯 対UAE戦「オシム語録」の変化

2007年07月30日 16時49分23秒 | Weblog
 UAE戦前日の公式記者会見での出来事だ。会見の冒頭でUAE戦の抱負を聞かれたオシム監督は、「UAEはデンジャラスなチーム。しかし、デンジャラスなのはUAEだけではない。日本も、よりデンジャラスな状況にある」と持論を展開した。

 その後も会見は続いたが、これまでと違ったのは、会見後に通訳の千田氏と記者団でブレーンストーミングが行われたことだ。その伏線は初戦のカタール戦後にあった。オシム監督は、記者会見であまり多くを語らないため、マスコミ各社はミックスゾーンで選手自身の口から試合後のロッカールームでオシム語録を始め、すでに報道されたように、千田通訳が泣いてしまったことなどの情報を入手した。選手からオシム監督が何を話しているのか情報を聞き出す行動は、翌日の練習取材からほとんどの記者が行うようになった。こうした行為に、千田通訳が「伝言ゲームになって、意味も変わってしまう」と危機感を抱いても不思議ではない。

 そこで千田通訳は、公式会見後に、記者団とのブレーンストーミングに応じたのかもしれない。「デンジャラス」というオシム監督の表現については、「お互いに負けた方が大会からサヨナラという意味で、グループリーグ敗退の危険性がある国同士の対戦である」という意味で使ったのではないだろうかという結論に至った。

 こうして文字にすると、瑣末なことのようだが、ある情報を確認し、共通の認識を持てたことは、コミュニケーションを円滑に進める上でとても貴重なことではないだろうか。

 オシム監督が「デンジャラス」と言ったUAE戦は日本が3−1で大会初勝利を上げ、順当に勝ち点3を獲得した。そして試合後の会見である。「一番うれしいことは、選手が元気で試合を終えたことだ。なぜなら選手もスタッフも、誰もが心臓発作を起こさなかったから」と得意のオシム語録を披露した。しかし、その後続けて「それだけ気候条件の厳しい試合だった」と“解説”したことに驚いた。これまでのオシム監督は、ストレートな物言いながら、どこか比喩的で、発する言葉の裏側を深読みする必要があった。

 ところが、この日の会見では基本的な姿勢は変わらないものの、その意味を懇切丁寧に解説してくれた。通訳は自分自身の感想や想像を交えず、監督のコメントを忠実に翻訳するのが本来の仕事である。しかし、それだけでは自分の真意が伝わりきらないと、オシム監督は判断したのかもしれない。千田通訳を介したオシム監督と記者団との“パス交換”が、アジア杯2戦目でようやく気持ちが通うようになった。そう思うと、カタール戦のドローもオシム監督、千田通訳、記者団との関係を円滑にするための、貴重な勝ち点1だったのかもしれない。
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アジア杯 対カタール戦「オシムの本音」

2007年07月30日 16時47分14秒 | Weblog
アジア杯2007はイラクの初優勝で幕を閉じた。日本は残念ながら3位決定戦で韓国にPK戦の末に敗れてしまったが、6試合を戦えたことは有意義だったと思う。連戦の中で見えてきた課題もあるからだ。

さて、今回は、グループリーグをハノイで取材中に、ライブドアスポーツに寄稿した原稿を転載しよう(全3回)。

現在66歳。ユーゴ代表監督を始め、欧州のビッグクラブで指導経験のあるオシム監督だけに、自身の感情をコントロールするのは当然のことかもしれない。

 アジア杯初戦のカタール戦。60分に高原の芸術的なゴールで先制した。しかし試合終了3分前、阿部の反則からセバスチャンに直接FKを決められ試合は1−1のドローに終わった。

 試合直後のテレビ・クルーのインタビューでは、「内容を見ていればどういう結果か分かると思う。勝ち点6を取ってもおかしくない内容だった。事故、あるいは不注意の結果こうなった」とチームに苦言を呈した。

 その後、ロッカールームでは怒りが爆発したようだ。試合後の選手たちの情報によると、「俺はプロとして命を賭けてこの試合に臨んだ。お前らはアマか。オレと同じ気持ちで試合に臨んだのか!」と激怒したという。

 ところが一転、試合後の公式会見に現れたオシム監督は、時おり笑顔も交えながらアジア各国の記者団との質疑応答に答えていた。

「試合の結果はそれほどショッキングなものではない。フランクに言うと、今日の試合には驚いた。日本はフットボールをプレーしていたが、美しいことを効果的な結果に結びつけることが出来なかった。よく走り、良いサッカーをしたが、チームは勝ち点3を取れないことを知った」と冷静に振り返っていた。

 これが前任者のジーコ監督やトルシエ監督なら、ロッカールームの怒りをそのまま記者会見で吐露し、試合結果の責任を選手に転嫁していただろう。結果は結果として冷静に受け止め、その結果に一喜一憂して感情を爆発させるのではなく、冷静に対処する。そう考えると、試合後のロッカールームと記者会見でのコメントのどちらが本音なのか、判断も難しい。たぶん、オシム監督にとって本音は二つあるのかもしれない。選手に伝える本音と、日本を始め、優勝候補に注目するアジア各国のメディアにリリースする本音の二つが。すでに次の試合に向けて、オシム監督の戦いは始まっていたと言ってもいい。だからこそ、それぞれの場でコメントを使い分けていた可能性が高いのではないだろうか

 唯一、「我々は次の試合、UAEのことを考えなければいけない」というのが、共通した本音なのかもしれない。
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アジア杯の課題と収穫1

2007年07月28日 18時27分35秒 | Weblog
 7月7日から18日までベトナムのハノイに滞在し、アジア杯のグループリーグを取材したが、準決勝のサウジ戦では嫌な予感が的中してしまった。と同時に、オシム・ジャパンはまだ発展途上のチームで、いくらでも修正点があることがサウジ戦では分かって、ホッとしたところもある。

 まず修正点である。現チームは「試合を殺す」ことと、「相手を殺す」ことが出来ない。初戦のカタール戦では高原の技ありゴールで先制しながら、その後は「ボールを回す」ことに終始して、試合を決める2点目を奪うことが出来なかった。これは準々決勝のオーストラリア戦で相手に退場者が出て、数的優位に立ちながらも決勝点を奪えなかったことにつながる。そして準決勝のサウジ戦でも、立ち上がりから優勢に試合を進めながら、一度としてリードを奪えなかったことにもあてはまるだろう。

 決めるべき時に、確実に仕留めて相手の戦意を削いで試合を終わらせる。あるいは試合を優位に進める術を――選手らは頭で理解していたとしていても――実践しようとするリーダーがいないためなのか、遂行できないようだ。

 UAE戦では、交代出場で入ったスピード豊かなアフメド・モハメドの突破を許してサイード・アルカスにゴールを奪われた。ベトナム戦でも、鈴木のOGながら右サイドを崩されて失点につながるCKを与えた。対戦相手の誰をケアして早めに潰すのか。グループリーグでは大きな傷にならなかったものの、その対処で後手に回ったのがサウジ戦と言える。相手の誇る2トップ、アル・カフタニとアル・ハサウェイにゴールを許し3失点。これまでのように、「試合を殺す」以前に「相手を殺す」ことが出来ずに3位決定戦に回らざるを得なくなった。

 とはいえ、課題もはっきり見えた。ハノイ滞在中、各国メディアの日本に対する評価は日に日に高まっていった。それは日本のポゼッション・サッカーに対しての評価で、これは間違いなくオシム監督の功績だろう。ただ、現チームの選手は「ボールも人も動く」オシム・スタイルを勘違いしていることをサウジ戦は教えてくれた。

「ボールも人も動く」とは、体格的にハンデのある日本人が欧州や南米と対戦する時にアドバンテージとして生かす利点のはず。その目的とは、フットボールの究極の目的でもあるゴールを奪うことだろう。ところが日本は、パスを回すことに専念しすぎた。

 サウジ戦では、駒野が起点になって左サイドでボールをキープ。サポートに寄った鈴木がフリーでボールを受けると、ディレイしながら右サイドの加地の攻め上がりを待ってから、逆サイドに展開していた。これこそサウジのパスカット&カウンターの餌食に他ならない。もしも鈴木が「日本のマケレレ」なら、フリーでボールを持ったらゴールに突進しつつ、CBを引き付けてから加地に展開して欲しいところだ。

 鈴木に限らず、加地や遠藤、中村俊ら、ドリブル突破はシュートといった具合に、勝負して欲しいところでパスを選択していたのは、見ていて欲求不満が募るばかりだった。

 何のために「人もボールも動くのか」。「ボールを動かす」意識は浸透しつつある。では、その意味を戦術=ゴールに生かすこと。それこそが次のオシム・ジャパンの課題となるはず。それを確認できた、有意義な07年アジア杯でもあった。

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W杯共催と宮沢氏の思い出

2007年07月04日 12時01分36秒 | Weblog
 元首相の宮沢喜一氏が、6月28日に老衰のため死去された。個人的な付き合いはもちろんないが、同氏はW杯招致国会議員連盟の会長として日本のサッカー界に尽力された恩人でもある。
 
 忘れもしない96年5月下旬。スイス・チューリヒでのFIFA本部で02年に開催されるW杯の開催地が決定された。日本か韓国か。「共同開催はFIFAの規約にない」というアベランジェ会長の言葉に従い、長沼健会長(現日本協会最高顧問)をはじめとする関係者は6年間に及ぶ招致活動のゴールを目指していた(招致活動のスタートは、90年イタリアW杯のプレスセンターで、村田専務理事や中野事務局長が、02年W杯の招致をPRするパンフレットを配ったのが最初だったと記憶している。村田氏や中野氏はIDがないためプレスセンターに入れないので、代わりに日本人記者が海外のプレスにパンフレットを配ったのだった)。
 
 96年当時、現地チューリヒで取材していた僕は、記者仲間とお互いに仕入れた情報を交換しながら、ブレーンストーミングで日韓のどちらが有利な状況か、事あるごとに話し合ったものだ。FIFA本部の近くにあるドルダーグランドホテルのバーで、FIFA理事の誰と誰が密会していた。事務局長のブラッター(写真/現FIFA会長)がある理事と密談したようだ。票の取りまとめをしていたのではないだろうか……などなど。噂の域に過ぎないものも多かったが、とにかく情報が錯綜していた。
 
 開催国の決定は、本来なら6月1日。理事の投票によって決定される。その3日前の深夜、宮沢氏と衛藤征士郎・議員連盟事務局長(現衆議院議員)らがチューリヒ入りした。翌5月30日には、日本の招致委がベースキャンプにしているカールトン・エリートホテルで記者会見が開催された。日本の招致活動をサポートしてきた、サー・ボビー・チャールトン氏が「いよいよ残り2日。今日を入れて3日だが、今日オープンした日本のメディア・ハウスには、海外からのメディアも大勢取材に来ていただいている。遠慮なく、答えられる質問にはきっちりと答えたい」と挨拶すると、続いて岡野俊一郎・招致委実行委員長、衛藤氏、釜本邦茂・議員連盟常任幹事(現日本協会副会長)らが挨拶や質疑応答に答えていた。

 衛藤氏は「現地での手応えでは、(招致活動委の)長い間の友好と親善の経過があり、そのバックグラウンドの上に、いい感触をつかんできた。わが国は青少年のサッカーが盛んで、開催を希望する自治体も条件を揃えている。スポーツは未来の象徴。日本は戦後50年、平和に発展もしてきた。神戸では(震災後)チャリティーマッチもしてくれたし、そのお礼もした。世界の平和のために努力してきたので、是非とも日本で開催してほしい。21世紀に青少年の健全な育成、そのための準備が日本にはある。決定に際してはルールに則り、フェアプレーでベストを尽くす。有終の美は勝利と確信している。確かな手応えもある。議員連盟はFIFAの求める規約と手続きに則り、粛々と頑張ってきた。日本はFIFAと共にある。議員連盟も日本の招致委員会の協力に従ってきた。後は人事を尽くして天命を待ちたい」と挨拶。実は前夜、チューリヒ市内にある有名なビアホール「ツォイクハウスケラー」で、衛藤氏が上機嫌でビールを飲んでいたという情報を入手していた。日本のリードを確信させる情報と思ってもいいのではないか?

 というのも、アベランジェ=FIFAが否定する共同開催という選択肢が、万が一にもあると仮定すれば、それは日本からの提案で、日韓の政治的な決着方法として議員連盟が日本協会に譲歩を迫る可能性を捨てきれなかったからだ。
 
 しかし、衛藤氏の行動から、その可能性は除外していいのではないだろうか、と記者仲間と話し合ったものだ。
 
 その後、岡野氏は、韓国記者からの質問について可能な限り紳士的に対応した。
――共催の可能性について、日本はどう考えているのか。
岡野「W杯の共催はFIFAが決める問題です。今のところ何の連絡もないので、今まで通りに招致を進めるしかない。共催は仮定の問題です」
――共催が可能となった場合はどうするつもりなのか。
岡野「それも仮定の話です。FIFAがどう決めるかですね」

中略

岡野「W杯アメリカ大会の時に、ある大会関係者が大会後に言っていました。「W杯は窓である。窓を通して世界中の人々が米国を見た。そしてまた、サポーターを通して米国民は世界を知った」と。W杯日本開催は、大きな刺激と勉強と、そして仲間作りができると確信しています」(以後略)。

 岡野氏は、挨拶の冒頭で「地元スイスの人も、(これまで曇天が続いていたのに)東から素晴らしい太陽を(日本は)持ってきてくれた、アルプスの山並みも見えて素晴らしい。いま、緊張はあるが心はすっきりしている。大事な決定だが、重要なゲームに臨む前と同じ気持ちでいます。心はすっきりしている」と話し、記者の質問には「私はリアリストではないので願は掛けない」と話していた。

 ところが5月30日夜、事態は急変を告げる。FIFAは、ブラッターを窓口に共催を受け入れるかどうかを日本に打診してきたのだ。

 FIFAの打診を受け入れるかどうか。長沼氏、川淵三郎氏(現日本協会キャプテン)、小倉氏(現日本協会副会長)、釜本氏らによる鳩首会談は紛糾したという。嫌な予感はあった。日本開催のバックボーンであるアベランジェ会長がFIFAにいないという。どうやらローザンヌにあるIOC(国際オリンピック委員会)本部で、サマランチ委員長(当時)と密談しているとの噂が流れた。ブラジル出身のアベランジェ氏、スペイン出身のサマランチ氏、そして当時国際陸連の委員長はイタリア出身で、世界の3大スポーツ界を牛耳る「ラテン・マフィア」と揶揄されたものだ。この後に及んで、アベランジェはサマランチに重要な相談事をしているらしい。もしかしたら、磐石とも見えるアベランジェ体制に綻びが見え始めているのか。

 宮沢氏は、歴代首相で最も英語が堪能な首相として、W杯招致国会議員連盟の会長として白羽の矢を立てられた。同氏は、ブラッターからの電話による共催可能の打診について、まず文書でやりとりをするようアドバイス。そして、紛糾する鳩首会談についても、「この問題は政府がとやかく言う問題ではない。これは純粋にスポーツの大会であって、皆さんが決めるのが正しい。私は皆さんの意見を尊重します」と穏やかに話されたそうだ。
 
 共催になっても、半分は日本で開催できる。釜本氏の「もともとW杯は16チームでやっていたのだから」というアドバイスも、共催を受け入れる準備があると答える日本の後押しとなったのかもしれない。

 本来は6月1日のFIFA理事による投票で決まることになっていた02年の開催国は、前日31日の理事会の冒頭で、アベランジェ会長自らが共催を提案したことで、一日早く決定した。サマランチ会長のアドバイスを受けて、アベランジェ会長が自己保身を図った結果だったようだ。

 共催決定後、5月30日のカールトン・エリートホテルでの韓国記者団の質問も納得できたような気がしたものだ。彼らは、最初から共催となることを知っていたのだろう。それしか韓国がW杯を開催できる可能性もないことを。だからこそ、岡野氏に対して共催に関する質問を立て続けにぶつけてきたのではないか。

 結果はご存知の通り。02年W杯は日韓の共催となり、大成功を収めたと言える。もともと共催は、94年に日韓のどちらかを選択できないピーター・ベラパンAFC事務局長が発案したものだ。その後、AFC会長(当時)だったアーマド・シャーが96年に再び提案する。恐らくベラパンのサジェストがあったと想像される。そして、この共催案を後押ししたのが、95年11月に日韓の施設を視察してレポート提出したシュミット団長(ドイツ)率いるインスペクション・チームの報告書だろう。

 そのレポートはFIFAの理事会に提出され、開催国の決定に際し、かなり重要な参考資料として活用されている。2010の南アフリカ開催の際にも、インスペクション・チームのレポートが決め手になったとFIFA理事の小倉氏は自身の著書で書いている。そのレポートがどんなものであったのか、最後に紹介しよう。僕自身が入手したのは97年夏。共催決定から1年以上の歳月を要してしまったので、情報としての価値はないと思い、これまで封印してきた。日本での単独開催を信じ、希望し、取材活動をしながら共催の可能性を考えなかった僕自身への、戒めの文章でもあると思っている。

 このレポートは、立候補国である両国での滞在・視察に関する全体観を示すものである。6月1日の決定に対する参考資料として。FIFAエグゼクティブ委員会で使われるだろう。

注/32ページ

 最終的に、以下の注意事項が添加される。

 過去数年に渡って視察を行ってきた者すべてが、両国の信じがたいほど過熱した勧誘合戦を指摘している。よって、6月1日に“敗北する”国に関しての懸念がある。その代表者たちは極めて危機的な状況に陥るだろうし、その国自体のサッカーの将来にも影響を及ぼす恐れがある。視察団は過去にこれほど二つの立候補国が、まったく均等の実力を持っているというパターンも記憶になかった。

 これによって、共催というオプションを真剣に考える――両国が地理的に近いというのも合理的――という結論に至った。さらには“アジアの顔として敗れる”という、日韓が最も恐れる事項からも逃れることができるだろう。共催が妥当、または2国の政治的(またはスポーツの政治的)協力が、このプランを許すかどうかを調査する必要がある。

 状況がどんなものであろうと、我々は今回のような膨大なコストとダメージを導き、浪費に奔走する招致合戦を、二度とフットボール・ファミリーの(特に同大陸間での)間で繰り返さないためにも、FIFAに適切な行動を強いるつもりだ。

 それ(1協会に決定すること)は、当事国にとっても、FIFAにとっても、強いてはフットボールそれ自体にとっても良いものではない。


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オフサイド・ガールズ

2007年06月13日 20時06分11秒 | Weblog
 アリ・ダエイといえば、サッカーファンなら誰もが知っているスーパースターだろう。イランが生んだ不世出のストライカーで、イラン代表として国際Aマッチ109得点は世界記録でもある。もう38歳を過ぎた大ベテランながら、先月末に監督兼選手として所属するサイパFCで、自ら決勝ゴールを決めてイラン・リーグ優勝を達成。その後、長い現役生活に別れを告げるべく、選手からの引退を表明した。

 アリ・ダエイといえば、93年の米国W杯最終予選、いわゆる「ドーハ(カタール)の悲劇」では、初戦でサウジと引き分けた日本に対し、2戦目で早くも土をつけた憎き相手でもある。終盤にゴン中山が角度のないところから執念の1点を返したものの、ダエイに奪われた2点目が重くのしかかり、日本は崖っぷちに追い込まれたのだった。

 そしてアリ・ダエイといえば、94年広島アジア大会は負傷して日本での入院生活を余儀なくされたものの、96年のアジア・カップで見事に復活。翌年のフランスW杯予選第3代表決定戦、いわゆる「ジョホールバル(マレーシア)の歓喜」では再び日本の前に立ちふさがる。一時はリードを奪う勝ち越し点を決めて日本を奈落の底に落とした張本人だ。

 前置きが少々長くなってしまったようだ。アリ・ダエイだけでなく、日本のサッカーファンにとってイラン代表選手は馴染み深いのではないだろうか。アリ・カリミ、マハダビキア、アジジ、ハシュミアン、ザンディ、ネクナム(一時はネコウナムとも言われた)などなど、ライバルたちの名前とプレーは今も鮮明に蘇ってくる。

 思えば90年代中期から00年代初頭にかけて、日本には多くの名選手が出現した。そしてそれは、イランや韓国も同じだったのではないだろうか。一時代を築けたからこそ、W杯に出場できた日本であり韓国であり、イランだったはずだ。

 といったところで、本題に入ろう。先日、「オフサイド・ガールズ」というイラン映画を見てきた。シャファル・パナヒ監督による06年製作の作品だ。第56回ベルリン国際映画祭審査員特別賞銀熊賞受賞や、リュブリャナ国際映画祭アムネスティ・インターナショナル最優秀作品賞受賞、そして第7回東京フィルメックス(観客賞)を受賞している名作でもある。

 実はこの作品、昨年の11月、有楽町のマリオンで開催された東京フィルメックスの試写会ですでに鑑賞していた。僕自身、舞台となったイランはテヘランにあるアザディ・スタジアムは、ドイツW杯予選のイラン対日本戦を取材するために訪れていたので、懐かしくもあり個人的な思い入れもあって、とある携帯サイトの原稿で紹介した経緯がある。

 当時は劇場公開が決まっていなかったため、サッカーファンならDVDを購入してでも観ることをお勧めしたいと紹介したものだ。今回は「オフサイド・ガールズ(原題は「オフサイド」)」と改題され、8月下旬に「シネシャンテ」で公開される。サッカーファンなら、こんな女性ファンが海外にもいることを是非とも知ってもらいたい名作に仕上がっているので再度紹介したい。

 物語のストーリーは単純だ。スタジアムでの試合観戦が禁止されている(近年になって解禁され、男女別の席で観戦できるらしい)イランの女性サポーターが、サッカーが好きでイラン代表のW杯出場の瞬間を見たいがために、男装してでも何とかドイツW杯最終予選のイラン対バーレーン戦を観戦しようと奮闘する物語だ。

 会場は日本戦でも使用された12万人の収容を誇るアザディ・スタジアム(懐かしい〜。写真は日本戦の取材時に撮影したもの)。ダフ屋から高額のチケットを買った主人公だが、身体検査を拒否したために見つかり、スタジアム最上階にある通路に設置された簡易柵の中に隔離されてしまう。そこにはスタジアムに紛れ込んでいたものの、見つかった少女たちが次々と集められた。壁の向こうでは試合の歓声が沸きあがっている。5人の少女たちは見張りの兵士に実況中継を要求したり、なぜイラン対日本戦では日本人女性が試合を観戦できるのに、イラン人女性は入れないのかと兵士に詰め寄ったりする。

 途中でトイレに行くと言って脱走に成功した少女もいたが、兵士が罰を受けることになるため戻ってきたり、軍服姿で偽装した少女は軍法会議にかけられることを知り泣いてしまったりといったエピソードが散りばめられ、ドラマはクライマックスへと向かう。

 試合終盤に差し掛かり、ワンボックスカーで兵舎へと移送される5人の少女と、爆竹を使って逮捕された悪ガキ1人。6人一行の乗った車がテヘラン市の中心街に差し掛かったところで、試合はタイムアップを迎え、イランはバーレーンを下しドイツW杯の出場が決まった。道路にはイラン国旗を掲げて箱乗りする車が溢れ、クラクションが鳴り止まない。イランの勝利に主人公である女性はついに堪えきれずに泣いてしまった。

 ここで、パナヒ監督のインタビューをパンフレットから引用しよう。「98年のW杯予選でイランは日本と対戦しました。この試合はおよそ11万人もの人々が詰め掛けるという超満員でした。試合終了後、スタジアムの外では軍隊のヘリコプターが出動し、観衆が近づけないように兵士たちが周りを取り囲んでいたのですが、兵士と観客の間で揉み合いが始まり、何人かが大勢の人々の下敷きになりました。7人が死亡し多くの怪我人を出しました。報道された写真には6人しか写っていませんでした。そこで7人目の犠牲者は女性だったのではないか?という噂が飛び交ったのです。(中略)この女性は男装をしてスタジアムに潜り込んだため、発表されなかった可能性が高いと思っています」

 悪ガキから花火を7本もらい、火を灯して冥福を祈る主人公。そういえば、映画に登場するキャラクターには個人を特定する名前が一切登場しない。これも女性に対して規制の厳しいイラン映画ならではの手法なのかもしれない(無知で済みません)。イランが2大会ぶりのドイツW杯出場を決め、改めてイラン対日本戦を偲ぶ主人公の少女を尻目に、悪ガキは調子に乗って車中に爆竹を放ったためパニック状態。そして、街路にあふれ出た観衆と爆竹による騒動で身動きのとれなくなった護送車にいた彼女たちは……。

 80年代前半に公開されたシルベスター・スタローン主演のサッカー映画「勝利への脱出(ペレ、アルディレス、ボビー・ムーアらスーパースターが競演)」に似た、爽快感を伴ったラストシーンと記しておこう。もちろんお楽しみは、劇場でご覧下さい!


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プライドinブルー

2007年06月09日 19時37分14秒 | Weblog
 先週、先々週と2週連続してサッカーを題材にした映画の試写会に行ってきたので紹介したいと思う。まず最初に見たのは、昨年秋にドイツで開催されたW杯に参加した「知的障害者サッカー日本代表」のドキュメンタリー映画、「プライドinブルー」だ。

 映画の主人公の一人であるGKの加藤隆生(かとう たかお)君は、小学校と中学校までは普通の学校に通っていて、サッカーが上手いことから女子生徒にも人気があったようだ。ところが、ひらがなは認識できても漢字を覚えることができない。このため高校からは秋田大学教育文化学部附属養護学校に通うことになった。最初は重度の障害者もいる学校に馴染めず、登校拒否になったそうだ。

 そんなタカオが変わったのは02年に日本で開催された「もうひとつのワールドカップ」である国際知的障害者スポーツ連盟サッカー世界選手権大会の存在を知り、06年ドイツ大会への出場を目指したのがきっかけだった。

 この大会は、94年に第1回大会がオランダで開催され、4年後の98年にはイギリスで第2回大会を開催。そして02年からはW杯開催年に同じ開催国で行われるようになった。日本は02年大会より初参加し(参加16カ国中10位の成績)、06年ドイツ大会が2回目の参加となる。

 タカオのチームメートには、長時間じっとしていられなかったり、すぐに物を忘れてしまうなど、様々な障害を抱えながらもサッカーに真剣に取り組み、W杯での活躍を心の支えに励ましあう仲間がいる。インタビューに登場する彼らの誰もが、障害者であることで受けてきた過去のイジメ体験を淡々と語っていた。

 日本サッカー協会は「こころのプロジェクト」の一環として、城氏や前園氏らサッカー界のOBを「夢先生」として小学校に派遣するプロジェクトを推進しているが、健常者だけでなく知的障害を抱える彼らも講師として派遣してはいかがだろうか。

 映画はそんな彼らの過去のエピソード、現在置かれている環境、そして障害者同士の結婚を夢見る若者など、近未来の夢を語らせつつ、障害者を持つ両親などのインタビューを交えながら進み、合宿を重ねてドイツへと旅立って行く姿を追っている。

 当然ながら、オシム・ジャパンや反町ジャパンと違い、今大会の遠征費を日本サッカー協会は一切負担はおろか援助もしてくれてはいない。団長こそ、日本ハンディキャップサッカー連盟会長で、日本協会特別顧問でもある長沼健氏が務めているが、埼玉スタジアムの上長でもある長沼氏の縁で、浦和の岡野がレッズのチームメートに声をかけて選手15人がオークションに賛同。サイン入りスパイクなどの売り上げ135万円の収益金をカンパした。また、中村俊輔もポケットマネーから100万円と自身の日本代表ユニホームにメッセージを添えて今大会に臨むチームに寄贈。俊輔のユニホームは試合があるたびにロッカールームに掲げられ、選手たちを鼓舞していた(もちろんそれだけでは足りず、選手個人の持ち出しもあったが)。

 これは余談だが、大会を偶然見ていた「日本サッカーの父」でもあるドイツ人指導者のD・クラマー氏が、いきなりホテルに滞在している長沼氏に電話を掛けてきて、日本代表の問題点と修正点をファックスで送るから監督に伝えて欲しいと言ってきたという。齢80歳近いクラマー氏だが、ことサッカーに関する限り、まだまだ現役のようだ。

 ドイツでの本大会では、試合に出られた選手の満足感と同時に、ケガからレギュラーを外された選手の不満なども、克明に中村監督は描き出している。アスリートであれば、そこには健常者も障害者もない、試合に出たいという選手本能の葛藤があることを強烈に突きつけてくる。そして町中のスーパーで買い物をするシーンでは、ユーロの円換算を暗算できずに戸惑う彼らを描いていて、「それは僕たちでも分からないこともあるから、とりあえず10ユーロを出せばお釣りをくれるはずだから」と思わず応援したくなる場面もある。何事も、他人に頼らず自分で経験することで、結果として彼らを成長させることにつながるのだろう。

 タカオの父親である隆造氏は、サッカーをすることで、ハンディを持ちながら社会性を身につけられたのではないかと回想する。ピッチに立てば言い訳はできないから。そして、それは社会人も同じだよと。と同時に「ドイツにはタカオに連れてきてもらった」とも漏らしていた。

 きっとサッカーと出会わなければ、彼らはドイツに行くことも無かっただろう。それは僕も同じで、サッカーがあったからこそ、これまで世界各地を旅することができた。

 タカオは高校卒業後、重度の身体障害者のための車椅子の製作会社に就職が決まっているそうだ。今後は指導者としてライセンスを取得するのが夢だという。電動車椅子サッカーを始め、障害者のためのサッカー指導者になりたい――なんて素敵な夢なんだろう。

 日本代表には、彼らのような知的障害者だけではなく、ろう者サッカー協会、視覚障害者サッカー協会、脳性麻痺7人制サッカー協会、電動車椅子サッカー協会があり、それぞれ日本を代表するチームがある。彼らもれっきとした日本代表の一員だ。彼らの実状を知ることができた映画「プライドinブルー」。サッカーファミリーとして、是非とも応援したいと思う。7月14日からテアトル新宿などで一般公開されるので、彼らの戦いを見守って欲しい。

 収益の一部は日本ハンディキャップサッカー連盟に寄付されるので、それが彼らの今後の活動の資金にもなるはずだから。ドイツW杯での成績は? それは映画を見てのお楽しみに取っておこう。

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麻雀の勧め

2007年06月01日 12時30分45秒 | Weblog
 素朴な疑問を一つ。ブログを立ち上げてから、アクセス数の多さ(僕にとっては)にいつも驚かされながら、勇気付けられたことは前回も報告した。で、筆不精からしばらく更新していなければブログを訪れてくれる読者も少ないことは分かる。古い原稿しかないのだから、それも当然だろう。

 ところが、気まぐれに更新したら、いきなりアクセス数が増えていた。誰かに更新を伝えた覚えはないし、いったいどうやって更新したことを知ったのだろう。ブログのビギナーにとっては、新たな謎に直面した気持ちだ。

 といったところで、今日はこれから静岡エコパでの日本対モンテネグロ戦の取材を予定している。当日は現地に宿泊し(掛川や浜松のホテルは満杯のため、静岡市内のビジネスホテルに泊まる予定)、土曜はそのまま車で北上して上諏訪あたりの温泉に宿泊。そして日曜はアルウィン松本でのモンテネグロ対コロンビア戦を取材後、長野市内での北信越リーグを取材するか、それとも東京に戻り女子五輪予選の日韓戦を取材するかどうか迷っているところだ。

 まず当面のお楽しみは、中村俊輔の出場は微妙ながら、高原に加えて中田浩二、稲本の復帰したオシム・ジャパンである。今回は試合が静岡のため、合宿もいつもの千葉市内ではなく清水で開催された。宿泊所の関係から、今回のホテルは中田浩二を除けば二人相部屋になったと新聞で読んだ。5月14日から16日にかけて千葉市内で実施されたミニ・キャンプでもオシム監督は「選手間のコミュニケーション」がどこまで進んでいるか見ていただけに、今回の部屋割りもその延長戦上にあるのではないかと推測した。

 一言にコミュニケーションと言っても、そこには様々な意味があると思う。まずサッカー選手としては、ピッチ上のコミュニケーションが最優先されるだろう。「アイコンタクト」であり、日本流に言うなら「阿吽の呼吸」もしくは「コンビネーション」だ。そうした「息」を合わせるために、果たしてここ数年の代表選手はどんな努力をしてきただろうか。

 ちょっと話は古くなるが、昨年夏のアジア杯予選インド戦後のことだ。帰国の際に、オシム監督は選手にカードゲームをやるよう勧めたことがあった。その狙いは「場の空気を読む」ことにあったという。

 事の発端はインド到着後に起きた。選手は預けたスーツケースをピックアップすると、それぞれ出口に向かおうとした。しかしチームにはたくさんの荷物がある。スタッフがそうした荷物を必死にかき集めているのに、選手たちは手伝おうとしない。そこでオシム監督の雷が落ち、選手たちも荷物の集荷を手助けしたそうだ。

 その場の状況を読んで判断する。それは何もサッカーに限ったことではなく、日常生活でも必要な、「社会人としての常識」でもあるだろう。そうした「場の空気を読む」ことで共通認識を持てれば、サッカーではコンビネーションプレーの熟成はもちろん、今は攻めるのか守るのかといったチーム戦術の判断にもつながる利点がある。だからこそオシム監督は、選手たちにカードゲームを勧めたのではないだろうか。

 この話を聞いて、僕自身も思い当たることが多々あった。私事で恐縮だが、学生時代は大いに麻雀を楽しんだものだ。サッカー部(といっても同好会)の部室か、雀荘か、映画館か、学生時代はこのどれかに入り浸っていた。ところが近年は、麻雀の出来る若者がどんどん減って、僕自身も10年近く麻雀牌を握っていない。

 そんな若者たちだが、ゲームの麻雀なら出来ると胸を張る者が多い。そこで彼らの腕前を見てみようと麻雀ゲームを見学させてもらったが、それは麻雀と言えない、コンピュータ相手のゲームだった。自分の手牌を優先し、相手からリーチ(上がる一歩手前の状態で宣言すること)がかかって、捨て牌に注意を払うのはまだマシなほう。それでもおかまいなく自分の聴牌(上がる一歩手前)を目指して、相手に振り込んでしまうことの方が多かった。たかがゲームであり、何かを(例えばお金など)賭けているわけでもないので、それはそれでいいのかもしれない。単なるゲームなのだから。

 しかし、それでは麻雀というゲームの本質を理解し、楽しんだとは言いがたい。なぜなら麻雀とは、「場の空気」を読むゲームだと思っているからだ。牌を捨てるにも、生身の人間ならリズムがある。捨てる前に長考したり逡巡して出てきた牌をケアしたり、その牌が手牌のどこから出てきたのか。真ん中あたりなのか端なのか。麻雀ゲームではこうした機微は判断のしようがない。また、聴牌が近づくと饒舌になったり寡黙になったりするタイプもいれば、いわゆる「聴牌タバコ」と言って一服するタイプもいる。そうしたシグナルが出てきたら振り込まないよう注意するのがゲームの鉄則だ。今日はバカヅキして手がつけられない相手とは勝負を避け、負けが込んでいる相手には危険を承知で勝負に出るなど、一言に「場の空気」を読むといっても様々な意味がある。

 ところが「場の空気」を読めない麻雀ゲーム世代は、仕事でも自己中の若者が多いような気がしてならない。仕事仲間の進捗状況がどうなのか。今は暇なのか忙しいのか。そうした状況を判断することなく、自分の仕事優先で帰宅しようとする。空港での代表選手と同じく、指摘されないと困っている同僚の仕事を手伝おうとしない。

 私事を長々と書いてしまったが、オシム監督が言いたかったことは、カードゲームを例に出し、代表という限られた時間でも、日常生活の中で常日頃からコミュニケーションを取ることが、ピッチ上でのコミュニケーションにもつながることを示唆したかったのではないだろうか。

 例えば日本代表選手になれば、これまで遠征先のホテルでは一人部屋が常識となっている。そこで各選手は携帯プレーヤーで音楽を聴くか、携帯ゲームを楽しむか、インターネットやDVDで映画や日本のテレビドラマを見るのがオーソドックスなリラックス方法だろう。ホテルから練習場への往復ではヘッドホンをつけて、他者とのコミュニケーションを遮断する。

 ホテル内での詳細な生活はわからないが、ホテルからバスに乗っての移動に始まり、試合後もヘッドホンをつけて、チームメートの動向を始めマスコミら取材陣の質問も無言のうちにシャットアウトする姿勢が中田英を筆頭にジーコ・ジャパンの4年間にはあった。

 彼らジーコ・ジャパンの面々は、それこそ日常生活そのものが、チームメートはもちろん、マスコミとのコミュニケーションも自ら遮断していたはずだ。にもかかわらず、ピッチに出たらいきなりコミュニケーションを図ろうと努力したと言うこと自体、それまでの行動から矛盾しているし、とても難しい作業になるだろう。その典型的な例が中田英だろう。

 ジーコ・ジャパンにあって4年近く、他者を寄せ付けずに孤高を守り、メディアを筆頭にファンとのコミュニケーションまで拒んできた。それがW杯の数週間前、Jヴィレッジ入りしてからチーメートとコミュニケーションを図ろうと努力しても、「時すでに遅し」だった気がしてならない。

 もしかしたら、小野ら99年ワールドユース、いわゆる「黄金世代」以降、ほとんどの選手は「コミュニケーション断絶」の世代かもしれない。昔の話だが、彼らを取材して不思議に思ったことがある。例えば、ユースの予選で韓国に負けたGK川口は悔しさと闘志を露にした。ところが99年組は、対戦相手との勝ち負けよりも、負けた敗因がチームメートにあったとしても、それを追求することに消極的だった。彼らが一番気にするのは、自分のパフォーマンスに満足できたかどうかで、自分の出来が最優先になっていた。

 そんな世代から再び時代は巡り、オシム・ジャパンは巻を始め「雑草軍団」を集めて戦える集団を作ろうとしている。サッカーにおける「コミュニケーション」とは何か、「戦う」とは何か。かつて日本には「森ファミリー」という、加藤久を筆頭に、下手で弱くても戦う代表があった。あるいは「ドーハの悲劇」のように、戦える柱谷哲二を中心にラモスや中山、カズら熱いハートを持った代表チームがあった。

あ れから10年以上が過ぎ、トルシエ、ジーコという「時」を経て、オシムは再度、日本サッカーの原点に回帰しようとしているような気がしてならない。それを確かめに、これから新幹線に乗ります。


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久々の更新です

2007年05月30日 12時56分38秒 | Weblog
 このブログをスタートさせたのが3月12日。スタートさせたはいいが、何を書いていいのか分からず、最初は昨年6月から7月にかけて取材したドイツW杯で、携帯サイト(欧州サッカー通信)用に書いた原稿をとりあえず転載することにした。
 と書いてしまうと簡単なようだが、最初は転載の方法が分からず、恥ずかしながら試行錯誤の日々だった。最初は「下書き」の意味が分からずコピー&ペーストした原稿をそのまま載せてしまったり、作成日時の変更方法を知らなかったり、写真を添付する際にデータを軽くすることを忘れたりと、ビギナーゆえの失敗を繰り返してしまった。

 そんな素人のブログにも関わらず、予想をはるかに上回るアクセスに、正直、驚きながらも、ここを訪れてくれた「読者」に勇気付けられたものだ。 ブログやホームページの驚異的な浸透力を、自分自身が実体験することで、改めて実感したと言っていい。

 僕自身、これまで出版界に長らく身を置いてきた。もちろん、ネットの世界を知らない訳ではない。その脅威については、知人の新聞記者、週刊誌記者などと何度も話し合ったものだ。

 ネットと違い新聞や雑誌は、まず紙代と印刷代がバカにならないほどかかる。次に流通経費だ。新聞社はデイリーな発行のため、印刷からトラックによる新聞の搬入(いわゆる輸送手段)まで自社独自の流通ルートを確保しているが、出版社はそのルートを持たない。このため講談社や小学館といった大手出版社でも、日版や東版といった「取次ぎ会社」に委託しなければならず、そのためマージンを取られている。

 雑誌で言えば、定価の2割強が取り次ぎの取り分で、1割弱が書店の取り分となる。つまり3割以上が版元(出版社)の利益から差し引かれるのだ。簡単に言うと、取次ぎは、印刷所で刷り上った商品を書店まで輸送することで(全国ネット)マージンを受け取り、書店は商品を展示するスペースを提供し、売れたらそのマージンが売り上げになる。

 そして賞味期限の切れた雑誌(売れ残り)は版元へと返品される。返品された雑誌は、多少はバックナンバー用に保管するものの、そう多く抱えることはできない。なぜなら倉庫代がもったいないからだ。このため売れ残った雑誌のほとんどは古紙業者の手に渡り(もちろん有料)、再生紙として復活するサイクルになっている(実際には取次ぎは、部数決定やどの地域に何部配本するのかなど、とても厳しくコンピュータ管理している)。

 例えば定価が500円の雑誌なら、1部の売り上げ利益は300円ちょっと。このため大量に売るか、広告費が入らない限り、なかなか利益が出ない(過去には宗教絡みの記事で広告主が全面撤退して廃刊に追い込まれた男性誌もあったほど、広告収入は一般誌にとって生命線とも言える)。

 そんな活字メディアにとって脅威なのが、「速報性」でテレビと肩を並べつつ新聞を凌駕でき、「コスト面」で新聞や雑誌を上回る、ヤフーを始めとするネット媒体であり、速報性と同時に個人個人のアイデンティティーを発信できるホームページやブログということになる(サッカー選手が何を考えているかはこうしたメディアで読めてしまうため、雑誌のインタビューも古臭く感じてしまう)。

 で、僕自身がブログの開設者となって感じたことは、gooの無料ブログを利用することで、慣れてしまえば紙媒体とは違って簡便に利用できること、そしてネット世界の、レスポンスの速さを体験できたことは新鮮な驚きだった。更新頻度が滞りがちなのを自省しつつ、折を見てサッカー界について思うこと、また過去に書いた原稿でもタイムリーな話題性があれば転載していこうと思っている。目標は1週間に1回更新といきたいところだが、最初は無理をせずに月1ペースを維持できるよう頑張るので、暇があったら時々のぞいて見て下さい。
 
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我那覇の不運

2007年05月08日 21時10分15秒 | Weblog
 今日5 月8日、Jリーグから1枚のファックスが届いた。「川崎フロンターレの我那覇選手に対する制裁の件」という文章だ。今回の件の概略を簡単に説明すると、先月末に風邪気味だったという我那覇に対し、チームドクターの後藤氏は「にんにく注射」という栄養剤を静脈注射で処方した。しかし、点滴など明らかな医療行為でない限り、静脈注射は今季より禁止されている。

 その理由は、他の禁止薬物を摂取した痕跡を消す疑いがあるからで、FIFAからのアナウンスを受けてJリーグも今シーズン開幕前に、その旨を各チームに伝達していた。ジェフ千葉は西が丘の国立スポーツセンターでの体力測定の際に、こうした規約変更を選手に伝えていたという。

 ところが川崎(のチームドクター)は、「にんにく注射」を医療行為の一環と判断したのか、それともJリーグには事後報告で問題ないと判断したのか不明だが、体調不良を訴える我那覇に静脈注射を施した。ちなみに「にんにく注射」の成分そのものは禁止薬物ではないため、例え我那覇が試合後のドーピングコントロールの対象選手に選出されて尿検査を受けてもJリーグの基準では問題はないという。そこで問題になるのは、静脈注射を行ったという痕跡である。

 で、4月25日のことだ。川崎対全南ドラゴンズ戦を取材に等々力を訪れた際、スタジアム3階にある記者席を確保してピッチに戻った時に、それまで正面入り口にたむろしていたスポーツ紙の記者の姿がどこにもなかった。チーム関係者に聞くと、我那覇の件で緊急記者会見が開かれているという。慌てて駆けつけたものの会見は終わってしまい、その内容を確認したところ、我那覇にドーピング違反の疑いがあるため、今日の全南ドラゴンズ戦は出場を自粛するという。

 我那覇はその後、Jリーグの千葉戦、横浜FM戦、FC東京戦の参加を自粛。そして今日、Jリーグは理事会で制裁を決定し、チームに1千万円の罰金と、我那覇には6試合の出場停止という処分を下した。我那覇の選手生命を考えると、川淵キャプテンが漏らした厳罰に至らなくてよかったと思っている(規則を守る立場は理解できるものの、選手とサッカーを守る長でもあるキャプテンが、軽々しく(としか思えない)選手生命を絶つような発言を述べること自体、僕にはスタンドプレーにしか思えない。それとも、彼なりの深謀遠慮があるのだろうか)。

 とりあえず、我那覇は6試合の出場停止だが、明日のACL対アレマ・マレン戦を含め、過去の出場を自粛した試合もカウントされたため、5月13日の甲府戦以降は現場に復帰できる。アジア杯へ向けてアピールしたい我那覇にとっては朗報ではないだろうか。

 そこで気になることが一つある。今回の問題の発端となった、静脈注射である。このことを報じたのはサンスポの記者だったという。4月24日の紙面に出てしまい、事実確認のためチームは我那覇の出場を自粛させ、5月1日のドーピングコントロール委員会に裁定を委ねたそうだ。チームの判断は間違っていないだろう。問題は記者のスタンスである。

 記事を書いた記者はもしかしたら川崎担当だったのかもしれない。4月25日のACL戦の記者席の雰囲気は、「彼が書いたから問題が大きくなった」というような、暗黙の理解に支配されていたような気がして、何だか居心地が悪かった。もしも彼が紙面にしなければ、我那覇はお咎めなしだっただろう。君が原稿にしたから、我那覇は迷惑を被ったんだよ。黙っていれば「にんにく注射」も風邪の治療の一環として見過ごされていた可能性も高いのに、といった具合に。

 きっと書いた記者は我那覇に申し訳ない気持ちでいるのかもしれない。自己嫌悪に陥っていたとしても同情してしまう。でも僕は、彼の勇気と、もしかしたら無知を賞賛したい。ある選手が禁止されている静脈注射を打って、それを事前に指摘したら大した記事にはならないのではないだろうか。彼(我那覇)が、明らかな違反(つまりはドーピング違反して試合に出場)を犯した時こそ、新聞ネタになるのではないだろうか。普通の記者ならそう仕向けるはずだ。

 そう考えると、その時に現場にいた記者は、特ダネを仕入れたとほくそえんでいたかもしれない。そんな思惑をサンスポの記者は「勇み足」でつぶしてしまった可能性もある。全ては想像の出来事だが、こうした出来事は「サッカー」が「仕事」になるからこそ起きるのかもしれない。我那覇には、今回の事件に負けずに頑張って欲しい。
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五輪監督の役割とは?

2007年03月29日 21時55分07秒 | Weblog
 北京五輪アジア2次予選、日本対シリア戦はエース平山の2ゴールなどで日本が3−0と快勝。4月18日にダマスカスで開催されるアウェーのシリア戦で勝ち点3を奪えば、2試合を残して最終予選進出が決定する。

 シリアと言えば、2年前のワールドユース・オランダ大会に出場。グループリーグではイタリアに競り勝ち、決勝トーナメント進出を果たした実績がある。あれから2年、オランダ・ケルクラーデで苦闘した大熊ジャパンの教え子たちが、今回のシリア戦でどれだけ伸びているのか。両国の若手選手の伸びしろを図る絶好の機会と言えるだろう。また昨年のACLではアル・イティハドが決勝に進出するなど、中東諸国でも近年躍進が目立っているシリアだけに、日本も苦しめられるのではないかと好ゲームを期待した。

 シリアに限らず、中東勢のほとんどは守備を固めてからロングパス1本によるカウンター攻撃を得意としている。ボールポゼッションを高めつつ、DF陣の押し上げにより左右両サイドから攻撃のチャンスを窺う日本にとって、フル代表を始め各年代が苦手とするスタイルでもある。状況に応じて「ボールも人も動く」、オシム・サッカーの継承者である反町監督がどんな采配を見せるのかも試合の楽しみだった。

 ところが試合が始まってみると、シリアのサッカーはDF陣からビルドアップして、細かいパスをつなぎながら前線の2トップを生かす、これまでの中東サッカーのイメージを覆すスタイル。もしかしたら、こうしたスタイルの転換が、彼らが中東で成功を収めつつある要因かもしれない。しかし、高い位置からプレスを掛ける日本にとって、こうしたスタイルは最も戦いやすい相手だ。むしろ、プレスを無効にしてしまうロングパスこそDF陣にとっては戦いにくい戦法でもある。

 立ち上がりの15分ほど押し込まれたが、家長のミドルシュートで先制すると日本は落ち着きを取り戻し、23分にはFKから平山が肩にヒットするファインゴール?で追加点。後半に入ると3日前に来日した影響からか、集中力を欠くプレーが見られるようになり、平山をフリーにしてダメ押しの3点目を許してしまった。タティーシュ監督自身、時差ぼけで睡眠不足の選手がいることを前日の会見でも正直に言っていたが、まだまだそうしたタフさというか、国際経験が不足しているのだろう。

 さて、試合後の反町監督だが、試合の感想を求められて「評価の難しい試合。次の敵地での試合を正当に評価したい。勝てば全てオーケーではない。評価はビデオを見ないと分からない。自分の中で整理されていない」と正直に話していた。これと似たような感想は初戦の香港戦でも漏らしており、前半に採用した平山、李忠成、カレン・ローバーの3トップについて、「3トップは今後の相手と、チームのコンディションを見て決めることなので、今はどうするか言えない」と述べていた。

 試合中はベンチの右端に座り、じっと戦況を見つめる反町監督。コーチングエリアに出て指示を出すのは江尻コーチの役目だ。そしてチーム発足時よりコーチに就任している井原コーチは、「ベンチ入りスタッフは7人まで」という規定によりスタンドからの観戦となる(監督、コーチ、GKコーチ、控え選手のアップを担当するフィジコ、ドクター、トレーナー、雑務を担当するエキップメントなどで枠は埋まってしまうため)。

 そこで一つの疑問が沸いてくる。試合後の会見ではすぐに評価をしない反町監督。フォーメーションなどの戦術を確認する前日練習はいつも開始15分しか取材させず、その内容をオープンにしない反町監督。そして試合中の細かい指示は江尻コーチが出している。

 もしかして、現五輪チームを実際に指導しているのは江尻コーチなのではないだろうか、という疑問だ。もちろん、こうしたスタイルを採用している国もある。イングランドのクラブはコーチが練習を仕切り、監督は相手を分析してスタメンとゲームプランを決めるのが仕事となる。その典型的な例がマンチェスター・ユナイテッドのA・ファーガソン監督であり、長期政権を敷きつつコーチにはかつて名古屋で監督を務めたカルロス・ケイロス氏など様々な人材を招聘してチーム活性化している(そんなイングランド・スタイルにあって、監督が全てを掌握する欧州スタイルを持ち込んで成功を収めたのがアーセナルのベンゲル監督だ)。

 果たして五輪チームの本当の「指導者」は誰なのか。今後の試合を注意深く見守りたいと思っている。もしかしたら、ベンチワークをリアルタイムで確認できるテレビ観戦の方がそれには適しているのかもしれないが……(写真は05年のワールドユース、オランダ・ケルクラーデでのベニン戦。それまでベニンという国があることを知らなかった)。
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ジーコの亡霊

2007年03月26日 10時45分00秒 | Weblog
 オシム・ジャパンの07年初戦、ペルーとのキリンチャレンジ杯は、中村俊のFKから巻と高原がファインゴールを決めて2−0の勝利を飾った。翌日のスポーツ紙は、俊輔の精度の高いFKや、巻、高原のゴールを賞賛しつつ、オシム監督の苦言も同時に掲載するといった具合に、試合そのものをどう評価していいのか取材した記者自身が戸惑っているような印象を受けた。

 これまでのジーコ・ジャパンなら、俊輔を筆頭に紙面は美辞麗句のオンパレードだっただろう。しかしオシム監督は開口一番、「肉でも魚でもない試合だった。良くないという意味です」と、独特の表現で試合の印象を語り、必殺のスルーパスを狙いすぎる俊輔に苦言を呈した。このため、記者も俊輔を一方的に賞賛することをためらったのだろう。

 僕自身の印象としては、まず第一にペルーの巧さに驚かされた。狭い局面でも確実にパスをつなぎ、チャンスと見るや鋭いカウンターで日本ゴールに迫ろうとしていた。そこには、ピサロ、ゲレロ、ファルファンら主力選手はいないものの、現在のメンバーで出来ることを確実に遂行しようという強い意思を感じた。

 99年のキリン杯で対戦した時は、若き日のピサロを擁していたものの観光気分での来日で、試合はこれといった見せ場もなく0−0のドローに終わっている。ところが3週間後のコパ・アメリカで対戦した時には激しい攻守で日本を苦境に追い込み、ミドルシュートを次々に決めて3−2で貫禄を見せ付けたものだ。

 その時のイメージから、親善試合となる今回も観光気分で「手抜きサッカー」をするのかと思っていた。ところが10年のW杯出場を目指してスタートを切ったウリベ監督は、攻撃陣に主力がいないのなら守備的に戦いつつ、南米予選を戦うチームの土台作りにしようと、「本気モード」で日本戦に備えたようだ(事前の情報収集は札幌でのサウジ戦のビデオだったため、警戒する選手に我那覇の名前を挙げたのはご愛嬌といったところ)。

 で、日本である。前半の日本は、オシム監督の提唱する「ボールも人も動くサッカー」ではなく、「特定の選手のタレント任せ」のジーコ・サッカーに逆行している印象を受けた。本来なら前線に飛び出すはずの阿部や遠藤は、右MFに入った俊輔にいかにボールをつなぐかを考えて、極めてシンプルにプレーしていた。そして俊輔がボールを持ったら、後は彼の個人技任せでボールウォッチャーになっている(もしかしたら守備に備えていたのかもしれない。また鈴木は、ペルーの逆襲に備えてカバーリングに専念していたため、彼に攻撃的な役割を期待するのは酷だろう)。

 このためボールを持った俊輔は、前線に飛び出す「第三の動き」がないことで、ポストに入る高原か巻にクサビのパスを入れるか、右サイドが攻撃の起点になっていたので左サイドにスペースが出来たため、駒野へのサイドチェンジ(2回だけ)しか選択肢がなく、とても窮屈そうにプレーしている印象を受けた。前日の練習でトライしていた、俊輔が右サイドから中央に入って作った右のスペースを、加地が攻めあがるシーンは前半42分の1回だけ。これまで構築してきたオシム・サッカーが、たった一人の選手が入っただけで陰も形もなくなってしまった。

 ペルー戦は俊輔が戻ったことで、ジーコ・ジャパン時代のサッカーを見ているような「デジャ・ヴュー(既視感)」を感じた。では、その原因は何か。個人的な見解だが、前半のプレーヤーでジーコ・ジャパンとは無縁だったのは、DFの闘莉王とMF鈴木の二人だけだった。阿部や巻、駒野はジーコ・ジャパン時代の末期に代表に招集されている。ジーコ・サッカーを知らないのは闘莉王と鈴木の二人だけ。それでも俊輔に対するリスペクトは想像するにあまりある。待ち望んだ「海外組」の俊輔と高原が入ったことで、他の選手をそれまで構築してきたオシム・サッカーを自ら放棄し、誰もが俊輔や高原が「何をしてくれるのか」と期待する、受身のサッカーを演じてしまったような気がしてならない。

 オシム監督自身、チームが変わったという水野、家長、藤本らが出てきた後半終了間際には、すでに俊輔も高原もいないため、当然のことながらオシム・サッカーに回帰した。今後の課題は、俊輔や高原がいても、他のフィールド・プレーヤーがジーコ・サッカーではなくオシム・サッカーを表現できるか。そして俊輔はオシム監督の指摘したように、シンプルにプレーしてチームメイトを「使う」ことができるかどうかではないだろうか。
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ブログを開設しました

2007年03月12日 21時39分22秒 | Weblog
………。

ブログを立ち上げてみた(本当は友人の森雅史氏に立ち上げてもらったというのが正確なところ)。しかし、何を書いたら良いのか分からない。これが原稿なら、あらかじめテーマも字数も決まっているため、導入部のつかみから、ちょっと膨らませつつ、脱線してから核心に迫り、締めの段落はどうしよう、などと大まかなプロットは幾通りか思い浮かぶ。

そういう制約のないのがブログの利点と思いつつ、いざパソコンの前に座ると長年の習性から身構えてしまうのか、何を書いたら良いのか正直わからない。

むかし読んだ小説か漫画に、作家になりたくてなりたくて、バイト生活という困窮生活を送りながらも、ちょっとだけ余裕が生まれ、晴れて机の原稿用紙に向かうことができた主人公がいた。さて何を書くか? 小説家になりたいという夢はあったものの、実際に書く段になったら、実は書きたいことは自分には何もなかったことに気付いて愕然とするというショートショートがあった。

永島慎二さん(05年6月10日永眠)という漫画家(ドカベンの水島新司氏とは別人です)の名作、「黄色い涙」(67年に青林堂より初版刊行。74年にはNHK銀河ドラマにて放映。脚本は市川森一氏、主演は森本レオ、主題歌は小椋佳)にも、似たようなシチュエーションがあった。この物語は60年代前半の東京・阿佐ヶ谷を舞台に、漫画家を夢見る主人公の村岡英介と、彼と同居する歌手志望、画家志望、小説家志望、そして集団就職で上京した勤労青年5人がふとしたきっかで出会い、3畳一間で共同生活を送る。赤貧生活ながらもそれぞれ夢を抱いて挫折を失恋などを経験する「青春時代」を送り、やがて主人公の村岡はこのままでは誰もがダメになると提案して自立することを提案。一人になって生活のリズムも戻り、いざ机に向かったところ「おもうように書けない……!」とつぶやく。

な んだか、むかし読んで感動した漫画の紹介のようになってしまった! 「黄色い涙」は今夏、市川森一氏脚本の、森本レオと二宮和也(「硫黄島からの手紙」で好演。意外と小柄だったとは、ドゴール空港で遭遇した実兄の印象から)で劇場公開されるとのこと。僕自身が高校生だった頃に受けた感受性と現在と、果たして同じ物語を見てどんな違いを覚えるのか、自分自身の変化を知る意味でも楽しみにしている。

そうそう、このブログですが、何を書いていいのか手探り状態のため、とりあえず昨年のW杯期間中に携帯サイト「欧州サッカー通信」に寄稿したドイツW杯の原稿を「ブログ原稿」として再録している最中です。原稿を転載しつつ読みやすいよう改行など手直しをし、写真を添付する際にはフォトショップを立ち上げてマイピクチャーから写真を選び、画素数を加工して再保存してアップデートする。ブログに慣れている方なら当たり前の作業かもしれませんが、素人のため日々勉強です。ですが、こうして勉強するのも初めの一歩と、今は楽しみながら(申し訳ありません)06年を振り返っています。

僕自身、日本のサッカー界を振り返ったら様々な疑問等は出てきますが、それはさておき(いつか機会があったら)、いま現在と未来を大事にしたいと思っています。それでは今日は、これから久しぶりに公共放送の番組の「小椋佳コンサート」を楽しみたいと思います。
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ドイツW杯ブログ50 宴の跡

2006年07月10日 04時41分02秒 | Weblog
 マテラッツィに始まり、マテラッツィで終わったようなW杯決勝だった。

 開始7分にマルダーのドリブル突破を止めようとしたのはいいが、ボールに行かずに体当たりのようなチャージ。これではPKを取られても仕方がない。これでマテラッツィは今大会2回目のPKを献上してしまう。PKキッカーはジダン。彼は準決勝のポルトガル戦でもPKから決勝点を決めているが、その時はゴール左スミにグラウンダーで突き刺していた。これをGKブッフォンも読んでいたのか、同じコースにダイブする。しかしジダンの方が一枚上手だった。まるでブッフォンの動きを読んでいたかのように、チップキックでゴール中央右にボールを浮かせる。バーに当たったシュートはゴール内にバウンドして、フランスは決勝トーナメントに入り4試合連続して先制点を奪うことに成功した。

 今大会の特徴として、先制点を決めたチームはかなりの確率で勝利を収めている。どのチームも前線からの守備が徹底されているのでDFラインは強化されたこと、また暑さによる消耗戦となり、終盤に逆転することが極めて難しいからだ。このままフランスがアドバンテージを生かすかに思われたが、初めて先制されたイタリアの意地も見事だった。

 リードされたことで、これまでの6試合が嘘のように攻めの姿勢を強める。「やれば出来る」あたり、伊達に決勝まで勝ち進んだ訳ではないことを証明して見せた。そしてマテラッツィである。ピルロの右CKは絶妙のコースに飛ぶため、GKバルデスもなかなか飛び出すことが出来ない。19分にはマーカーのヴィエラに完璧に競り勝ち、値千金の同点弾で開始早々のミスを帳消しにした。

 その後は両チームとも勝ち越しの1点を巡って激しい攻防を展開した。特にフランスは後半立ち上がりに立て続けにイタリア・ゴールへと迫る。アンリとマルダーのドリブル突破は、さすがのイタリアDF陣も「手がつけられない」というくらい脅威となっていた。ここでリッピ監督は、トッティに代えてデ・ロッシ、ペッロッタに代えてイアクインタを投入する。中盤からの守備を強化しつつ、ピルロをトップ下に上げて、カウンターから決勝点を狙おうとしたのだろう。ところがピルロが中盤の底からいなくなったため、DF陣から攻撃を組み立て、前線やサイドに展開することが出来なくなってしまう。試合は1−1のまま終了し、94年アメリカ大会以来の延長戦に突入した。

 すでに延長戦では、イタリアは勝ち越しゴールを奪うことを諦めていたのだろう。交代選手のカードは85分のデル・ピエロで3枚目を使っているため、残り30分間でフレッシュな選手を投入することは出来ない。あくまで90分間での決着を目指したリッピ監督にとって、延長戦はなんとか無失点でしのぎ、PK戦に持ち込みたかったのではないだろうか。

 対するドメネク監督は、延長後半になるとアンリを下げてヴィルトールを送り込む。それまでスピードに乗ったドリブル突破でイタリアDF陣を脅かしていたアンリは、今大会最高の出来ではないかと見ていただけに、意外にも思える選手交代だった。

 もしかしたらドメネク監督も、リッピ監督同様にPK戦を想定していたのかもしれない。それでもフランスにはジダンがいる。何かを期待するには15分もあれば十分だろう。そんな矢先に、アクシデントは突然起こった。何事かを話し合っていたジダンとマテラッツィだったが、突然ジダンがマテラッツィの胸に頭突きを食らわせたのだ。主審はそのシーンに気付かなかったが、副審のアピールによってジダンにはレッドカードが掲げられてしまった。

 果たしてマテラッツィがジダンに対して何を言ったのか。今後は様々な論議を呼ぶことになるだろう。場合によってはマテラッツィに追加のペナルティが科されるかもしれない。ジダンの豹変ぶりから想像するに、人種差別的な発言があったようだ。いずれにせよこの退場劇で、決勝戦という舞台は急速に色褪せていった。

 イタリアは狙い通りPK戦に持ち込み、フランスも、延長戦に入ってピッチに送り込んだヴィルトールとトレゼゲをPK戦の第1、第2キッカーとして起用。フレッシュな選手で確実にPKを決めていこうという狙いだろう。ところがトレゼゲのシュートはバーに弾かれ、リバウンドもゴールラインを割ることなくピッチに戻ってきてしまう。イタリアは先発5人が確実にシュートを決め、82年スペイン大会以来4度目のW杯制覇に成功した。

 今大会の決勝トーナメントで、PK戦に突入したのは決勝戦で4回目だが、その前の3回はいずれも先に蹴ったチームが勝利を収めている。果たしてPK戦のコイントスで、カンナバーロはそのジンクスを知っていたのだろうか。マテラッツィの、ジダンに対する発言の次に知りたいトピックでもある。

 終わってみれば、長いようであっという間の1か月だった06年ドイツW杯。眼下のピッチではイタリアの選手たちが黄金のトロフィーを中心に、紙吹雪が舞う中を子供のようにはしゃいでいる。1か月に渡る「お祭り」は、選手、サポーターを問わず、大の大人を子供にしてしまう魔力があるようだ。それがW杯の魅力でもある。

 そして日本では、オシム氏が代表監督に就任するらしい。4年後に向けた戦いは、今この瞬間から、世界各地で始まっている。また4年後の再会を楽しみにしたい。果たしてそこにはどんな顔ぶれが揃っているのか。そして日本は4大会連続の出場を決めることが出来るのか。これからは、痺れるようなW杯予選の緊張感を楽しみたい。
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